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【神の知恵とは何か】240414礼拝メッセージ

「神の知恵とは何か」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 35節
しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。

今日のテーマは知恵です。

こんな話があります。
昔ある村で、一人の農夫が収穫の時期に大きな木の下でじっとして休んでいました。
昔、作物の収穫の時期というのは、みんなで一斉に刈り入れをします。
機械などが無いので、人数を集めて大人も子どもも一緒に集まって収穫をします。
その時は刈り入れをするために一人でも人手が欲しいものです。
しかしその農夫はみんなが刈り入れをして一生懸命働いている時に、何もせず木の下で休んでいるように見えました。
それを見てみんなはブーブーブーブー文句を言いました。
「あいつはサボっている、けしからん」「輪を乱す者だ、あんなやつは私たちの村から追い出すべきだ」と。
しかし実は彼は、木の影に隠れて、鳥などが実を食べようとする時、石や鉄砲などを使って追い払っていました。
その村では毎年鳥による被害が大きいものでした。
でも彼が木の影から石などで鳥を追い払っているうちに、鳥達はその場所に近寄らなくなり、その結果村の収穫は大幅に増加したそうです。
みんなが働いている時に、休んでいるように見えていた彼の行動は、実は、農作物を鳥から守るためにしたことでした。

このように、知恵深い人の振る舞い、行動というのは、すぐには周りの人には理解できない、受け入れられないことがあります。
知恵深い人間ですらそうであるなら、ましてや神の知恵深さは、私たち人間にとってなかなか理解し難いことがあるのではないでしょうか。
しかし私たちには一見分からない神の深い知恵は、私たちの命を救う大きな力があります。

本日は神の知恵をテーマに3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1、
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1つのめのポイントは、神の知恵とは、イエス・キリストのことである、ということです。

招きの言葉でありました。
24:コリントの信徒への手紙一/ 01章 24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

聖書では、神の力、神の知恵は、キリストであると聖書は言います。
私たちが知恵というと、たくさんの物事を知っている、とか頭の回転の速さや機転がきくことなどが知恵ある人とイメージするかもしれませんが、聖書では、神の知恵というのは、イエス・キリストのことであると言います。
神の知恵が人となって現れて下さったもの、、、それがキリストであると。
だから私たちは、キリストがどのようなお方で、この地上でどのように歩まれ、そしてキリストの発せられた言葉を見ていくなら、私たちは神の知恵が段々と分かっていくのです。

そう、神の知恵の奥深さはキリストに現れている、と。

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2、
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では神の知恵であるキリストがこの地上に来られた時、人々はどのような反応をしたのでしょうか。
2つのめのポイントは、神の知恵は、拒まれることがある、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 27節
『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。/彼はあなたの前に道を整える』と書いてあるのは、この人のことだ。
28:ルカによる福音書/ 07章 28節
言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない。

ヨハネは、神の知恵であるキリストが来られる前に道を整えた者です。
だからヨハネは民達に言いました。
私の後に、大いなる救いの光が来られる。だからその前に道を備え悔い改めよ、と。
悔い改めて、この神の知恵であるキリストを受け入れようではないか、、、このようにヨハネは人々に宣べ伝えました。
このヨハネについてキリストは、ヨハネよりも偉大な者はいない、と言います。
これは、ヨハネ自身がもっとも素晴らしい人格者である、というより、神の知恵であるイエス・キリストに最も近い時に生きた預言者という意味で偉大である、大きい者であるということです。

しかしです。
ルカによる福音書/ 07章 30節
しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼(バプテスマ)を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。

律法の専門家たちは、偉大な洗礼者ヨハネが悔い改めを求めた時、彼らはそれに応じませんでした。
さらに彼らはヨハネだけでなく、キリストも拒みました。
なぜなのか。

当時聖書というのは旧約聖書のことを指します。
ファリサイ派、律法学者達というのは一生懸命聖書を学びました。勉強しました。
もちろん聖書を学ぶことは大切です。
しかし聖書を学んでいく中で彼らは、神というのはこういうお方である、いやむしろこのようでなければいけない、という神の像を作ってしまう。
「神はきよいお方である、神と一緒にいれるのは、律法をきちんと守り、良い行いを続けた人間でなければ神と一緒にいることはできない」と。
だからきよい神が、罪人と一緒に食事をするなんておかしいじゃないか、と。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 34節
人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。

実際に神が人としてこの地上に来られ、一緒に食事をしたのは、きよい生活をしていたファリサイ派の人たちや律法学者たちではなく、きよい生活とは程遠い人達である徴税人、罪人達と一緒にワイワイ一緒に食事をしていました。
だから律法学者達は罪人と一緒に食事をするようなイエス・キリストを神の子として受けとめることができませんでした。
自分たちの神とはこうあるべきだ、こうすべきではないか、という自分の知恵、知識に当てはめてキリストを見ていたから。
その時ずれるのです。大きくずれてしまうのです。
自分たちの思い描いていた神と、今目の前にいる、神の知恵であるイエス・キリストを見た時に、あまりにも違いがありすぎて、認められないから。
これは神の知恵より、自分達の知恵・知識の方が正しいと思ってしまうからです。
その結果、神の知恵であるキリストを見た時に、罪人と楽しく食事をしている姿を見て、あいつは大食漢であり、大酒飲みだ、と神の知恵であるキリストをも裁いてしまう。

ヨハネに対しても律法学者達は拒みました。
ルカによる福音書/ 07章 33節
洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』
と言ったのです。
ヨハネが荒野で、清い生活を誰よりもしていても、律法学者や多くの人はそれを認めようとせず、あのヨハネという男は気が狂っている、悪霊に取りつかれていると言いました。

このように当時の律法学者達は、人々に悔い改めを求め、きよい生活をしているバプテスマのヨハネに対しては、悪霊が取りつかれている、と言い、方や徴税人などの罪人、貧しい人たちと分け隔てなく喜びの食事をしている恵みのキリストに対しては、あいつは大酒飲み、罪人の仲間と言って、結局ヨハネを、そしてキリストを受け入れませんでした。

それは自分たちの知恵の方が神の知恵よりも正しいと思ってしまうから。
私たちの方が正しい、聖書知識もあり、神のことをよく知っていて、正しい知恵がある、だからその知識に当てはまらないヨハネやキリストは間違えている、あいつらは気が狂っている、罪人の仲間であると裁くのです。
だからヨハネやキリストを通して実現なさろうとする神の救いの喜びも、一緒に喜べなくなるのです。

神は、ご自分の知恵であるキリストを人々に受けとめてもらえない悲しさを嘆いています。
ルカによる福音書/ 07章 31節
今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。何に似ているか。
32:ルカによる福音書/ 07章 32節
広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。/『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/泣いてくれなかった。』

笛を吹いたのに一緒に踊ってくれなかった、、、それはつまり、救い主キリストがこの地上についに来た、人間の救いの実現が近づいた、これほどの喜びはない、と神は喜んでいた、にも関わらず、人間は一緒になって喜んで踊ってくれなかった、むしろ大食漢、大酒飲みだと言って拒んだ、神の喜びを共に分かってくれない悲しみです。

また、弔いの歌を歌い、一緒に喪に服そうとしたのに、一緒に泣いて悲しんでもらえなかった、、、これは神がヨハネを通して人々に罪の悔い改め、、、それは人間が神の愛を忘れてしまう罪深さ、悲しさを求めたのに、人々はヨハネを受け入れずに一緒に悲しんで悔い改めてくれなかった、この神の嘆きを表していると思います。

このように神の御心を拒んでいった当時の律法学者達、、、しかし神の知恵を拒んだのは彼らだけのことでしょうか。
私たちにも通じることがあると思います。
もっと世界が平和になるようになったらいいのに、神はなぜあの悪いリーダー達をやっつけないのか、また、私たちの身近で困っている人がいてもなぜ神はその人を助けないのか、そのように疑問に思う事があります。
本当は、もうすでに神が私たちの目には見えない深いところで、働いておられるかもしれないのに、私たちは簡単に自分たちの知識・知恵を基準に神を裁くのです。
自分達の知恵や判断の方が、神の知恵よりも正しいと思うから。

そう、私たちは神がこの地上でなさろうとする神の深い知恵を拒み裁いてしまうことがある。
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3、
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では私たちはどうすれば良いのでしょうか。
3つめのポイントは、神の知恵を受け入れ、証ししていく、ということです。

ルカによる福音書/ 07章 29節
民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼(バプテスマ)を受け、神の正しさを認めた。

律法学者たちとは違い、一部の民衆や当時罪人と言われていた徴税人達は、ヨハネから洗礼を受けました。
洗礼をうけること、、、つまり、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、甦ることを信じ、認めることです。

神の知恵であるキリストのこの地上でなされたことは、私たち人間には一見愚かに見えます。
この世界を造られた力ある神の子であれば、十字架にかかって弱々しく死んでいくことを、誰が素晴らしいと言って受け入れていくでしょうか。
何も罪を犯していないなら、きちんと無罪を証明すればいいじゃないか、また、力強い裁きの剣をもって、悪人を切り倒せていけばいいのではないか、と思うからです。
しかしキリストは黙って、十字架にかかりに行かれました。
自ら十字架の道を進んで行き、命を落としました。
全能なる神が、命の根源者である神が、自ら造られた被造物である人間に殺されていく、、、これほど愚かなことはありません。
しかし十字架にかかって死ぬという、もっとも愚かな姿の中に、実は神の深い深い知恵がありました。
それはキリストが十字架にかかって死なれることによって、私たちに必ず襲いかかる死を一身に十字架で受け、代わりにキリストが持っておられた永遠の命を私たちに与える道を打ち立てられたからです。
それによって今私たちは、罪赦され、救いの喜びによって生きることができるようになりました。

この、神の知恵であるキリストの十字架と復活を認め、受け入れること、、、それは言い換えると、自分たちの善悪の知識、知恵が一番正しいと思うのではなく、神のなさることが一番正しいと認めることです。
神よ、私の知恵ではなく、あなたの知恵こそ正しいです、、、このように自分の正しさを手放すことです。

私たちも神の知恵であるイエス・キリストを受け入れた時というのは、今まで培った自分の常識や知識を手放し、御言葉を信じ受け入れていったからではないでしょうか。
たとえば、今まで進化論が当たり前だと思っていた。ビッグバンから宇宙は誕生し、人は偶然生まれるものだと思っていた。しかし聖書には神が人間を造ったと書いてある。なんて非科学的で馬鹿げているんだ、、とかまたは、
ただキリストの十字架と復活を信じるだけで救われる?普通は良い行いをしたり親切にしたりして一定の基準をクリアできた人が救われるんではないか?
このように今まで自分が培ってきた知識や知恵が正しいと思っていると、聖書の言葉を受け入れられず、ぶつかります。衝突します。
しかし様々なきっかけ、、、その多くは大きな問題が重なることによって、今までの自分の知恵や知識ではどうにも解決できなくなることがあります。
病や、人間関係の破綻、仕事の行き詰まりなど。
そして何より自分が死んだら自分の命・魂は一体どうなるのか、という死の問題に対して私たちの今までの知恵や経験では解決できないことに気付きます。
その時に、キリストの十字架と復活の事実を聖書を通して知るのです。
最初は信じられなかったけど、もし聖書の言っていることが本当だったら、と。
つまり、本当にキリストが十字架で私の罪を全て引き受けて、私の代わりに死ぬことによって私の罪が全て赦され、そしてキリストの復活の命が与えられ永遠に生きる者となることが本当に自分の身に起こったら、これほど良い知らせはないのではないか、、、。
このようにして、今まで正しいと思っていた自分の知恵を手放し、神の知恵であるキリストを信じ受け入れ救われていったと思うのです。

このキリストの十字架と復活による救いは、キリストがこられる時代よりはるかに偉大なものです。
28節後半、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
これは、イエス・キリストによって救われ、神の国に入る人は、キリストが来られる前の時代で最も偉大な人であったヨハネよりも大きい者となる、そうキリストは言います。
ヨハネまでの時代は、律法と預言によって救いが示されてきました。
しかしキリストが来られてからの救いは、それまでの救いよりはるかに素晴らしい十字架と復活による救いです。
だからキリストの十字架と復活によって救われ、神の国に入る人たちは、それまでの預言者たちよりも偉大であると。
そう、今や私たちはバプテスマのヨハネが授けた救いよりも遥かに大きい救いの喜びの中に、キリストによって入ることができるようになりました。

だから私たちは、
ルカによる福音書/ 07章 35節
知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。

知恵の子、、、これはキリスト者のことです。
キリストを受け入れ救われた私たちは、今度は、神の知恵、キリストによる十字架と復活の救いが何よりも正しいということを周りの人に証明していく者となる。
神の知恵であるキリストによる救いの喜びを受けた私たちは、生きる証し人となって、周りの人に伝えていく、、、これが私たちキリスト者の生き方です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 35節
しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。」

今日は神の知恵をテーマに3つのポイントで見てきました。
1、神の知恵とは、イエス・キリストのことである
2、神の知恵は、拒まれることがある
3、神の知恵を受け入れ、証ししていく

神は今日も私たちに言われます。
「私の知恵は、すぐに人々には理解されないものだろう。
あなたたちもそうだった。
最初は拒んだ。
しかし悔い改め、自分の知恵の正しさより、私の知恵の正しさを認めた。
それによって今や神の子となり、御国に入ることが約束されている者となった。
さあ、今度はあなた達が出て行って、この神の知恵であるキリストを証しするものとなりなさい」

だから私たち教会は、一見理解し難い、愚かにも見える、神の知恵であるキリストこそが正しいことをこれからも証ししていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちは知恵深い人の行動をすぐには理解することはできません。
ましてやあなたの知恵の現れであるイエス・キリストのことを理解することはなおさらです。

理解できないキリストのことを私たちは、大食漢で大酒飲み、罪人の仲間だと批判してしまう者です。

どうか自分の知恵知識が一番正しいと思うのではなく、あなたの知恵であるキリストこそ、私たちの最善のために、死から救うために送られた方であることを受け入れていくことができますように。
そしてあなたの知恵が最も現される十字架と復活を証することができますように私たち教会を用いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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