及川聡子の「光」と「音楽」の降り来たり

描きえないものを描く。見えないものを見せる。それは、絵画において長く追及されてきた試みだった。表象不可能な何事かを表象する、といったとき、そこで不可能なものとは、そしてその歴史性とは何だろうか。古く長い問いを、否定神学として簡単に棄却してはいけない。世界史に現われた「描き」の「質」の多くは、その問いに、ぎりぎりまで粘ることで獲得されてきたのだから。

だから、重要なのは、問いの新しさ/古さではない。むしろ、いかに古い、すなわち、人間にとって基底的な問いを手がかりに、今までにない「質」へ手を伸ばすかが、ここでの芸術という営みにおいて問題なのだ。

あらかじめ宣言をしておくが、ここでは「日本画」という問題設定について関心を示さない。墨や和紙、また胡粉でも膠でもいいがそのような各種メディウム、描画材の使用についての技法的体系およびジャンル成立の歴史的背景については一定の議論の備蓄は既にあって、必要ならば参照することもできるだろう*1。けれども、あえてここで「日本画」とは云々、といった議論の枠組みを持ち出すことに、アクチュアリティは存在しない。どうしても、というならば「日本画」という問題設定を変わらず掲げることで延命している言説産業、「アリバイ工作としての日本画の検討」について書くことになるだろうが、つまり私はそこに関心がない。

実際、中村屋サロン美術館で開催された及川聡子展「光ノ萌」(ひかりのきざし)で開示されていた作品群の示す空間構造は、そこで使われている基底材が麻紙や楮紙、また画材が松煙墨、岩絵の具であったとしても明確に西欧を含んだ、広域の美術史的精神を踏まえているものだった。というよりも、むしろそのような描画材の高度な駆使が、日本にまったく留まらない造形構築を可能にしていることに驚きがある、とは言えるかもしれない。たとえば2012年の作品《咲》に、ジョージア・オキーフを連想する観客は一定数いるだろうが、その浅く空間をうがちつつ前後に複雑に入りくむ画面からレリーフ的なインスピレーションを得ることは可能なのだし、だとすればここで『造形芸術における形の問題』を書いたアードルフ・フォン・ヒルデブラントを召喚することは論理的に正しいはずだ。*2

画家・及川聡子の名前を高くしたのは、煙を描いた「香焔」「水焔」のシリーズだろうと思われるが、しかし、今回の展示で確認されるのは、これら形のないもの、形の定まらないものを描いてきた及川が依拠しているのが、茫洋としたぼかしの炎と細密な蛾の描写を対比させている《炎舞》の速水御舟などではまったくない、ということだ。及川が煙に断固とした形態を与え、その複雑なフォームをほとんど建築的といっていい実在性をもって組み立てている事に注目すべきだろう。その様はフランク・ステラのレリーフ・シリーズへの連結可能性を胚胎するはずのもので、その意味で「香焔」「水焔」といった展開は、先行する《咲》を含む「薄氷」のシリーズから地続きの課題をもつことが見て取れる。

2017年の《光ノ器》などは、スケールと複雑な流線的形態にザハ・ハディドのような未来性を示唆する建築家を連想させかねない。ありていに言って「日本画」という問題構成からはほぼ自由な作家が及川聡子だ。この作家の「空間」への意思は、ひとまず「彫刻的」資質と呼ぶほかはないことが、「光ノ萌」展の奥の会場に進むと隠さず示されるのだが、ここには及川本人による塑像が一点、展示されている。彫刻家・及川茂を父親としてもち、その父は遠く高村光雲の流派に連なる履歴の持ち主であることを考えれば、言わずもがなであるかもしれないのだが、しかし、すでに述べたように及川のもつ美術的な素養は確実にヨーロッパ、またガンダーラ以西を含む広い美術的潮流に源があることは繰り返し確認したい。及川の描く人物像の、くっきりとマッスをもった頭部の立体性はギリシア以降の空間の「質」を見せている。このギリシア性の「質」を、見定めること。

同時に誤解を避けるべきは、及川の塑像する空間は、しかしそれそのものが主題になるとは限らない、ということだ。むしろ描き出される空間は、そこに何かが降り来る場所の準備(及川の言葉を使えば「器」)として建造されている。たとえば及川が近作で試みる《聴くひと-夢》(2018年)や《寄り添う》(2018年)の人物像は、その主題も含めメロッツォ・ダ・フォルリ《奏楽の天使》(1480-83?年)を想起させる。これに思い至れば、出品作の一点の人物画の背に、薄く翼が描かれていることの意味合いがより読み取れるだろう。無論、メロッツォ・ダ・フォルリは「天使」を描こうとしたのではない。決して絵に描くことができない「奏楽」を、天使を描くことで画面に響かせる、その手がかりとしてあの描きがあることは前提として了解されなければならない。

及川聡子においても同様なのだ。及川が描く薄氷が、煙が、人物が、いかに徹底して造形されているか、そしてその造形は何を呼んでいるのか。その呼びかけ先が問題になる。画家の深い場所に刻まれているのだろう信仰の精神が、及川の絵画的資質と分かちがたくあることに了解を得ることができるのが「光ノ萌」展で、実際、及川の作品は描きえないものを朦朧体あるいはそのほかの日本画的な処理で暗示するのではなく、また、これみよがしに「なんでも描ける」技法を見せているのでもない(つまり見えるものを見えるままに描いて事足りる「写実」絵画でもない)。むしろ「描き切ることで、その描きの先に描きえないものが降り来る」、といった神学的指向性が、他のどこにもありえない「質」を響かせる。

その「質」こそが聴取されなければいけない。この画面は、だから、聞こえない、描けない音や光を召還する装置だともいえる。及川の作品は思いがけず観客の積極的な関与、言い換えれば「観想」(アリストテレスからグノーシス派に由来するこの言葉を及川は拒絶するかもしれないが)を要請してくるのであって、私達は及川の作品をゲートとして稼動させる必要がある。その意味で「水焔」シリーズと人物画を組み合わせている《Incarnation》(2018年)は、ある種の覚悟、集大成的な大作とも見える。ただし、及川の奇妙に孤独を感じさせる制作の連なりは遙かに先まで展開可能なもののはずであり、《Incarnation》もまた行程のメルクマールとしてあるべきものだろう。次に及川の描く「光」が、「音楽」が、どのような形で降り来るか、私は見定めてみたい。

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*1 いくつかの参考文献があるが、ここでは北澤憲昭『「日本画」の転位』(ブリュッケ、2003年)を挙げておく。
*2 アードルフ・フォン・ヒルデブラント『造形芸術における形の問題』(加藤哲弘訳、中央公論美術出版、1993年)

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