個展「少し暗い 木々の下」に向けて(草稿)

「世界は、ふりそそぐものの総体である」とヴィトゲンシュタインが書きつけたとき、私たちは近代の枠組みから、この世の輪郭をようやく正確に解体する準備に取り掛かれたのかもしれない。私が、今、もう一度「世界」をつかみ取り直したい、と思ったなら、私は、ふりそそぐものとしての私をつかみ直さなければならない。

しかし、ふりそそぐものの総体としての宇宙は災害的かつ壊滅的である。真空を宇宙線が飛び回る宇宙に私が剥き身で対面すれば、強力な被ばくが私を貫通し、圧力差によって私は弾けてしまうだろう。

だから、このもろい身体を持った私には、バン・アレン帯が、大きなひさしが必要になる。ふりそそぐものの総体としての世界に直接身を晒すと、一瞬で死んでしまう人間は、数万年をかけて、「芸術」というたてものを組み上げてきた。

「美術」とは、つまり「近代美術」とは、そのような「芸術」の営みの中で生まれた、特殊な構造=梁と柱である。この梁と柱は強力であった。強い梁と柱を批判的に再構築しようとして生まれたはずの「現代美術」は、洗練の極みにあって、静かに終わっている。ごくシンプルに言うならば、「現代美術」は、解体するつもりの「近代美術」に結果的に依存し、自らの支えとし、「近代美術」の梁と柱の上にあまりに精緻な屋根をかけてしまったことで、ふりそそぐものの総体としての世界から、私たち自身を完全に隔離してしまった。

もう、この「閉じこもり」の息苦しさを、鋭敏な人々は了解している。「現代美術」の屋根を、私たちは壊さなければならない。雨漏りは、なんとか少しづつ実現はしつつあるが、しかし、それは十分ではないし、また、単なる屋根の破壊だけでは私たちは単に改めて死ぬだけである。「雨漏り」ではいけないのだ。単にふりそそぐものとして自己を解体しふりそそぐものとしての世界に身を解体するのではなく、また、精密な屋根の下で死んでいないだけの生き残り(アーティスト・サバイバル!)の自己目的化だけを生きていくのでもない、不意に鼻の頭に落ちてきた雨粒の衝撃に身を震わせる、そのような場所を作らなければいけない。

たとえば、道端にある大きな木の下で、少しだけ雨宿りするようにして、「世界は、ふりそそぐものの総体である」という事実と向き合うこと。茂る八月の緑のように、世界を遮断もしなければ世界にそのまま溺死するのでもない、離散的・確率的な場所として、芸術を建て直すこと。現代建築としての現代美術から外に出て、しかしとりあえず、ひさしの下から一本の樹木を育てていくこと。そこで、葉と葉の間からこぼれおちてくる粒子に、不意にぶつかること。芸術を覆い尽くす現代美術ではない、新しき美術を、そのように構想すること。

以上述べたことのほかに、つぎのことを信ずべきである。すなわち、もろもろの世界も、また、われわれの世界でたえず観察される事物に似た形をしたいずれの限られた大きさの合成体も、すべて無限なもの(原子と空虚)から生成したのであり、それらは、大きなものも小さいものも、すべて、特殊な原子集塊から分離したのである。そして、それらすべては、ふたたび分解される、すなわち、或るものは速やかに、或るものは遅く分解され、また、或るものはこれこれの原因により、他のものはしかじかの原因によって働きを受けて、分解される、と信ずべきである。さらにまた、これらもろもろの世界が、必然的に、ただ一つの形状もって〈生成したの〉ではないと信ずべきであり、〈しかしまた、任意にどんな形状でもとって、生成したのでもない、と信ずべきである。さらにまた、あのすべての世界にも、動物や植物やその他われわれの世界で観察されるとおりのあらゆるものがある、と信ずべきである。〉というのは、動物や植物やその他われわれの世界で観察されるあらゆるものの出来るもとになるような種子が、或る世界には、包み込まれることも包み込まれないこともありえたが、他の世界には、ぜんぜん包み込まれなかったであろう、というようなことを、なんびとも論証しえないであろうから。(エピクロス、「ヘロドトス宛の手紙」Ⅶ もろもろの世界の生成と消滅、形状、そこでの存在物)

現代美術は消滅し、新らしき美術が生成する。


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