ドラマ「無言館」の宛先は、どこなのか
24時間テレビ内のドラマ「無言館」を録画で見た。まず作品以前の話として、僕はこういった枠組みのドラマが嫌いだ。“愛は地球を救う”といったキャッチフレーズの特番が、そしてその企画の一環として日本の敗戦した8月に戦没画学生を扱ったドラマを制作するという企画意図が嫌いだ。
それでも「無言館」を見ようと思ったのは、本作の監督・脚本を担当した劇団ひとりに関心があったからで、きっかけは劇団ひとりがやはり監督した映画「晴天の霹靂」(2014)の予告をyoutubeで見たことにある。本編は未見なのだけど印象がよく、たまたま家族が録画していた「無言館」を、ちょっと見てみようかという気になった。無言館については、先行するインタビューなども読んでいて関心があった(ドラマ自体は事実を基にしたフィクションと明示されている)。
開巻直後の浅野忠信演ずる窪島誠一郎の、無精髭を汚く剃り残した表情を見て、ああ、これは面白いかもしれない、と思ったら、最後まで見てしまった。
僕はこの作品を、傑作だとは言わない。先に書いた企画の前提に違和感があるだけではない。作品の細部や演出、脚本にまで「それはどうか」と感じながら見ていた。信濃デッサン館で窪島が一人晩酌をしている、そのテーブルにあったボックスティッシュが、どうも設定された時代(1990年代か)のそれに見えない。冷蔵庫も新しい気がしてしまう。逆に「時代」を象徴させる、窪島と寺尾聰演ずる野見山暁治の乗り回すクルマが古すぎるように(つまり誇張的に)見える。このあたりは時代考証の問題だし、妙に近い過去を扱う難しさもあるだろう。90年代をよく知っているつもりの自分の感覚を絶対視し過ぎなのかもしれず、したがって考証的には正確なのかもしれない。とはいえ、結果的にそういった細部に目が行ってしまった。
演出的にも安易だと思える箇所が目立った。一度、戦没画学生の遺族の元を訪れて歓待を受けた、その家に窪島が再訪すると、主人の座っていた椅子が空席で画面を横切る。ここで主人の死が先取りされる。やはり窪島が遺族を訪れた先で心無い言葉を受け、逆ギレして遺族の工場を出ていくときの「怒りの表現」としての機械の火花とか鉄槌とか、平易な暗喩を使っているのは、ちょっと白けた。信じがたかったのはドラマのクライマックスといえる画学生と恋人の再現ドラマの後のアニメーションで、その映像的水準を含め、単に切ったほうが数段作品の緊張感を高めただろう。
車移動中にかかるクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「Have You Ever Seen the Rain?」の使用はこの曲についてあった「ベトナム戦争への反戦歌」という噂に由来するのかもしれないが、戦時中、満州から病気を理由に帰ってきた野見山暁治の後ろにかける曲として(そして第二次大戦の戦没画学生の遺作を集めるシーンの曲として)、どうにも適切に見えない。ロードムービー感を出したかった、とかならあんまりである。窪島が村山槐多を持ち込む売り込み先が、画廊どころかどうみてもリサイクルショップなのはジョークなのだろうか。僕は面白くなかった。面白いのはいびきを含めどこかエゴイスティックな野見山と窪島のかけあいで、ここは文句なしに良かった。
こういった難癖をつけながら、僕はこの作品を一気に見た。なぜなのか。浅野忠信の芝居が、一貫して善人に落ち込まないというのはある。セリフでは相当早い段階で「改心」して善人になりかかっているのだけれど、あの汚い無精髭と長髪で、あくまで俗な商売人の空気を纏い続けている、その空気だけでこの作品は「偽善」を「偽善」として正面切って描くことに成功している。これを浅野の演技だけの功績には帰せないので、やはり演出を含めた作品の魅力だと思う。
また、寺尾聰の、遺族を回る先々で見せる表情、そして「疲れた」といって途中で離脱するところは、はっきりと「戦争から逃げ」、「戦後に成功した」日本人を象徴させていて、これはかなりすごいところでもある。一般にこういった戦没者を扱うフィクションでは、漠然と戦争を天災のようなものとして描き、戦後の経済成長を謳歌する日本および日本人の責任を見せない(NHKの朝の連続ドラマなどが典型)ものだけれど、寺尾聰演ずる野見山暁治は、自分がけしかけた戦没画学生の遺作収集からも逃げ出すことで、見事に戦争から逃げ出してきた戦後の僕(達)を画面に焼き付ける。この暗喩は強く、他の安直さを感じさせるシーンはどうでもよくなる。
しかし、本質的には、つまり僕がこの作品をつい最後まで見てしまったのは、この作品の宛先は、もしかして、僕のような一般の視聴者ではないのかもしれない、と感じたからだと思う。これは、けして企画者や監督の意図を言い当てようとして書いているのではない。企画者や監督の意図とは別に、この映像作品の「質」(その「質」にはここまで書き連ねた「駄目な質」も含まれる)の行き先が、作品それ自体として「死」に(死者に、ではない)向かっている、あるいは少なくともその契機を持っていると感じた、そういうことだとい思う。
作品冒頭、招集を受けた画学生は、自宅近くの道端の大木を描く。そこで窪島は、絵が「普通」であることに、つまり「劇的」でないことに驚く。これが「無言館」設立への起点になるのだけれど、ここで戦場に向かう画学生の絵が「普通」であるがゆえに話が展開し始める、というシーンは、このドラマの基底を貫いている。
死が、しかし「普通」と繋がっている。このトーン、あるいは「自問」が重要であることに僕が気づいたのは、戦没画学生の描いたヌードのモデル(檀ふみ)が無言館を訪れた、そこでかなり長く語られるモノローグでだ。
脚本的にも、また演出的にも冗長で説明的で、この後のアニメーション並に洗練されているとは言えないシーンなのだと思う。起伏の乏しいドラマで、唯一の盛り上がりを作る必要性に迫られただけのシークエンスであるようにも見える。しかし、その「なければいい」シーンを長々と見ている間に、そもそもこの作品(繰り返すが作者ではない)が向かおうとしている先が、「普通」を断ち切って現れた「死」にあるような感覚を覚えた。戦時下でも、多くの国民が「普通」に生活し、若い世代は「青春」を送っていた。そこに、戦争/招集という「死」がやってくる。職業軍人ではない学生を招集するような戦争は、言うまでもなく負ける戦争で、その「死」が、ヌード、性と結びついた生としての絵を描かせる。
ドラマ「無言館」が、ある種の質、けして傑作と言えない面を含めた質を取り込み得たのは、この「自問」を手放さなかったからだと思う。美術的には絵の撮影について、例えば無言館開館のシーンでは、真っ暗な館内の映像のままであれば良かった。そこにやたら人工的に陽が入るのは、そのあとの作品モチーフのアニメ化と並んで残念だった。ただ修復者のシーンと技術的な解説は良かった。絵を回復する、その行為が単に心理的なものでなく、構造的・組成的な土台をもっていることが示された。
実在する「無言館」には、いつか行ってみたいと思う。
https://mugonkan.jp/
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