批評的であることの根拠

2021年9月20日、美術史家・美術批評家で上智大学教授の林道郎氏が、セクシャルハラスメント・アカデミックハラスメントで元教え子の女性から提訴されているとの報道を僕は読んだ。林氏は「指導教官という立場ではあったが自立した成人同士の自由恋愛をしていたに過ぎない」と主張しているという。

画家としての僕はかつて林氏に、自主企画展「組立」でトークイベントや鼎談を依頼し受けていただいた。さらに林氏が責任編集の一人となっていた美術批評誌に編集協力という立場で参加した。編集協力を僕は2019年に退いたが、参加の過程で林氏には様々な形の示唆を受けた。林氏の著作や翻訳、シンポジウムなどいずれも貪るように受容した。僕が今、画家として活動している基礎の一定部分は、林氏に負っている。

その立場からしても、報道から知ることのできる林氏の主張は論理的でない。大学院の既婚の指導教員と学生で対等な「自由恋愛」など成立しない。卒業後のことを言っているのだろうが、そもそもの始まりが間違っている。個別の事実関係は今後、裁判を通して明らかになるのかもしれず、また裁判結果はどうなるか分からない。が、司法判断以前の話として、林氏の振る舞いはおかしい。

今回のことで傷ついた女性の立場と尊厳は最大限に尊重されなければならない。

僕は林氏の仕事の大きさを知っている。また紳士的な言動を記憶している。だからといって、そのことを理由に今回の件について林氏を擁護したり、ましてや女性の訴えを矮小化するような行為は、いまも弱い立場にいる人を直接間接に、更に傷つけることになる。

林氏の仕事への評価と、今回のハラスメントは切り離して考えるべきだと言う人がいるかもしれない。だが果たしてそれは正当だろうか。今考えるべきは「仕事の評価」や価値の体系がいかに成り立っていたのか、ではないのか。林氏の紳士性をいうなら、それを影で誰がどのように支えてきたのか。

美術の仕事場に、弱い立場の存在を踏み台にし、透明化する仕組みがあるのではないか。というよりも、問われているのは林氏の仕事を、疑いを挟まず素晴らしいとしてきた、自分自身なのではないのか。

美術は先行する価値体系に拘束される。だからその価値体系そのものを疑わなければならない。自らを拘束しているものは、鎧のように自らを守り支えているものでもある。だから、それを疑い更新していく作業(僕が「批評」と呼んでいるもの)は、かならず自分を支えているものを崩し、自分を守っているものを剥ぎ取る行為になる。

こういった言明が、もうすでに危ない。個別具体的な出来事を抽象化してしまうかもしれない。「林氏の行為は林氏個人の問題ではなく、美術全体の問題なのだ」といった紋切り型、ことばのテンプレートは、ひとつひとつのハラスメントを一般化し無害化する。

上智大学はメディアの取材に対し「個人間のこと」などと返答しているようだが、こんな対応はありえない。すでに学生たちから要望がでている。上智大学は誠実に答える義務がある。また、林氏は東京造形大学でも教鞭をとっているが、同大も学内での林氏の行為に問題がなかったか調査するべきだと思う。

いずれにせよ、僕は自分の仕事をすすめる他にないと思っている。だが、すすめかた、足元をどう確かめたらいいのか。僕は絵描きであって美術批評家でも評論家でもない。同時に、現在を生きる美術家の条件として「批評的」であろうとしている。その「批評」の価値の根拠はどう洗い出すことができるのか。

元から事態の難しさは、何も変わっていないのかもしれない。とはいえ、何をするにも、足場は仮構せずにいられない。絵を描くとき、木枠は画布が張られるテンションを支えて画布とともにキャンバスを構築するのだし、絵の具は一定の時間を経過すれば乾燥し上に乗る絵の具の下地となる。張ったキャンバスが突然弾け、乾いた下層の絵の具が急に溶け出し画面を破壊する、そんな状況がきたら呆然とするしかない。見込みが、検証が甘かった、そう思って僕は改めてキャンバスを組み上げる。なんの保障もないところに自分を投げ入れる、その先が全て空虚だとしてもだ。

僕は知りたい。林氏は今、なんの仕事をどう進めようとしているのか。林氏の仕事は、無給の女性アシスタントがいないと出来ないのか。

セザンヌ論はどうするのか。

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