「bilocation/dislocation」レビュー「古谷利裕作品を批評せよ」について

アートコレクターズ9月号に、先の古谷利裕個展「bilocation/dislocation」レビュー「古谷利裕作品を批評せよ」を寄稿しました。

このレビュー中、僕が書いた(古谷氏における)内密化の懸念について、古谷さんがブログ「偽日記@はてな」で応答されています。古谷さんはXアカウントをもっていないかも、と思うので、お返事をこちらで書きます。

古谷さんとすればおそらく「これ以上どうしろというのだ」と言いたいところを、そうは書かずに辛抱強く拙レビューを読み、そのうえで自らの姿勢を訴えています。個展と併せて開催された連続講座や発刊された小説集を外しても、古谷さんは今回の展示でステートメントを出し、会場に説明文も張り、前回二〇一五年の個展「人体/動き/キャラクター」の作品の一部を再出品して今回の新作との連続性と切断を見せ、さらに井上実さんと僕の二人と公開のトークイベントをして、かつそれぞれ冒頭でしっかり時間をかけて自作の説明をされている。

作り手としてはほとんどやれることを全部やって、初見の観客にも意図が伝わるように努力されています。ここまでやって「内密化」とか言われても困る、というのは当然です。そしてそのうえで(たぶん忍耐を発揮されて)、僕のレビューの意図を読んでくれています。筆者としては感謝しています。この「内密化」については、僕のような古谷作品の受容者の問題でもある事は文中に示したとおりです。

今回の古谷さんの応答に大事なことが書かれています。美術界における「文脈」が「人脈」に同化しているのではないかという指摘です。「人脈」は「文脈」の一部ではあっても全部ではなかった筈ですが、コンセプトや理論といった文脈を構築するものが退潮していっている現在、「文脈」とはほとんど「人脈」それ自体になっている。実際、今、日本の美術界で居場所を作ろうと思ったら、この種の「人脈」作りは、批評どうこうなどより遥かに重大な意味を持っているのかもしれません。だとしたら大変に重い。

もうひとつ、これは本筋と異なりますが、古谷さんは吉本隆明の『マス・イメージ論』が「つまらない」のに対し、『ハイ・イメージ論』はそうではない、と書かれています。これは僕も同意見です。『マス・イメージ論』に対し、古谷さんは「柄谷はわからないのではなく、つまらないと思っていたはずだ」と書いていて、それはそうかもしれませんが、少なくとも僕はベタに分からなかった。にも関わらず、『ハイ・イメージ論』は読める、そして「おもしろい」。

それが、『マス・イメージ論』の「わからなさ」を反省し修正した結果でなく、むしろ(古谷さんも言うように)『マス・イメージ論』を分からなくした「独自研究」をがんがん進めた先に出てきた結果なら、それはなぜなのか。僕は吉本を(90年代には批判的な風潮であったにもかかわらず)読みましたが、いわゆる「吉本読み」といった人々と知りあう機会もなく、吉本研究の中で『ハイ・イメージ論』が『マス・イメージ論』との関係でどう扱われているのかも無知です。もしこの点を考えている本なり論考なりがあれば知りたいし、古谷さんのお考えも知りたいと思います。

脱線しましたが、「bilocation/dislocation」は、重要な展覧会であったことは改めて確認したいと思います。美術「界」の「文脈」などと無関係に、そういった出来事が起こりえる。例えば今年2月にあった境澤邦泰+松井勝正「壁と絵画」展もそうだった。これ自体が希望だと思います。以上です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?