イメージの「のこりかす」の「のこりかす性」を追う・リヒター展

東京国立近代美術館で、リヒター展を見てきた。僕の率直な印象としては食い足りない。奇妙に閉塞している。しかし、この閉塞感は、思いの外検討を要するように思える。公式サイトには以下の文言がある。

画家が90歳を迎えた2022年、画家が手元に置いてきた初期作から最新のドローイングまでを含む、ゲルハルト・リヒター財団の所蔵作品を中心とする約110点によって、一貫しつつも多岐にわたる60年の画業を紐解きます。

「画家が手元に置いてきた初期作から最新のドローイング」があるボリュームを占めていることは本展に重要な骨格を与えている。これは規模や作品数の問題ではない。言ってみれば展覧会の精神に関する「ささやかさ」が、本展においてはむしろ見られるべきものなのだ。

「日本では16年ぶり、東京では初となる美術館での個展」というキャッチフレーズに、過度に大規模なものを期待してしまっていたとすれば、それは僕の方の問題であって、その思い込みとのギャップに食い足りなさを感じても、見込み違い以上のものではなくなる。だから黙って、虚心坦懐に作品を見直せばいいことになる。改めて自分の意識をチューニングして、個々の作品を見ていくと、そもそも初期のリヒターという作家は、極めてちいさなイメージの手がかりを、なんとか見つけ出しては丁寧に画面に定着していく作家であったことがわかる。

「フォト・ペインティング」では印刷物のイメージを写真に撮り、それをキャンバス絵画に写し取っているが、イメージの媒介は三重、四重となっていて、いわばイメージの「のこりかす」の「のこりかす性」を引き延ばして、目を滑っていく消費物の「てざわり(目ざわり?)」を掬い取っている。「グレイ・ペインティング」も同様だろう。ここでは描く行為からまずあらゆるイメージと読み取り可能な意味を排除したうえで、絵筆とキャンバスと絵の具の痕跡が生成する「てざわり(目ざわり?)」を析出する。

このあたりまではリヒターの、思いのほかナイーブな画家ぶりを見ることができる。しかし、「アブストラクト・ペインティング」のシリーズから、リヒターは徐々にイメージのかすかな手がかりを探す仕事から、イメージの効果を生み出す「手法」のジェネレーターになっていく。

「アブストラクト・ペインティング」は、あえて言えば様々な色を塗った画用紙に黒クレヨンを均一に塗布しスクラッチする幼児画に構造的には近い。このイメージの自動生産(及びマーケットへの充填)は、確実に空虚さをはらむ。《ビルケナウ》に感じる不信感は、強制収容所の写真との紐づけが、むしろイメージの自動生産に含まれるある種の可能性(それはニヒリスティックなものだが)を、「意味」に頼ることで奪っている点だ。凡庸な「歴史の反省」という物語の挿絵になっている。

リヒターが、抱えた空虚とニヒリズムを「歴史の反省」で埋めていくプロセスは、僕の理解では作家を追いつめたように思う。「オイル・オン・フォト」も手法からのイメージの自動生産だが、その自動性のいくつかに、かろうじてイメージののこりかすをまさぐる感覚は読める。

注意が必要なのがミニマリズム以降コンセプチュアル・アートなどとの差で、それらが手法を措定し制作の事後に開示しているものを、リヒターは先取してまず否定したうえで、その否定の身振りの上に「あえて」もう一度「意味」をのせようとしている。美術史が廃棄してきた「ゴミ」を、巧妙にリサイクルしているようにも見える。とにかく今回のリヒター展は、手法が孕む空虚からの退避行動が「歴史」みたいな大文字のところに行かないで(なぜならその「歴史」もまた手法だからだ)、どんどん閉域にすべてを追い込んでいく印象なのだ。僕としては、高名さとは逆のリヒターの脆弱性に一番関心を持った。会場に順路を設定しない、としながら、どこかで作品を「私的」に「読ませる」環境管理的な誘導も、僕には作家の以外な脆さの裏付けに感じられた。

なお、東京国立近代美術館の天井高の低さをもって今回のリヒター展にふさわしくない、という発言を見たが同意できない。これは美術作品を展示「効果」で測る見方であって、作品の質を計測するという展示行為の重要な点を見逃している。作品は場所に試されるのであって場所に依存するものではない。展示に関わったという作家は明らかに「展示空間の質」を読んだうえで「自身の作品の質」をインストールしている。下手に「現代美術向き」の美術館(流行の吹き抜けとUVカットガラスを多用した「自然光」マニエリズム)より、ずっとよかったのではないか(巡回先の豊田市美術館での展示は逆に難しいだろう)。


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