連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その6 現実を組み替える、絵画の空間

前回からの続き。今週末20日に開催予定の連続対談

「私的占領、絵画の論理」第一回

で使った「占領」という言葉と、美術史・絵画を結び付けて、僕はこう書きました。

美術の未来史において、ある場所を「占領」することは、けしてそこにいようとする他の誰かを排除する必要がなくなってきます。
(中略)
そしてこのことは、「絵画」という、かなりの程度奇妙な営為と、ある特定の面で接続していきます。端的に、絵画とは、「今ある場所を埋める」行為ではなく、「今ある場所をステップに、新しい空間を造形する」ものだと思われるからです。

もう一度、20日にお呼びする五月女哲平さんの作品を見てみましょう。誤解のないように繰り返しますが、本来実作を見ないと、五月女さんの作品は把握できません。それを念頭において、下のサイトの最初に出てくる五月女さんの作品「White, Black, Colors」に注目してください。

Art + Culture五月女哲平個展「犠牲の色、積層の絵画」+「絵と、 」

6つのシェイプドキャンバス(変形キャンバス)が並んでいます。これ、とても奇妙な印象を与える作品です。6枚一組の作品ですから、全体で一枚の絵画作品として見えてきますが、しかし同時に個々のパネルの間の「隙間」の「切れ込み」によって、相互に関係し、押し合いへしあいをする個別の作品にも見えます。この「同時に」というところがポイントです。

「White, Black, Colors」は、全体として一つの作品空間を感じさせながら個々の空間相互の力関係も併せ持っている。行ってみれば、そのような「関係性」こそがここで提示されている。最も素朴な(即物的な)見方をしても、ここで提示されているのは「6枚の絵画」+「それ全体としての絵画」で、物理的なキャンバスの合計面積よりも、明らかに「作品」のもたらしている「大きさ」が「大きい」。僕がここで指摘した「関係性」まで数え上げれば──そのような「数字」への還元はこの作品の矮小化になりますが、いわば「わかりやすさ」の目安として──この作品が開示している「空間」は、展示会場の物理的なそれを、ずっと拡張していることがわかります。

「White, Black, Colors」というタイトルからもわかるように、この「拡張」は色彩の面でも行われていて(それこそ実作を見ないとわからないのですが)、印刷の世界でいう「リッチブラック」みたいな、ふくらみのある面を形成しています。前のブログ記事で描いたように、「White, Black, Colors」はまさに、作品の周囲の空間に浸潤して相互作用を起こしている。ここで注意したいのは、五月女さんの作品が拡張しているのはある種の「経験」であって、見た目の工夫(錯視)などではない、ということです。

例えば狭い部屋の壁に鏡を張り、物理的な体積を錯覚で広く見せるような手法はありふれています。そういった原理に基づいた「トリックアート」的な作品とは五月女さんの絵画は異なります。また、画面に物語を想起させる図像を描きこみ、絵画作品の構造から乖離した、別次元の「壮大な世界」とかを提示しているのでもありません。五月女さんは、絵画を形成する物理的な現実を、注意深く丁寧に「組み立て直す」ことで、そのような「現実」が、現実のまま「拡張」できうることを示しています。五月女さんは「現実を誤解させる」のでもなく「現実とは異なるファンタジーを提出する」のでもなく、「現実それ自体を組み替えて、現実の経験を拡張して見せている」のです。

このことは、今回の連続対談「私的占領、絵画の論理」の重要な出発点になるでしょう。僕は7人の画家の方々との1対1の対談を通して、絵画という、恐ろしく古い形式を間に挟みながら、しかし、極めて「明るい未来」を模索するつもりでいます。ART TRACEのサイトに掲載されたリード文を、改めてお読みください。

しかし、絵画は、誰かに割り当てられた場を埋める営みではありません。絵筆は点をうち、線を繋げ、面を構築してあらかじめある場所とは異なる世界を作り上げます。絵画という「家」は時間=歴史を孕み、私を形作る、既に亡くなった/これから産まれる人々、価値観や言葉を違える人々に開かれます。私は、絵を描くとは分け前や居場所を待つのではなく、そのような考え方の枠組み(フレーム)自体を作り直す試みだと思っています。

ここで、僕は過度に不安をあおって、その不安の「逃げ道」を「売る」ような「キャリア提案ビジネス」したりするつもりはありません。現実は現実として正確にとらえ、しかしその「現実」は、現実それ自体の構造に基づき「組み換え」可能であり、そのような現実の組み換えによって、経験の拡張や展開/転回が可能であることを示していこうと思います。いうまでもなく、実体的な「絵」礼賛をするのではない。あくまでそのような現実の構造への介入と操作の可能性のことを「絵画の論理」と呼びたいわけです。

そして、そのような「現実」とは、前日に書いたような「美術史」でもあります。絵画の論理を追うことで、僕は既存の美術史の構造への介入と操作の可能性を持ちうると考えている。まったく同じように、それは社会や経済といった「現実」へもアクセスできる。むろん、これはあまりに「楽天的」な構想です。しかし、いまのように、社会が閉塞の予感とそれを前提にした「脅迫的(強迫的)」ビジネスに満ちているとき、このような、一見ナイーヴな「楽天性」は、一種の批評性を持ちうるのではないでしょうか。

「現実」を不動のものと捉え、「現実」に勝ち・負けの態度だけで臨むほかはないと前提し、それに「勝つ」には誰かを排除し、そこを自分が「占領」する。その「占領」は、「勝つ」姿勢において、徹底的に既存の現実=既存の構造を強化し維持します。どのような「改革」的ことば、「前衛」的ことばを駆使していても、彼らは「勝つ」ための「現実」を手放さない。そのような「脅迫的(強迫的)」ビジネスを「アート」とするならば、「私的占領、絵画の論理」は、「アート」と無関係な場所に立ちます。


※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。

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