見出し画像

桃山の多重の声・智積院長谷川派金碧障壁画群

サントリー美術館で「京都・智積院の名宝」展が開催されている。私は智積院には以前に訪れており、長谷川等伯・久蔵らによる金碧障壁画群(桃山時代/1591-92年頃?)もそのときに見ている。当時は等伯の早逝した息子の久蔵による〈桜図〉が印象強く、これは父よりも優れた作家だったのではないかという思いを持っていた。

今回、改めて再見して感想が変わった。久蔵〈桜図〉の「印象の強さ」は、胡粉を盛って立体的かつパターン的に反復された桜の視覚インパクトによるもので、これはある意味わかりやすい「強さ」ではある。有名人である等伯に隠れている夭折した久蔵、という「物語」の「強さ」も私は作品に対する吟味の中で加味していた、というのが正直なところだ。〈桜図〉が凡百の障壁画──例えば安定して工芸化した江戸中期の狩野派や応挙のそれ──に比べて佳作であることは間違いないとして、あくまで等伯の監督下にあった久蔵を過剰に持ち上げるのは危険だろう。

智積院の長谷川派金碧障壁画群(正確にいえば祥雲寺に描かれた障壁画の管理が智積院に移ったもの)をまとめて見直してみると、能登の周辺から這い上がってきた等伯が、自身より四歳ほど年弱ながら絵師としての評判のみならず政治的にも圧倒的な狩野永徳に、いかに対峙したかの苦闘が垣間見えてくる、そこが興味深い。

智積院壁画群の与件ははっきりしている。愛する子を失った豊臣秀吉が、その子(鶴松)を弔うために、前年に47歳で死去してしまった永徳“みたいな絵”を描いてくれと等伯に命じた、その条件を満たしながら自身の痕跡をどのように刻めるかにあったのだろう。そこまで永徳に追いつけ追い越せで来た等伯にとって、これはかなり過酷な前提であったように想像される。先行する〈檜図屏風〉(1590年頃?)、また場合によっては〈唐獅子図屏風〉(1582年頃?)といった永徳の仕事は「強さ」という意味では日本美術史上空前絶後であり、これを超えることは余人に可能とは思われない。

そして結論から言えば、かならずしも等伯の資質に適合していたとは思えないこの与件の中で、等伯は永徳を超えてみせたというよりは、斜めに移動した、ということになるかと思う。智積院の長谷川派金碧障壁画群は、いわば「強さ」を形成する建築的な構造と、しかし等伯の自然観察から組み上げられた繊細な描写が、二重三重構造になって画面を複数化している。雄渾な永徳が類まれな構想力によって画面を見事に統一して見せた、その構想は学びながら、等伯は細部の丁寧な積み重ねや、必要に応じて図案化も画面に持ち込んでいる、と言ってもいい。

具体的には〈松に秋草図〉を見るとわかりやすい。

画像はサントリー美術館公式twitterから

画面右下から中央上部へのびる松は永徳の、自然描写を超えた構想的(建築的)な松を、その構図においてコピーしている。下に永徳〈檜図屏風〉を参照する。

画像はwikipediaから

ある程度の松図の定形があったとはいえ、永徳からの画面展開の流用は類推される。このように、骨格の部分で与えられた使命、“永徳みたいな絵”をクリアしていく。対して、画面の左右にある秋草は繊細な自然描写を積み重ね、永徳にない細やかさを画面に編み込んでいる。

〈松に秋草図〉左部分
〈松に秋草図〉右部分

そして画面中央には、永徳から導入した松と左右の自然的秋草をのりづけするように、図案化した植物を配置する。このような自然の図案化は、のちの俵屋宗達からおこり、尾形光琳が定式化し、酒井抱一・鈴木其一へと連なる琳派を想起させるだろう。

〈松に秋草図〉中央部分

いわば複数の絵画言語によるポリフォニック(多声的)な有り様を示しているところが、智積院の長谷川派金碧障壁画群の最も大きな特徴となっているのではないか。

このような、たった一つの声で語らないことは、見方によっては永徳的な「強さ」の前で中途半端なものに見えてくるかもしれない。等伯が自身のビジョンを文字通り画面全体に一元的に展開したのは高名な〈松林図〉(1593年頃?)になるだろう。

〈松林図〉(右隻)
〈松林図〉(右隻)画像は左右ともにwikipediaから

歴史的な山水画の影響を踏まえた上で、ここで等伯は間違いなく自分の声で歌っている。近代的な作品の定義、いわば主体的「個人」の有り様を通過した現在からみたとき、このモノフォニックな〈松林図〉が等伯の代表作として挙がってくるのは必然的ではある。

しかし、久蔵を含めた長谷川派門人たちの集団作業から展開した智積院金碧障壁画群は、近世の様々な条件が作用した結果、そのポリフォニーの中に秀吉や鶴丸、そして狩野永徳、さらに歴史的に先行する諸作品などからなる多種多様な声を織り込んでいる。モダニズムが生み出した概念との連想関係でいえば、コラージュ的・あるいはアッサンブラージュ的な想像力までドミノ倒しが起きるが、もちろんこれは飛躍だ。しかしいずれにせよ、永徳の求心的影響下で、等伯は何かを完成させたというよりも新しい時代のための種を繁茂させてみた、そう言いたくなる。

なお、「京都・智積院の名宝」展の見どころは、けして金碧障壁画群だけではない。むしろ現地ではなかなかまとめて見られない、智積院所蔵の様々な文物が整理されて展観できる。〈孔雀明王像〉(鎌倉時代、重文)、〈薬師三尊八大菩薩像〉(高麗時代/14世紀、重要美術品)といった絵画、他には張即之〈金剛経〉(南宋時代/1253年、国宝)、〈刺繍法華経〉(元時代/1361年頃)なども興味深い。

近代の作品では土田麦僊〈朝顔図〉(1934年)は工芸的佳品といえる。堂本印象〈松桜柳図〉(1958年)は智積院の文脈に悪影響を受けていて「やっちまったな」という珍作だが、〈婦女喫茶図〉(1958年)は、犯罪的とまではいえずむしろこちらの方が堂本印象の力を示している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?