文章の外(あるいはブログ文体の可能性と限界)

福田和也氏『江藤淳という人』を読んでいる。収録されている「江藤淳氏と文学の悪」は、一見して江藤淳に対する痛烈な批判なのだけど、単に切り捨てるだけのテキストではなく、そこに(底に)深い痛みの共感のようなものがある。簡単に言えば「売文屋」としての批評家、という自己規定が福田和也氏にはあって、その源流の一つに江藤淳を置いている。

「喪失」を、いわば「売り物」のように(そういう言い方は福田和也氏はしていないのだけれども)「生存」へ回収していく、そしてその水準において無敗となってしまう江藤を福田氏は批判する。だけど、例えば『地ひらく』で石原莞爾について書きついだ福田和也氏の文章は、『作家の値うち』のような、あからさまにジャーナリスティックな書物よりもはるかに「生存」と通底するものが感じられる。『すべての日本人に感じてほしい魂の昭和史』のように、ポスト・モダンのムードが退潮して保守的なムードがたかまりつつあった(それを福田氏と一緒に鋭敏に捉えていたのが大塚英志氏だ)中で先んじて書かれた「保守的」な書物もそうだ。

「江藤淳氏と文学の悪」の後に収録されている生前の江藤との対談で福田氏は小林秀雄について、まさに批評で「食べる」道筋をひらいた存在として小林を語るが、江藤も同調する。二人は外国ではベルクソンやデリダのような人がやるようなことを日本では「文芸批評家」がやっていると語るが、無論江藤をその文脈に置く事を明示している福田氏も、自分をその流れを受け継ぐ人として考えているのだ(そして江藤はそれを認めている)。そのようなことが可能になるのは、「読まれる」ための「文」を小林以降、日本の文芸批評家は考えてきたからだという。

ここでの「読まれる」というのは「売文」に留まらない含みを持っている。要するに文学や批評のサークルの外部、一般の(つまり文学や批評に関心のない)人々にも届く言葉を小林秀雄と、そして江藤と福田氏も綴っているのだ、ということだ。柄谷行人のフォロワーがジャーゴン化してしまった「交通」というものが、小林にはあった。かつての大学人としての哲学者などには造形できなかった、この文芸における「交通」こそが思想や批評を日本において可能にしてきたし、そしてそれを我々は受け継ごうとしている、という自意識がこの対談にはあるのだが、しかし福田氏が書いた「江藤淳氏と文学の悪」では、それが、実際は江藤においては十分ではない(小林にあった「信」「賭」がない)と批判している。

どうしてこのような批判が、「共感的」に書かれたのか、というのはなかなか興味深い。実際、最近福田和也氏の著作を読み直していて思うのは、その圧倒的な文章の上手さ(読みやすさ)、「外部」へ開こうという意思が、しかしそれ自体として滑り落ちてしまっていないか、と感じていたからだ。これも最近読み直していた小林秀雄「モオツァルト」は、どこかに「わからなさ」読みにくさが残る。この抵抗に逆説的にアクチュアルな感覚を得ることができたのだけど、福田和也氏の、豊かな「語り口」にはズレを感じざるを得ない。

こういう感覚はフェアとは言いがたくて、簡単に言えば福田和也氏が、現在の僕から見て「中途半端に古い」からにほかならない。小林が妙に新鮮なのが「十分に古い」ということの裏返しなのだけど、一般に「ちょっと前」のことほどやたら古くダサいものにみえがちなのだ。あと10年もすれば同じ福田和也氏の文章も「意外と新鮮」に見える可能性はある。江藤淳を批判的にみざるをえなかった福田和也氏にもこの距離の問題はあるのではないか。例えば僕は今ならば江藤淳の『成熟と喪失』をフレッシュに読めそうな予感もある。

同時に、この、僕が福田氏(あるいは江藤)に感じるズレには、もっと根本的な原因もあるように思う。「外部」へ、文章を「ひらく」ということが、純粋に文、あるいは文体の問題に絞り込めるとは福田氏も思っていなかったはずだが、しかし、いずれにせよ福田氏の文章やタームが、そのような「意識的」なところで展開してしまっていて、もっと不透明なレベルで「閉じて」しまっていないか、という疑惑はどうしても残る。逆説的なはなしだが、福田氏の仕事で今でももっとも魅力的なのは初期の『奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール 』のような、精緻であるが故に「読みにくい」仕事かもしれない。

ここにも留保が必要で、福田氏以後、「批評」の主戦場が実はアカデミックな場に移っていることが、専門性の高さ=読みにくさに現在性を与えてしまっているところがある。ジャーナルでは恐ろしいほどイージーな文体の雪崩現象が起きていて、福田氏、あるいは大塚英志氏のような書き手が試みていた文体が、はるかに低水準なところで反復コピーされ劣化してしまった結果、批評の外部は単にジャーナルの内部になってしまった。かつては「象牙の塔」として(吉本隆明などに)批判されたアカデミックな文体が、反対にその形式性の洗練によって時代や背景の違いを、全面的にとはいえないまでも、乗り越える可能性を保持してしまった(あえて「しまった」というべきだろう)側面があるように思う。

じゃぁアカデミック万歳でいいのか、というとそうもいかない(形式的洗練はすぐに形骸化に向かうから)ので、もちろんそういう苦闘は東浩紀氏が持続的に試みているところではあるのだけど、それを感心してみているだけでは、そしてそれを反復コピーしているだけでは状況は何も変わらない。文は、そのモチーフや内実と呼応した形でしか生まれ得ない。「スタイル」というのは、厳密には、なりたたないのだ。東氏の文や文体は氏の内発的モチーフからしか生まれない。

ということをどうして僕が今ここで書いているのかというと、かつて(10年前くらい)に感じていた「ブログの文」に対する可能性と限界を、もう一度考えるべき時期にきているかもしれないからだ。僕は以前、情熱をこめて書いていたはてなダイアリーの文章に壁を感じて以後、印刷物に文章を書いてきて、その判断は今でも正解だと思っているのだけど(その当時面白かった書き手の多くがその後「ブログ芸人」として職人化してしまった)、いま、自分が雑誌などで書いている文章に改めて「壁」があるとしたら、それはどのような形で超えられるのか。単にブログ回帰すればいいだけでないのは確かだが、いずれにせよ、この作業は個人が孤独に進めるしかない──そのような「閉じ方」でしか「開けない」──という予感だけはある。

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