脱毛記14

 思い起こせば、V周辺に体毛が生えてきたのは、中学校2年生くらいの頃だった。当時、私は栃木県の田舎町に住んでいた。夏になると熱気で空気が膨張し、押しつぶされそうだったことを覚えている。漫画のような入道雲を見ていたあの頃。今なら実際に熱気に押し潰されるか、ゲリラ豪雨の直撃を受けるかだろう。

 Vに体毛が生えているのを確認したのは、自宅の1階のトイレである。私は小柄で、第二次性徴が訪れるのも他の子供よりも大分遅く、中学校2年生の頃であった。その頃、何かのはずみでトイレでVの位置に細々とした毛を発見し、何とはなしに嬉しかった記憶がある。自分もこれで大人へ一歩近づいたのだ。その発見は、私の心を少しだけ強くしてくれた。

 今思えば、別にVなどあろうがなかろうかどっちでも良いし、そんなことが人間の成長に与える影響など皆無なのだが、当時は物理的な成長がうれしかったのだろう。

 それから30年経って、Vを最新のレーザーで焼き尽くす日が来るとは、夢にも思わなかった。純粋にワクワクしていた当時の自分に申し訳ない気もする。それでも、人は人生を歩いて行かなければならないのだ。

 病院のベッドというのは内省的になる場所だという。特段、病気で入院している訳ではないものの、他者に自分の尊厳を明け渡している状態におかれると、人は自分の内面に意識を向けるようになるようだ。色々なことが脳裏をよぎる。座禅を組んだことはないが、ビギナーが座ると逆に脳が活性化してしまうと聞く。ちょうど、今の私と同じだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、看護師が「では、行きますよ」と声をかけた。私は曖昧に頷くと、看護師は私の大殿筋を力強く押し広げ、Oを露出させた。思わず、Oに力が入る。もうどうにでもしてくれや。

ドシュ!

 すっかりおなじみとなった発射音と共に、Oに痛みと冷たさを感じた。この感覚を何と形容したら良いのだろうか。痛いのか冷たいのか、はたまた熱いのか。自分の感覚がどうにも信用できない。ただ分かるのは、40年を超す人生でこんな感覚は初めてだということだけだ。

 看護師は、一心に私のOにレーザーを当てていく。

ドシュ! ドシュ! ドシュ! ドシュ!……

 この一撃一撃で、確実にO周辺の毛根は死滅していっている。細胞は焼かれ、速やかにその機能を停止していく。

 かつて、原始時代を生きた我々の先祖は、洞窟の中で、貝殻を使って体毛をそり落としたという。寄生虫が住み着くことを嫌気したようだが、その後の進化を見ると、体毛が薄い個体の方がより異性を引きつけたのではないかと思えてくる。

 女性は特にそうだろう。人類は、幼体のまま成人しているという人体ネオテニー説があるが、昨今の脱毛ブームを見ると、その説にも頷ける。熊と見まがうような毛むくじゃらな男性や、全身に体毛をまとう女性は、現代社会ではあまり評価されない傾向にあるのではないだろうか。やはり、脱毛は人類の正当な進化なのかもしれない。

 何度目かの照射の時に、私の脳内に鮮烈なイメージが浮かび上がった。それは、絵画の一片であった。レーザー光線が放つ赤い光りが一瞬、その片鱗を私の脳裏に鮮やかに映し出した。

 私は、そのおぼろげなイメージを必死でかき集めようとした。

ドシュ! 腰蓑だけをまとった女性が両手を挙げ、何かを高く掲げている

ドシュ! こちらも腰蓑だけの女性が、足を曲げて地面に片手をついている

ドシュ! 老婆が目と耳をふさぎ、悲痛な表情を浮かべている

ドシュ! 青白い仏像のような物が、台座の上に立っている


 ゴーギャンだ。


「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」


ドシュ! 

 脳天の貫く衝撃と共に、私の眼前に、タヒチで暮らした後期印象派の大作が、まざまざと浮かび上がった。生と死の輪廻を描いたと言われる作品。中央の女性が手にしているのは、禁断の果実だ。

 人類の原罪。我々が智恵の実を食べてたどり着いた世界は、脱毛という本質的には無益な行為に大金を払う世界だった。

 我々はどこから来たのか。最先端のレーザー技術で、太古の昔からの欲求を完璧な形でかなえる。それは、果たして進化なのだろうか。人類はもはや進化のどん詰まりにいるのではないだろうか。

 都心の真ん中でOにレーザーを浴びながら、私はそんなことを考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?