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「言葉にできない」 ことは、 「考えていない」 のと同じか 問題について。

私は若い頃、思考や感覚をことばに表現することを拒否していた時期がありました。
ことばにすると、本来のものが違うかたちに変わってしまう気がしたのです。せっかくの何かがうそになってしまう怖さ。それは、確かに表現力がなかったということもありますが、自分というかたち自体が、器のかたち自体が定まっていなかったのでしょう。ただただ、自分の中の泉にバラバラと星を散らし眺めていました。
その後、自分のかたちが少しわかり始めた頃、30歳を過ぎた頃から、泉の中の星々が表現できるところまで昇ってきてくれるようになりました。それは、考えている、いない、という軸では測れない、自分の中の内なる泉の水が温泉のように溢れてきたとでも言ったらよいでしょうか。
自分の内なるものを外に表現することが怖くなくなったということは、私にとっては大きなことでした。
しかし、あの、ことばにしない時期があったからこそ、今があるような気がしています。
それはどちらがいいとか悪いとかいう問題ではなく、ことばにする、しないどちらにも等しく意味はあるのだと思うのです。
自分の中の泉にだけたくさんの星々を残し、全てを抱いてこの世を去ることもまた粋な生き方なのかもしれません。星々の輝きを他の者と共有する醍醐味もまた素晴らしいものですが。昇ってきた星は元の星と全く同じではないかもしれませんが、よりクリアに主体としてそのものの輝きを認識することができると個人的には思います。
ことばにできないことをネガティヴに考えることはないのではなかろうか、という所見でした。

そういうことで、私は良い機会なのでnoteをはじめます。
ありがとう、電通さん。
みなさま、よろしくです。

NAGASAWA

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