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逡巡 / 最後の東京帰省日記 ①

 欠席の連絡を送ろうとした時、少し迷った。コロナ明け数年ぶりの、大学のゼミの同窓会。行きたい気持ちもあるが、今の自分では、皆に会うのが恥ずかしく思えた。

 3年前、会社を辞めた。逃げるようにして長崎に来た。何かをしたようで、何もしていないような日々は、あっという間に過ぎていった。ふらふらと過ごして気がつけば、社会的にも経済的にも、ままならならない毎日が続く。身の振り方は、未だわからない。僕は、32歳になっていた。

 「このゼミ会は、人生がうまくいっていない時にでも、みんなが集えるような場所にしたい。」

 出欠フォームを前に逡巡していた時、かつてのゼミ会で、先生が言っていたことを思い出した。朧げな記憶が蘇る。世の中の同窓会は、人生がうまくいってる人とか、社会的に成功してる人とかが、集いがちだけど、そんなのどうでもいいから、みんなが集える場所にしたいよね。確か、そんな文脈だったと思う。

 生き方は人それぞれだ。人と比べる必要は無い。そもそも比べることは無意味だ。加えて、自分はゼミの仲間達と共に、社会学を学んだ。「うまくいっている人生」や「社会的な成功」というものを、時間的にも空間的にも相対化して把握し理解できるはずだ。そういうものを絶対視して、固執することなく、生きていけるはずなのだ。しかし、僕は逡巡した。一体自分は、何に囚われているのだろう。

 ゼミ会に出席することを決めた。なぜだか、行かないと後悔する気がしたからだ。出欠フォームの「近況報告」欄に、今の自分の現状や、かつて先生が仰っていたことの記憶などを書き連ねて、送信ボタンを押した。

次回に続く。

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