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長良川画廊店主の美術館鑑賞記 3   長谷川等伯展 平成17年3月

 私は最近つくづく実感するのです。「異質」であるべきだと。今、世間はライブドアの話題で持ちきりですが、私はライブドアの堀江貴文という人を哀惜を込めて応援しています。彼は最も通俗的なビジネスの世界にあって金を稼ぐことで幸せになれる人ではありません。彼は「異質」なのです。彼は「異質」な存在として、社会に対し自分の言葉が発せられる。普通の言葉で話ができる。それは容易なことではないのです。彼の生い立ちなのか、生まれながらの才能なのか、彼は「異質」である「個」として、この「今」を生きようとしている。人間はそれぞれ本来は「異質」なはずです。「異質」な存在として己の一回限りの生を生きたいのです。しかし、その「異質」である「個」の共同体である社会はそれを許さない。この「今」を生きようとするものは、その「今」を切り裂いてしか、その「今」を生きた証を持ち得ないのです。それは現代においては、現代美術が直面している問題と同じく、絶望的な行為とも言えるでしょう。

 さて、東京丸の内、帝劇ビル九階にある出光美術館で開かれている「新発見・長谷川等伯の美」を見ました。等伯は、天文八年(1539)年、能登七尾に生まれています。若年期については不確かなことが多いようですが、「信春」の号で同地方に数点の作品が残されていることが知られています。元亀二年(1571)、養父母が相次いで亡くなり、その年、妻子を連れて京に移住します。等伯、三十三歳の時です。当時の京は天下人の御用絵師狩野永徳が名実ともに桃山絵画の完成者として君臨していました。祖父に狩野元信、父に松栄を持つ、生まれながらに狩野派の棟梁になるよう育てられたエリート絵師永徳に対し、南宋の牧谿や室町時代に栄えた漢画様式、和漢の融合による桃山様式などの古典を摂取した等伯は、独自の絵画様式を作り上げて、やがて永徳と人気を二分する画家となります。新発見と題されたこの展覧会は、近年、発見及び再確認された「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」「波龍図屏風」、さらに着色画である「四季花鳥図屏風」「柳橋水車図屏風」「萩芒図屏風」を通じて、従来水墨画家として知られてきた等伯が非常に優れた色彩画家であるという一面と、常に新しい主題を求め常に変奏を志した点において日本美術史のなかであらたな位置付けを試みようとしています。
 多くの人は長谷川等伯といえば、国宝「松林図屏風」を思い浮かべると思います。細く伸びた松が大きな余白の中に吸い込まれるかのように揺らめいているあの有名な絵です。今回はこの作品の展示はありませんが同時期の作品と思われる、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」を見ることができます。「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は片双に求愛するかのような二羽の鷺が描かれ、もう片双には仲むつまじい親子鴉が描かれています。「松林図屏風」は苛烈で荒涼とした等伯の原体験の告白であり、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は情愛に満ちた人間性の発露であるように思えます。
 私はこの二つの作品から、それまでの中世的絵画、支配層の要請によって作り出された仏画や絵巻物や肖像画、室町水墨画の禅宗的絵画、永徳に代表されるような金碧障屏画とは異なる精神領域を発見できるのではないかと思います。そして永禄十一年、等伯が三十歳の時信長が足利義昭を奉じて入京を果たし、中世から近世へと移ろうとする激動の時代に、妻と三歳の息子久蔵を連れ京へと向かった等伯は、その「今」において「異質」な存在であったと言えはしないでしょうか、「異質」であるが故に、近世を突き抜きて近代の自意識とも言うべき自己表現をこの「松林図屏風」と「松に鴉・柳に白鷺図屏風」でやってのけたのではないかと思うのです。

 桃山時代、長谷川等伯という画家は、「異質」な画家としてその「今」を生き、その「今」を切り裂いて、ひょっとしてその向こうに行けたのかもしれません。それともそれは、等伯にとっては一瞬の幻であったのでしょうか…。 (2005/3/20)

 尚、「松林図屏風」は、平成17年4月25日から5月8日にまで、石川県七尾市の石川県七尾美術館で開催される、「国宝・松林図屏風 長谷川等伯展」で見ることができます。

出光美術館
「新発見・長谷川等伯の美」 平成17年3月12日~4月12日

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