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長良川画廊店主の美術館鑑賞記 11   ソウル国立中央博物館 平成18年12月

 前回は、〈私は骨董品の世界にとんと不案内で、書画屋である以上全くわからないでは 体裁が悪い〉と書きましたが、「書画」も「骨董」の内ではないのか、同じ美術の世界ではないのかという声が聞こえてきそうなので、そこら辺りの話をちょっと書いてみます。

 私の仕事を一括りで「美術」と言うと一番広い概念のような気もします。しかし、わたしのまわりの方々を見渡しますと「美術」などとはよっぽど縁遠いと思われるようなお顔の方が多く、それは偏見としても「書画」の世界でポピュラーなもの、例えば「勝海舟」の書とか「福沢諭吉」の書とか「白隠」の達磨の絵とか、こういうものが美術かというとちょっと違和感を感じます。明治の洋画家小山正太郎は「書ハ美術ナラズ」と題するつまらない論文を書きましたが、その論旨に私が同調したのではなく、もともと「美術」なる言葉は明治になってからの造語であり多分に西洋美術を意識した言葉ですから、西洋のartをイメージした「美術」で東洋の「書」とか「画」を括ってしまうのは無理があると思うのです。ではもっと広く「芸術」というのはどうかといいますと、「芸術」という言葉もまた、西洋のartをイメージして明治に作られた造語であり、そこには「美術」以上に西洋人の人間中心の尊大さを感じてしまいます。まして、最近のへたくそなミュージシャンを「アーチスト」などと呼ぶのと同じで、私も自分の仕事を、「芸術にたずさわる仕事です。」なんて恥ずかしくていえたものではありません。そこで結局何がよいのかといいますと、やはり「書画骨董」というのが一番適当ではないかと思うのですが、私の場合はさらに、「骨董」と「書画」をチューインガムを引き延ばすがごとく敢えて「書画」にこだわって、屋号の能書きにも「書画専門」と付け、尚かつ「画廊」などと申す次第で、そんなことにどうしてこだわるのかと思われるかもしれませんが、「書画」と「骨董」はどうも肌合いが違う、どこか根本が違うように思うのです。「骨董」という言葉を辞書で引くと〈美術的な価値や希少価値のある古美術品や古道具類〉などと「書画」も「骨董」に含まれるように説明されていますが、「骨董」というのは、主に日用の道具として生まれたものに美的価値あるいは精神的価値を与えたもので、「書画」というのは日用の道具とは対極にあって心や精神や思想の表現として生まれたものです。そこには両者の本質に関わる明らかな相違があるのではないかと思うのです。さて、以上は、〈私は骨董品の世界にとんと不案内で、〈書画屋である以上全くわからないでは体裁が悪い〉ことの言い訳にはならない話でしたが、柳宗悦風に理屈を言えば、私が「書画」にごだわり、「書画」を深めたいと思うのは、「美の浄土」は一つであるがそこに至る道は二つあるということで、つまり私には、両方の道を歩む器用さも器量もないので、ともかく「書画」の道から登ってみようということであります。先輩諸氏の〈お前、本当に書画やか?〉と訝る声が聞こえてこようと、「書画」を専門に扱う業界で言う「書画屋」ということで、ともかく頑張っているつもりでおります。さて、焦っても一流の書画屋への道は遠く険しい。京都に山添天香堂という書画屋さんがあります。ご主人山添さんは、私のような下々にも優しく接してくださる魅力たっぷりの方です。この方の今は亡きお父さん、私はキャリアが浅いのでそのお姿は存じ上げないのですが、その方が昭和49年、「天香堂百撰展」という展観を京都の美術倶楽部で催され、その時の展観図録を、実は哲学者の久松真一さんの蔵書のなかにあって偶然手に取ったのですが、そこに記された山添さんのお父さんの書かれた挨拶文がなかなか渋いものなのでちょと紹介させていただきます。

 「天香堂」と申す店が、京都に始めて看板をかかげてから、今年は七十年目になりました。 最初は菊屋橋のそばであつたと聞かされています。菊屋橋とは、今はその名が無くなつて居ますが、今の美術クラブの近くの東大路と古門前通の角のあたりであつたようです。
この店を御存じなのは福島俊翁先生、父と同輩の、同業三条の西村さん、八坂の光明さん、その他二三の方々ぐらいになりました。勿論明治の終わりのころで、大正の九年に生まれた私の知らぬ事です。
 大正の元年に、四条通の石段下南側に、一軒借家が空いたのを、私の母が探して来て 、高い家賃に逡巡する父の尻をたたいて、無理に開いたのが、昭和二十年の春強制疎開でつぶされるまで、三十五年続いた「祇園の天香堂」です。
 このギオンの天香堂に思い出の多かつた方々のおかげで、今のナワテの天香堂が存在 しているのですが、昭和二十二年に私がビルマから復員して来た時、「天香堂」はその看板だけを持つて、大津追分の疎開先に逼塞していました。
 三十数年の実績も、一等地での立派な店も、一朝にして無に帰さしめた大きな力の前に、既に年老いた父母は無力でありました。

 二十三年に今の店を、何とかすがろどころとして、天香堂の看板をかかげてから二十五年が経ちました。この間、父を十六年前、母を十二年前に失ないましたが、妻や弟の協力で今までの店をつづけて来て今年でどうやら創業七十年を迎えました。
 仮の店舗と思つた店を、いまだに大きくも出来ず、父が作つた大店天香堂を、ちいさい形で守りつづけて、今年が七十年です。
 大正元年十二月一日が四条通の天香堂の開店で、その日は恐ろしいほど売れたと母の 自慢話によく聞かされました。それから大正の好景気が来て ─  そんな頃に私が生まれて ─ その為に私が五十四になった今もなお、お調子もののふわふわの甚六であるのですが、その事は閑話休題といたします。

 ここ九年の間に六回ほど屏風展をつづけて、昨年で大きな展観はピリオドを打つつもりでいましたが、今年あたりは七十周年になるであろう事が念願にありました上、たまたま父の十七回忌、母の十三回忌がめぐつて来ましたので、その二つを記念して、このたびの展観となりました。
 「天香堂百撰展」というのは、天香堂が撰んだ百幅の軸の展観という意味であつて、 百点の逸品、銘品、一流品という訳ではありません。この中には一流作家でない人々の作品も多く含まれています。大体書画の世界で一流作家というのには、市場価値が一流という意味も多分にありますが、私は、市場価値なるものにあまり信を置きません。    だから市価二流の作家の一級品も数点入れました。実のところ、これこそが私のささやかな自慢です。
 名作を御覧に入れたいと思う心が、必然的に大幅巨幅の多い理由にもなりました。小手先の器用さで出来上がつた、いうところの床うつりのよい掛けものなどというものに、私は一向に魅力を感じません。
 ですから「鈍」なものばかりお目にかける結果になつたかも知れませんが、それが天香堂のお客様に喜んでいただけると信じて、これら百点の軸を並べました。

 番外として、巻子・冊子・額、それぞれ十余点に新到の屏風二十余点をお目にかけます。また前回屏風展をお見逃しの方々の為に、前回出品中の二十数双も併せて御覧に供します。申し上げた通り、父母追善の思いも込めておりますので、前回御覧の方々には何卒お見過ごしを願いたいと存じます。
 なを、特別室として、石山寺縁起巻の断片額装展室と、秦テルヲについては、いづれ、「秦テルヲの世界」と名付けて独立した展観をするつもりで居りますが、この機会に皆様のお眼休めとも存じ、架蔵の小額十数点を並べました。日本画壇の青木繁ともいうべきこの作家の片鱗でも御覧に入れる事が出来れば幸いです。  今一つの催しとして、関西古書画会の面々による関古会協賛出品室を設けています。友店七氏が天香堂の七十周年を祝って自慢のものそれぞれ両三点出して呉れる予定です。これらはそべて私方の「百撰」を上廻る銘品にちがいありません。どうか併せてお楽しみ下さい。

 今回は屏風展とちがい、一般を対照とせず、天香堂と何らかの関係ある方と、父母御存じよりの方々とに限りましたが勿論御同伴御紹介は喜んでお迎え致します。  深秋好期、さだめしお事多いことと存じますが、まげて御曳杖賜わらば、幸これに過ぎるものはございません。

昭和四十九年十一月              天香堂 山添 治
 いかがですか、一級の書画屋さんの書画への想い、商売への姿勢、その心意気というか、誠実さがひしひし伝わってきますでしょう。

 さて今回の美術館マンスリーは、ちょっと羽ばたいてソウルの「国立中央博物館」です。実は前回の「柳宗悦」が私のこころに眠っていた韓国・朝鮮への憧憬を呼び覚ましてくれたのです。思い返せば私が韓国・朝鮮という国を、その人たちを、ある特殊な印象を持ってこころの奥に刻んだのは16歳の時だったと思います。私より二つ年下で12歳で自殺した岡真史の詩集『僕は12歳』を読み、その存在と死に衝撃を受け、彼の死んだ時自分は何を考えていたのだろうかと自問しました。彼の父は在日朝鮮人でした。そして私は高校を卒業して直ぐ、前妻と二人で韓国へ旅行をしました。鈍行列車を乗り継ぎ二日がかりで下関まで行き、そこから関釜フェリーで釜山へ向かいました。その時は朴正煕大統領が暗殺された直後で、戒厳令のさなか首都ソウルのあちこちに土嚢が盛られて兵士が機関銃を持って警戒していました。岐阜を発つ前は韓国なんて若い子が行っても面白くないとか、今行くと殴られるぞとか言われましたが、所々白く凍てついた韓国の大河洛東江や、平坦な地形に広がった田んぼ、家々から立ちのぼる煙など、見飽きることなく、釜山からソウルへ向かう列車から行き過ぎる景色を眺めました。真冬の韓国の寒さは厳しく、ソウルの街ではカチカチになった雪の残骸が道路にへばりついていましたが、大田の近くで泊まった安宿のオンドルの暖かさと宿のおばさんが用意してくれた辛くて美味しい韓国の家庭料理の味は今でも懐かしく思い出します。そして22歳の時には、韓国で古本屋をやれないかとポンコツ車に古本を満載して岐阜からソウルを往復しました。韓国・朝鮮語もハングルが読める程度ですが2年ほど勉強しましたし、我が家では毎年女房がキムチを漬けます。私は二十代の頃、強烈にトレンドは東アジアだと思っていましたし、柳宗悦にも負けない韓国・朝鮮への想いを抱いていたつもりですが、最近はちょっと焦点が鈍っていました。そのことを柳宗悦を読んで自覚しました。大袈裟な言い方になりますが、自分の進むべき方向がやっと見定まったように感じています。これからは韓国・朝鮮、その次に中国、そこからぐるりと回って日本です。そんな気持ちに多少興奮して久しぶりに韓国に行ってきました。

 今回の韓国旅行は私と表具の工房長の中西さんの中年二人旅です。絶対にゲイに見られるだろうと思いながら海外初体験の中西さんが迷子にならないように随分気を遣いました。男の二人韓国行は良からぬことを・・と想像されそうですが、それは閻魔様に誓って一切なし。女房の手前ではないです。釜山から入国し釜山から出国するという、移動時間を除くと正味3.5日ほどの旅、簡単に説明しますと、名古屋から夕方釜山の金海空港に着き、その日は外国人専用のKRパス(韓国国鉄全線・全列車乗り放題)を入手して終わり。翌日、早朝から高速バスに乗って新羅(シルラ)千年の都慶州(キョンジュ)へ。柳宗悦が「不朽の美」「不滅の力」と感動した韓国の至宝中の至宝、石窟庵の石仏と仏国寺を見学。その日は夜、釜山に戻って、そのまま韓国最大の魚市場チャガルチ市場へ。私が19歳で立った初めての外国の地がこの釜山、そしてこの同じチャガルチ市場で眼にした光景、足の膝から下が無く、地を這いずりながらリヤカーを引っ張る人、頭巾で顔をすっぽり隠した子供の乞食、それから25年経ってもここの喧噪と熱気はそのときと変わりません。市場で刺身三昧の夕食を済ませ次の日はソウルへ向かいました。昼過ぎにソウル駅に着き、そのまま地下鉄で国立中央博物館へ。その次の日は国立民俗博物館と景福宮。翌日はまた釜山まで戻ってそのまま金海空港へ。どうですか、修学旅行のような真面目な弥次喜多道中ではありませんか。

 さて本題、ソウルの「国立中央博物館」です。この博物館の設立からの変遷は複雑で、私の説明に間違いがあるかもしれませんがそのルーツは1908年に開館した昌慶宮(チャンギョングン)の朝鮮皇室博物館から始まり、その後、日本の侵略によって朝鮮総督府博物館となり1945年の朝鮮解放で中央博物館となりますが、収蔵品は朝鮮戦争により釜山、慶州などに避難。1953年の休戦後、徳寿宮(トクスグン)に移転し、1972年には景福宮(キョンボックン)の旧総督府に移転しましたが、1996年の旧総督府の撤去にともない、旧総督府の隣りに位置する博物館社会教育館を増改築して移転されました。そして昨年の10月、長い流転の歴史に終止符を打つ新たな国立中央博物館がソウルの中心から南方、南山と漢江に挟まれた竜山(ヨンサン)の地に、敷地約9万2千坪、建物、地下1階、地上6階、延べ面積4万1469坪、展示品1万3千点を誇る世界有数の巨大博物館として開館しました。相方の中西さんとは二時間後に1階中央奥にある1348年につくられた国宝「敬天寺十層石塔」の前で待ち合わせることにして、私はどうしても関心は絵画中心となりますので、他は全体をざざっと見て、二階にある「書芸室」「絵画室」「仏教絵画室」で大半の時間を過ごしました。その中で是非見ておきたかったのが「謙斎」(キョムジェ)こと「鄭?」(チョンソン1676-1759)です。南宋画と北宋画をミックスさせたような独創的な真景山水画で韓国・朝鮮絵画の最も重要な画家に位置づけられます。今から5、6年前でしたか京都の交換会(業者によるオークション)で、韓国、朝鮮、中国絵画のオーソリティーといわれるお方がいきなり強烈な槍(ヤリ・競りの一声のこと)を飛ばして買い落された本紙の大きさが色紙大ほどの掛け軸、もちろんそれが真筆であるかどうかは私にはわかりませんが、その後も含めて唯一眼にした「鄭?」でした。朝鮮の山河を描いた〈金剛山正陽寺図〉、〈洗劒亭図〉など、とにかくこれが 「ケンサイ」(日本では日本語読みしか通用しないので)かと、京都や東京の交換会では、私のような専門外の貧乏人ではまず買い落とせないでしょうが、岐阜や名古屋あたりならなんとかなるでしょうから、その時のために眼の奥に焼き付けておきました。次に印象に残ったのは、「鄭」と並び朝鮮時代を代表する画家、「安堅」(アンギョン1418-?)の唯一の真筆とされる「夢遊桃源図」の複製画です。ここに複製でありながら展示されているのは、この「夢遊桃源図」がいかに韓国絵画史上重要な作品であるかを現しています。この有名な「夢遊桃源図」の実物は日本の天理大学付属天理図書館にあります。美術品は正当に入手したものであれば誰が所有してもよいことになっていますが、この作品の実物がもしここにあれば、日本にあるよりも遙かに多くの人がこの作品の魅力にこころを打たれるだろうと思いました。宗教というものは人間の幸せのために、その目的のためにのみ存在するのですから、韓国の人たちにプレゼントしてあげたらよいのにな~と、そうでなければ売って差し上げてもよいのにな~と思いました。このほかにも朝鮮時代後期を代表する風俗画家「檀園」(ダンウォン)こと「金弘道」(キムホンド1745-?)、朝鮮の書聖と呼ばれる「秋史」(チュサ)こと「金正喜」(キムジョンヒ1786-1856 )の名筆など、商売向けの勉強には大物過ぎますが、ともかく初心者ですから朝鮮の絵画や書の全体の香りのようなものを感じて来ただけでも意味があったと思っています。次回はもう少し基礎勉強をしてこの冬の休みに行く予定です。その時は韓国の田舎へ、全羅南道(チョルラナムド)か江原道(カンウオンド)へも足を伸ばそうかと思っています。

 最後に今、日本は韓流ブームでついこの前まで差別や偏見が普通の日本人のこころのなかに、また社会に、根強くはびこっていたことなど忘れてしまったかのようです。私は国家を背負ったようなものの言い方はしたくないし、過去の日本人がしてきたことを自分の罪として受け止める気持ちもありません。しかし、私のじいさんの子供の頃、関東大震災で日本人が朝鮮人にしたこと、35年間も日本人が朝鮮を蹂躙(じゅうりん)し、多くの人を殺し、言葉を奪い、名前を奪い、財産を奪い、何十万という朝鮮人を日本に無理矢理連れてきたこと。私が中学生の時、私の頬(ほお)をいきなりビンタしてきた《チョンコウ》と呼ばれていた悪ガキ。「私は日本人とは結婚できない」といっていた在日朝鮮人の同級生の女の子。そして、私より二つ年下で、12歳でマンションの屋上から投身自殺した岡真史。私がこれまで生きてきて、実際に見たり、聞いたり、感じたり、学んだ、私にとっての韓国、朝鮮を、私はやはり日本人として、忘れることなく、こころの中に抱えていかなければならないと思っています。その上で、日本人であるとか韓国人であるとか朝鮮人であるということでなく、一人の人間として、国家とか民族を超えて信頼し尊敬しあえるような人間の関係を、社会をつくらなければならないと思います。そのためにこそ、お互いの深い関わりの歴史を知り、風土を知り、そして何よりもお互いの誇るべき文化を知り、その文化を育んだお互いの先人の豊かな心に触れ、その知恵に学ばなければならないと、この頃、切に思うのであります。

(2006.12.5 掲載)

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