見出し画像

長良川画廊店主の美術館鑑賞記 8 矢橋六郎展 平成17年10月

 今回の美術館マンスリー、以前にまして間隔が空いてしまいました。またまた言い訳がましいのですが、10月17日の夜、やれやれ今日は忙しかったと和食屋さんでビールを一口飲んだ後、急にフウーと意識が遠のくような気がして、倒れたのではないのですが、気持ちが悪くて、胸がざわめくというか死が隣にやって来たというか、言葉では表現が難しいのですが、動悸とか目眩でもなく、不安な気持ちと言うのが一番近いように思いますが、そんな状態になって、その日は家に帰って早く横になり、次の日もどうも頭が重いので、脳神経外科でCTとMRIを撮ってもらったところ、脳梗塞ではないのですが、血管が細くなっているということで、一過性脳虚欠発作(TIA)と言って、一時的に脳の血流が悪くなりそういう症状になったのではないかということでした。その後五日ばかり点滴に通院して、この頃は大分良くなったのですが、それ以来、脳梗塞を心配して、自宅から画廊までの行き帰りを片道40分歩き、酒は一日缶ビール1本(350㏄程度なら飲んだ方が良いそうです。)、食事は、好物の肉は減らして嫌いな鰯や秋刀魚など魚、野菜中心。急に年寄りになったような生活を送っています。自分では、一過性脳虚欠発作(TIA)ではなく、梶井基次郎の「得体の知れない不吉な塊」とまで言わずとも、ストレスによる緊張性頭痛か鬱病のような神経の疾患ではないのかなとも思うのですが、どちらにしても心身共健康であることがなによりです。金儲けは褒められてもしれてますから、「金がない、儲からん」とあくせくせず、久松真一の「人類の誓い」の一節にあるように、「各自の使命に従ってそのもちまえを生かし」、日々の生活をこつこつと積みかさねていくことでしょう。さて、そんなわけで、少々頭が重いですがこの「美術館マンスリー」も続けていかなければなりません。
 今回は、郷土の洋画家「矢橋六郎」です。

 「矢橋六郎」の名は、地元ではそれなりに知られていますが、地元以外の人でこの画家を知っているのであれば、かなりの洋画通ではないでしょうか。地元で知られていると言っても、矢橋六郎の実力を本当にわかっている人がどれだけいるでしょう。私は、多種多彩に、郷土の画家を誰よりも多く商っていますが、矢橋六郎を買おうという人の少ないこと。岐阜はつくづく田舎です。特に、矢橋六郎の生地、大垣はもっと田舎だなー。この画家はお洒落な絵しか描きませんから、田舎もんではわからんのです。矢橋六郎は、山口薫と比べても、森芳雄と比べても、決して引けを取りません。長良川画廊なら、そんないい画家の、とびっきりいい作品でも、20万以下で買えるのです。「何でこういうものが売れないの」というのは、矢橋六郎だけではありませんが、特に矢橋六郎は、私自身が好きですから、特に力説したくなってしまいます。

 矢橋六郎は、明治38年(1905)、岐阜県不破郡赤坂町(現大垣市)に、県下屈 指の素封家一族で、矢橋大理石商店を創業した、矢橋亮吉の第六子として生まれます。 大垣市の西方に金生山という標高200メートル程度の小山があって、化石の宝庫としても有名な山で、現在も矢橋一族企業による石灰岩が採掘が行われています。父の亮吉 は、この金生山で産出される大理石を中心に石材の加工と販売を始めました。この父の 始めた事業を、長男の太郎、次雄がさらに発展させるのですが、後々、四男の矢橋六郎にとっては、この家業との問題が、画家矢橋六郎にとってのある「柵(しがらみ)」と なりますが、それは、さておき、矢橋六郎は、超素封家の子息として何不自由無く、大 正14年(1925)、東京美術学校西洋学科に入学します。同級には山口薫がいて、 在学中からともに批評会「春秋会」を毎月開催したり、川島理一郎の金曜会に参加します。昭和5年(1930)、同学を卒業し、その年の7月に渡欧、山口薫、村井正誠と も合流し、ユトリロ、キスリング、ブラマンク、シャガール、モディリアーニなど、エ コール・ド・パリと呼ばれる個性豊かな画家たちから大きな刺激を受けて、昭和8年( 1933)、山口薫とともに帰国します。昭和9年(1934)、長谷川三郎、大津田 正豊、津田正周、村井正誠、山口薫、シャルル・ユーグらと「新時代洋画展」を結成、 活動後、昭和12年(1937)、「新時代洋画展」のメンバー、村井正誠、長谷川三郎、山口薫、大津田正豊、津田正周、瑛九、浜口陽三らと「自由美術協会」の創立に参加します。(会友に難波田龍起、小野里利信ら14名、顧問に今泉篤男ら13名の評論 家。) 昭和25年(1950)、「自由美術協会」の意見対立により、村井正誠、山口薫、中村真、荒井龍男、植木茂、小松義男、朝妻治郎とともに同会を脱会し、同年、同メンバーとともに、「モダンアート協会」の創立に参加します。その後、後述しますが、多くの「大理石モザイク壁画」を制作し、家業の矢橋大理石商店の要職に就きながらも、昭和34年(1959)、武蔵野美術大学講師、昭和37年(1962)、東京芸術大学講師を歴任し、昭和63年(1988)、82歳で死去します。日本近代洋画の革新に重要な役割を果たす「新時代洋画展」、「自由美術協会」、「モダンアート協会」の中心メンバーとして活躍し、生涯の友人である山口薫、村井正誠らとともに、「モダンアートの旗手」の名に相応しい画家でした。

 この展覧会は、年代順に作品が並べられ、生誕100年記念に相応しい内容になっています。また、今回は油彩画の仕事ともう一つ、モザイク壁画についても写真パネルを使って紹介がなされています。彼は油彩作家であると同時に、日本の「大理石モザイク壁画」の第一人者でした。原画から矢橋六郎が制作したものとしては、昭和37年(1962)、大名古屋ビル《海》(現存)、昭和38年(1963)、日比谷日生ビルフロアー(現存)、昭和39年(1964)、名古屋駅《日月と東海の四季》(現存せず)、昭和40年(1965)、岐阜県庁《春・夏・秋・冬》(現存)、東京交通会館《緑の散歩》(現存)、昭和41年(1966)、自民党本部《実りの朝》(現存)、中日ビル《空の饗宴》(現存)、昭和43年(1968)、大垣市民会館《花の如くに》(現存)、大垣商工会議所《流水》(現存)、中野区役所《武蔵野に想う》(現存)、昭和44年(1969)、静岡県立文化センター《天地創造》などがあり、全国80ヶ所以上の壁や床に、モザイク壁画を制作しています。大垣に戻った矢橋六郎が、「大理石モザイク壁画」を始めた理由は、それが家業の仕事の内であったことも当然の要因でしょうが、「幾千万年の自然の力を経て出来た、これ等石材の持つ色彩は深みのあること、混じり気の全く無い事、又どの色を配列しても決して反発し合わない事、絶対に退色しない事等、絵具とは全然特異の性格を持っている。ローマ人はモザイクを永遠の絵画と称しているのも、うなずけると思う。」(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という古代ギリシャの遺跡や壁画に触れたヨーロッパでの体験や「私は子供の時から石の中に育ってきた。」(矢橋六郎モザイク作品集・求龍堂)という矢橋六郎にとって、「大理石モザイク壁画」を描くことは、ごく自然な表現の場であったと思います。

 矢橋六郎は、昭和25年(1950)、「モダンアート協会」の創立の後、故郷大垣に戻ります。戦後まもない復興期のなかで、昭和21年(1946)、矢橋大理石商店の創業者で父の亮吉が亡くなり、矢橋大理石商店を継いだ兄次雄を手助けするために家業の矢橋大理石商店の仕事に軸足を移さざるを得なかったようです。それによって大理石壁画の制作に新たに創作意欲を広げていくのですが、しかし、一方でそれは画家としての挫折の始まりであるようにも思えます。私は、矢橋六郎はいい画家であると思いますし、「いい画家」として間違った評価がされなければそれで文句はありません。その上で敢えて言うのですが、矢橋六郎の芸術はもう一つ突き抜けていないように感じるのです。それは、山口薫でも同じではないかと思います。幸か不幸か、ピカソから約20年遅れて生まれてきた彼らは、ピカソやマチスになれるとは思わなかったし、なろうとも思わなかった。身体をすり減らし、ドロドロになってまで日本のアバンギャルドになろうとは思わなかったし、己の生の証を打ち立てようとも思わなかったのではないか。彼らは、頭が良かったのか、意気地がなかったのかは知りませんが、「絵描き」などという、とうに店仕舞いした方がいい商売をなんとかやりくりして続けていく道は、結局、具象表現のなかにしか見いだせないと考えたのではないでしょか。矢橋六郎そして、結果、彼らとしては、「モダン」であるしかなかった。「もう一つ突き抜ける」と言うことが彼らの芸術に対し妥当な視点かどうかはわかりませんが、日本の近代洋画全体にとって胸に突き刺さる問題であることだけは明らかではないかと思います。そういう思いは、矢橋六郎に対しては、特に抱く、私の不満です。

 私の自宅アパート、食堂兼居間の白い壁面、そこが我が家の絵を掛ける一等地で、そ こに今掛けてあるのが、「矢橋六郎」の花の絵です。その絵は、見る側に、何かを語りかけてくるのではなく、ただ、静かに、美しく、そこにあるように感じます。「ただ、そこにあるように描くこと」それが、矢橋六郎のモダニズムであるのかもしれません。

さて、最後にご案内ですが、来年の1月13日から3月12日まで、岐阜県美術館で「日本近代洋画への道 ― 山岡コレクションを中心として」が開催されます。できれば 、それに併せて、矢橋六郎の絵画も含めて、「岐阜県の洋画家」というテーマで、展覧会を企画できたらと考えております。

生誕100年記念 矢橋六郎展 ― 悠々なる色彩 ―
平成17年10月15日-11月13日
大垣市スイトピアセンター・アートギャラリー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?