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長良川画廊店主の美術館鑑賞記 9   川合玉堂「玉堂美術館」 平成18年5月

 ホリエモンが塀の外に出てきました。
世を変えようと志すものは、より良い方向にですよ、一度くらいはぶち込まれたほうがいいのです。彼にそんな志しがあると言っているのではないですが。それにしても否認したら保釈が許可されないなんておかしな話です。それ自体検察に有利な自白を強要しますよ。だいたい無罪の可能性のある人間を検察が何ヶ月も拘留することがおかしいのです。私はそもそも検察も裁判所も国民のためにあるなんて寝ぼけたことを思ってはいませんので、要するにそれが権力というものですからそんなことをグダグダ言っても面白くありませんが、ともかくホリエモンには最後の最後まで、「俺の何が悪い」と突っ張っていてほしいものです。話が横にそれたついでに、私は四十六歳の若さで逝ってしまった小説家中上健二が大好きです。もう日本には彼ほど人間や社会の裏側を凝視できる作家はいないでしょう。平成元年か2年頃だったか永山則夫の日本文芸家協会入会の是非について江藤淳と対論したNHKの番組が印象に残っていますのでその話を少々。永山則夫は昭和24年(1949)網走番外地で生まれ、極貧で荒んだ家庭に育ち、集団就職で上京後十九歳のときに四人を射殺し平成9年東京拘置所内にて処刑されますが、その長い拘留のなかで『無知の涙』、『木橋』、『人民をわすれたカナリアたち』など幾多の文学作品を発表した永山則夫の日本文芸家協会入会申請が拒否され、江藤淳は拒否した側の立場で、中上健二は認めるべきだという立場での討論でした。その前に永山則夫の生い立ちについて少し書き記しておきます。彼の父は博打打ちで家庭を全く顧みず、母が行商で7人の子供たちを養っていましたがついに生活は破綻し、母は姉明子(十四歳)と兄忠雄(十二歳)と兄保(九歳)と則夫(五歳)の四人の子供を残し、下の三人の子どもだけを連れて青森県の実家に逃げ帰ってしまいます。幼い兄弟四人は極寒の網走に置き去りにされたのです。飢えと寒さの中を彼らはどうやって彷徨っていたのでしょう。七ヶ月後、福祉事務所の手によって餓死寸前だった彼ら四人は青森県板柳町の母の実家に送られます。しかし待っていたのは乞食同然のような生活でした。ボロボロの服を着た少年はまわりから差別され軽蔑されいじめられ仲間はずれにされます。新聞配達をしながらかろうじて中学は卒業し十五歳で東京渋谷の果物店に就職しますが長続きせず転々と職を変えていきます。そしてついに昭和43年(1968)、10月11日、最初の引き金を引くのです。さて話を戻します。中上健二は、永山則夫の文学とは永山則夫の全人生、殺人を犯したということを含めてその「生」「身体」全体によって産み落とされたものであって、そこに文学としての輝きがあるのなら、その輝きを文学として認められなければ我々は文学者として立つ資格がないではないか。という憤怒の主張であったと思います。淡々とした江藤淳の話しぶりとは対照的に、一言一言詰まりながらも体全体から絞り出すように発する中上健二の言葉は、自分の弟をかばうような優しさに満ちあふれたものでした。この議論のなかで江藤淳は、永山則夫の文学を認めることと殺人者永山則夫の日本文芸家協会の入会を認めることは別の問題だというところでそこから踏み込むことがなく、議論が終始かみ合わなかったように記憶しています。そもそも文芸作家協会のような組織は、もともと一般社会に帰属したものだという江藤淳らしい極めて常識的な見識のように一見思えますが、しかし私は、江藤淳にはその意志のなかに、「殺人者」である永山則夫をまず罰する姿勢があたのではないか、そしてその罰し方が永山則夫の入会を拒否することだったのではないかと感じたのです。私は江藤淳の『妻と私』を読み、この作家が好きになりこの作家が情愛に満ちた人であることを知りましたが、この時の江藤淳の永山則夫についての態度は江藤淳の文学者としての本質を決定的に露出させているのではないかと思いました。私は文学とか絵画の価値というものは、道徳だとか社会のルールだとか裁判所の判断する善悪とは違うところで人間や社会の真実に迫ることであるし、本当に弱いもの本当に不憫なものの側に立たなければどこにその値打ちがあるのかと思います。況や人を罰することが文学の使命ではないはずです。さて話がおおいに脱線しましたがホリエモンに話を戻しましょう。私は永山則夫になぞらえてホリエモンに同情をしたいのではありません。永山則夫の背負ったものの重たさ、暗さ、悲しさにくらべれば、ホリエモンはあまりに軽くてゴムフーセンを蹴飛ばすようなものです。しかし時代は過ぎて、永山則夫が処刑されるその前年にオン・ザ・エッヂという会社を設立し、「額に汗して働くやつはバカ」「人の心はお金で買える」と放言し、一躍新しい時代の旗手のようにもてはやされたホリエモンの姿は、なんであれ、戦後の日本人が死にものぐるいで追い求めてきたもののなれの果てのわたしたち一人一人の現像にほかならないということを、中上健次の文学を理解することなど到底無理な、想像力の貧しい世間の連中に言ってやりたかったということです。さて本題へ入るとします。

 年が明けもう桜も散ってしまったのに11月の(11月分の)美術館マンスリーを今書いております。この頃は体の調子が悪く美術館に行って何か新しいものを吸収しょうかというような積極的に気分になれず、かと言ってホテルの中で読書をするような気にもなれず、何をするにも消極的な気分でしたが、こんなときは空気のいいところにでも行ってみるかと久しぶりに青梅の玉堂美術館に行くことにしました。新宿駅から電車に乗って乗り換え時間も入れると2時間弱の道のりです。日曜日ということもあってトレッキングシューズを履いた奥多摩方面に向かうお客さんで車内は多少混雑していましたが、東京の地下鉄のいつもの暗くくすんだ車内の雰囲気とは違って明るい光が差し込む車内はどこか華やいで、都会で暮らす人のささやかな息抜きかなと勝手な同情をしながら私自身もこうやって都会とは反対方向に向かう同じ電車に乗っているのです。ちょっとした小旅行の気分になって気持ちよく電車に揺られ、青梅駅からさらに青梅線で20分ほどの御嶽駅でおります。この辺りは甲州へと続く青梅街道の古くからの小さな宿場で、両際を急峻な山で囲まれて今でも竈の煙が立ち上るような山里のなつかしいのどかな風景がひろがっています。ちょうど昼時で、近くにある観光客に有名なそばやに入って、田舎そばで美味しいと思ったことはありませんが山菜そばをいただてから駅の目の前を流れる多摩川に掛かる御嶽橋を渡り、山の瀬を川縁に下りたところに建つ玉堂美術館に向かいました。

 私は以前に、村上華岳より川合玉堂のほうが数倍偉いと書いたのですが、これは恥ずかしながら私が今日まで生きてきてやっと辿り着いた境地、人生観からくるものです。こんなふうに言うとお前は孔子か孟子かと馬鹿にされるでしょうが、やっと私も玉堂の心持ちが御嶽の自然のようにしみじみと心にしみいるようになったのです。玉堂の世界がわからぬ人は心が歪んで貧しいのだと反省してください。村上華岳とくらべてどうかは別にして、玉堂の素晴らしさは、村上華岳の名前も知らない普通のじいさんやばあさんが玉堂の絵の前に立てば誰もがこころが和らいでやさしい気持ちになる。言葉にならない感動を受けるということです。玉堂の絵画はそういう普通の人のこころ、普通に真面目に一生を生きる人たちのこころをつかむ力を持つのです。ここで少し玉堂の生涯に触れておきましょう。川合玉堂(本名芳三郎)は明治6年(1873)、愛知県葉栗郡外割田村(木曽川町)に父勘七、母かな女の長男として生まれ、八歳の時に一家で岐阜市米屋町へ移住し両親は筆墨紙を商います。米屋町は長良川の南、岐阜の中心地からほど近く見上げれば金華山岐阜城があり、わが長良川画廊からは直線距離で200メートル弱のところです。玉堂はここで17歳で京都へ出るまでの少年期を暮らします。玉堂は幼い頃から画家になる夢を持ちましたが父勘七はそれをこころよく思っていなかったようです。しかし子供とは思えぬ上手な絵は近所では評判だったといい、まわりの大人たちの「この子はきっと将来立派な絵かきになる」という声に後押しされ、画家を目指すことを許されます。十四歳で尋常小学校を卒業すると、年に四、五回、郷里との間を往復し京都の望月玉泉に学び、明治23年、十七歳で第三回内国勧業博覧会に出品した「春渓群猿図」「秋景群鹿図」が褒状を受け、それを契機にいよいよ本格的な画家の修業をするために京都に出て、当時四条派を代表する画家幸野楳嶺に入門します。その後は明治29年、二十三歳で上京し橋本雅邦門下となり画家としての歩みを着実に進めるわけです。私は玉堂芸術の一面、それは本質かもしれませんが、非常に厳しいもの非常に冷たいもの非常に悲しいものを作品の向こうに感じます。だからこそ穏やかな線や色彩を描けるのではないか。玉堂は明治24年、十八歳のときに濃尾大震災によって父勘七を失います。岐阜の家財を引き払い母を京都に引き取って親子二人の暮らし始めますが、翌々年には母かな女も急性肺炎によって失います。望月玉泉の門を叩く玉堂14歳のとき病弱な父はすでに62歳の老齢でした。一人息子であった玉堂は父母の愛情を一身に受けて幼年時代を過ごし生活も安定しない普通の人とは違う人生を歩むことを認めてくれた両親に対し、それ以上の愛情と感謝の気持ちを抱いていたでしょう。その両親を相次いで亡くしたとき、玉堂は、その悲しみのなかで生きていくことの孤独と無常さを自らこころの奥底に深く刻んだのだろうと思います。そして、それによって悲しみにくれるのではなく、鬼のような厳しさを自分に向けて画業に邁進していく決意をしたのだと思います。玉堂芸術の持つ厳しさと暖かさはこの時の体験無くしては語ることはできないとわたしは思います。

 私が玉堂美術館に来るのはこれで三回目です。最初は今から15年位昔でしょうか、玉堂の作品を二幅持って鑑定をお願いに行きました。確か一幅は真筆もう一幅は偽物だったと思います。私はここにくると、玉堂の作品としてはそれほどの名品は収蔵されていませんが、日頃扱うことのできる水準の作品が並んでいて、絵の全体や落款印章の特徴など保証なしの交換会でぬからぬように勉強させてもらうのですが、なにより楽しみなのは、玉堂の晩年を写した記録映画が上映されていることです。わずか10分程度だと思いますが、玉堂の運筆の早さ巧みさはまさに神業のようです。美術館には玉堂十五歳の素描が展示されています。私はこの頃の作品を見ると涙が流れる思いがします。ただ絵が好きで絵をかくと幸せで楽しくて、学校から帰れば絵ばかり描いていた少年がただ好きだけでは通用しない画家の道を歩み出したころの真剣で誠実な素描。玉堂はこの頃から死ぬまで、写生を通して日本画の神髄である筆線の習練を積み重ねていくのです。画家にはいろんな画風、生き方があります。村上華岳だってもちろん魅力たっぷりの画家です。でも玉堂のような画家は他にいないのです。同時代の日本画の巨匠たち、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月、木村武山らが、伝統を打破して新しい日本画の創造を目指したのとは全く生き方を異にして、日本絵画の伝統のうえに玉堂にしかない精神性を湛えた自らの絵画表現を打ち立てたのです。私は近代日本画最大の画家は川合玉堂だと思っています。

 先月のことですがこれと言って見たい展覧会がないので、東京国立博物館の常設展を見に行きました。そこに玉堂の六曲一双屏風「渓山四時」がありました。あらためて感動しました。やっぱり玉堂は凄い。左の片双に春から夏、右の片双に秋から冬の山間の風景が描かれています。なんとおおらかでゆたかで味わい深いのでしょう。時間が流れています。くりかえし、くりかえし、流れるような自然の営みのなかで人の一生の時間もとけ込んでいるのです。命がとけ込んでいると言ってもいい。

 玉堂が誰よりも偉い、凄いと思う私ですが、思想の未熟さ文章力の貧困さ故言いたいことの半分も言葉にすることができません。ただ最後に言っておきたいことは、ユートピアのような、現実世界とは遊離したような絵画世界がそこにあるのではなく、玉堂の到達した世界、芸術の本体と言ってもいいかもしれません、それが玉堂の絵画の向こうにあって、それが何かは、普通の人が、もちろんわたしも、立ち入ることのできないもの、知る故のないものである。その点において玉堂は理解しやすい画家ではないと申し上げて今回は終わりにします。

(2006.5.6 掲載)

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