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長良川画廊店主の美術館鑑賞記 7 難波田龍起 平成17年7月

 今月は衆議院選挙があって自民党が大勝しましたが、この先日本がどうなるのか、私にはわかりません。日本がどうなるかより、私がどうなるかです。前回の岡本太郎から、突然の「ウートレ」ですから、それも、一階の長良川画廊を二階に引っ越して、一階を「ウートレ」にしょうというのです。天井をぶっ壊して、コンクリートを剥き出しにして、一応、コンテンポラリーな雰囲気に大改装・・。家賃が23万円、工事費にどれだけかかるやら。このところ、期待より不安の方が大きくなってきました。「ウートレ」で何をやるのか、現代で何をやるのかです。果たして現代に売れるだけの価値のあるものがあるのでしょうか。ヤマガタやラッセンや千住博など死んでも売りたくないし。一番の問題は、この十余年、現代の美術に全く興味が無かったということです。郷土の閨秀、江馬細香や張氏紅蘭の方が現代の女性より遙かに強く、自由で、魅力的だし、浦上玉堂や大雅や白隠の方が、よっぽどアートでしょう。これは疑いのない真実ですが、しかし、ここからが岡本太郎なんです。仮に、現代というものが、現代のアートも、我々の価値観も、自民党を大勝させたその政治状況も、どうしようもなく浅はかなものであったとしても、その今を、その現在を、それは歴史のほんの一瞬の生命であっても、そのまっただ中に私たちは生きているのです。ホリエモンの故郷のお父さんが話していました。「親として、してあげられることは、病気になったときに薬を買ってやることくらいだ。しかし、何もかも失って一文無しになったら、その時はここへ戻ってきなさい。」と、私はその話を聞いて、このお父さんは偉い、だからその子供も偉いに違いないと思って、ホリエモンを応援しているのですが、我々の生きているこの現代がホリエモンであり、それを見捨てずに、愛おしく抱きしめてやるのも、ホリエモン自身であり、ホリエモンのお父さんであり、我々だということです。まあ、こんな具合に、自分でああだこうだと考えつつも、最後は、なんとかなるでしょうと開き直るしかありません。プロ野球選手のヒーローインタビュウーと同じく、「応援よろしくお願いします。」です。さて、そんな私のオリエンテーションの一環として、今回は東京オペラシティアートギャラリーの「生誕100年記念 難波田龍起展 その人と芸術」です。もともと、東京オペラシティアートギャラリーには難波田龍起のコレクションがあって、それに書簡等資料を補充して企画されたもので、特別展というより、常設展かなという気もしますが、私自身、難波田龍起を見るのは初めての体験なので、 そう最初からケチを付けずに話を進めることにしましょう。

 難波田龍起は、1905(明治38)年、北海道旭川に、父憲欽、母ゑいの次男として生まれますが、1歳を待たず、一家は、上京。1923(大正12)年、早稲田第一高等学院に入学します。この頃から文学、哲学、宗教に関心を寄せるようになり、近隣にアトリエを構えていた高村光太郎を自作の詩を携えてしばしば訪ねるようになります。1927(昭和2)年、光太郎に誘われて、上野の東京府美術館で開かれていた「仏蘭西西洋美術展」に行き、そこで、ゴッホの「鰊」に大きな衝撃を受け、「芸術家の仕事に生きたい。」と決意。1928(昭和3)年、光太郎の紹介により、川島理一郎が主宰する金曜会に参加し、画家への道を歩み始めます。1929(昭和4)年、川島理一郎、梅原龍三郎らが創立した国画会に初入選。川島理一郎の影響を大きく受け、武蔵野の風景や、ギリシャ彫刻、日本の観音像などをモチーフにした具象画を描きます。戦後は、抽象傾向へと展開し、1997(平成8)年に92歳で亡くなるまで、一貫して抽象表現の可能性を探求し、清冽で、深い精神性をたたえた、独自の画境に到達しました・・・。

 この展覧会では、初期の具象作品から、抽象期前半の代表作《ファンタージ赤》、難波田独自の抽象表現へと向かう《海神の詩》《哲学の杜A》から、最後の到達点とも言うべき《生の記録3》など主要作品の他、陶芸作品、スケッチ、父、憲欽の臨終の書(この書が会場の中で、一番存在感がありました。)、青年時代の日記や詩作、高村光太郎から送られた書簡などが展示され、芸術家、難波田龍起のすべてが、ここにあると言っても過言ではないのですが、こういう一作家の回顧展というのは、結局、この人は「どうなんや」ということを全体として問うわけです。
 《自己の内面との絶えざる対話を通じて紡ぎ出された作品には、深く透徹した精神性とひとりの人間のひたむきな人生の軌跡が形象化されています。》《抑制のきいた清澄な画面に高い精神性が漂う独特な心象風景の傑作が次々に生み出されていく》 (展覧会カタログから) ここに引用した文章は、難波田龍起展に寄せる解説文ですが、その内容の妥当性はともかく、こういうのは批評にはなっていません。単なる紹介文、悪く言えば「ちょうちん」です。話は脱線しますが、手元に、「呉昌石・王一亭・斉白石 三大巨匠展(昭和49年、三越本店)」の展覧会カタログがあります。その序文を谷川徹三が書いていて、面白いのでここに紹介しておきます。

 呉昌石、王一亭、斉白石という三人のうち、戦前日本人によく知られていたのは、呉、王の二家である。しかし私はこの二家の画にはさして親しまなかった。それに反して白石老人は、昭和14年北京に一ヶ月ほど滞在した際、友人からこの画家のことを聞き、かつその作品の幾つかを示されて感心したことがある。その友人は老人と親交もあり、私は色紙を一枚貰った。昭和一八年、武者小路さんと北京に行った際には、誰かに招ばれて老人と同席したこともある。武者小路さんはその頃すでに彼の刻なる無車という印を使っていた。戦前この人の声名の上がるにつれて、日本でもその作品の展観が幾度かなされた。私の見た限りでは、今は亡い須磨弥吉郎のコレクションに、秀れたものも、珍しいものも多かったと記憶している。今度の展観の作品でも、私の好みはやはり白石老人に傾く。しかし率直に言って、石涛や八大山人や金冬心のように、からだをふるえさせるようなものはない。考えて見れば、それは無理な注文で、そんなものが、そう無闇にあっては、たまらない。

 さて、話をもとに戻して、難波田龍起は凄いのか、凄くないのか。難波田は、戦後、モンドリアンみたいなクレーみたいな絵から始まって、ポロックに行って、それから《海神の詩》《哲学の杜A》《生の記録3》に行き着くわけですから、その時代において、アンフォルメルとか、抽象表現主義とか言われる、現代美術の世界的な潮流のなかで、自己表現の可能性を追った画家です。先ず、問われるのは、ポロックやデュビュッフェやデュシャンに「どうや!」と向こうを張れるだけの仕事をしたのかどうか。そこまで言わなくても、日本の現代美術のなかで、どれだけの画家なんやということです。私のような素人が、ましてや、現代美術にこの十余年、全く興味がなかったのですから、そう簡単に偉そうに、わかったようなことを言うなと思いつつも、今は、今の時点で感じたこと、考えたことを言って、後に、その間違いに気付いたら、反省を込めて、また書くと。それが、この美術館マンスリーのスタイルです。前置きが長いですが、そんなことで、今回の展覧会を見た雑感を少々。

 私は、抽象表現であっても、具象表現であっても、レディ・メイドであっても、あるいは良寛や、山岡鉄舟の書であっても、「ある均衡」というものが必ずあって、はじめて作品として成立していると思うのです。アンフォルメルにしても、シュプレマティズムにしても、どんなに足掻いたところで、必ず、作品の内部に、または、作品と作品の外部に境界は生まれるのですから、そこに、均衡か、あるいは緊張感が生じると思うのです。私は、結局、作品の質の差異はそこから生まれと思いますので、私の絵画を見る意識は、その均衡が発する何かを感じ取ることに集中します。難波田の絵画を見ると、どうも、その均衡の取り方が、鈍くさいというか、イマイチというか・・。難波田の場合、天性の「不器用」さがあって、それが、作品の暖かさ、穏やかさに繋がっているように感じます。私の好みか偏見かもしれませんが、現代美術をやるのなら、しゃっきとした緊張感、厳しさを絵に感じさせて欲しいのです。《生命の戦慄のないものは芸術でない、断じてない。芸術の創造には生命の戦慄 ― 感動が伴うものである。これは若き日より私の内に生きている高村光太郎の言葉である》と難波田は語っていますが、私は、難波田の絵画には、「生命」は感じますが、その向こうにある、「生命の戦慄」までは、どうなんでしょうか? 私の感度の低さ故かも知れませんが、どうも不十分な印象を受けました。ポロックとの差も、そこらへんにあるように私は思うのです・・。

お口直しに、秋の一句を。

ぬけがらにならびて死(ぬ)る秋のせみ   内藤丈草

(2005/8/20)
生誕100年記念 難波田龍起展 その人と芸術
平成17年7月15日ー9月25日  東京オペラシティアートギャラリー

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