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長良川画廊店主の美術館鑑賞記 10   日本民藝館と柳宗悦 平成18年11月

 今年の六月初めにある美術商の方から一冊の本を勧められました。『愉快な骨董』という尾久彰三さんの本です。恥ずかしいことですが私は骨董品の世界にとんと不案内で、書画屋である以上全くわからないでは体裁が悪いのですが、書画だけでも手一杯で、勉強しなければならないことが四方八方にあると言い訳をして、今でもそうですがどちらかと言うと見て見ぬふりをしてきたのです。しかし書画に通じた人は骨董の世界にも通じると考えるのが自然でしょう。ともかくそんな反省と後悔する気持が相まってその『愉快な骨董』を読んでみることにしました。この本は日本民藝館にお勤めの著者が、お金の工面や奥さんの冷ややかな視線に堪えながら、丹波の徳利、根来塗りの琵琶、李朝の石像、備前の甕など、〈骨董〉ではなく、著者に代わって〈民藝〉と呼びますが、民藝品蒐集の悲喜こもごもを、爽やかに、時にはしっとりと著者の温かな目指しを通して綴ったもので、文章の向こうに著者の生きる姿と民芸への深い愛情が垣間見え、単なる骨董道楽の本ではなく民藝入門の良書として、また生活の物語として楽しく読ませて頂きました。さて尾久彰三さんによって、〈民芸の美〉に導かれましたので、今回の美術館マンスリーは、柳宗悦というか日本民藝館ということになりました。

 6月20日、火曜日のうららかな初夏の一日。日本民藝館へは渋谷から京王井ノ頭線に乗って二駅目、駒場東大前駅から歩きます。駅を出てすぐ東大駒場講堂を正面に見て行き交う学生の顔を観察しながら左に折れて暫く歩くと閑静な住宅街。近くに広大な加賀前田の屋敷跡だという駒場公園があってどこか過ぎ去った歴史の哀愁も感じさせるこの辺り、柳宗悦がこの地に居を構える昭和の初めはのどかな田園風景が広がっていたのでしょう。退屈することなく駅から10分も歩くと柳宗悦が設計したという白壁の木造二階建て大正のお役所っぽい雰囲気の日本民藝館に。もう少し早く来られれば修復復元された館の向にある柳宗悦邸も見ることができたのですが、その日は公開終了後ということで残念ながら柳邸には入ることはできず、それでも、この日は『柳宗悦の蒐集』日本民藝館創設70周年記念特別展ということで、入り口で靴を脱ぎ、千円の入場料を払い、一階から二階へとひんやりとした板張りの床を歩きながら、元々は日用品、雑記として用いられた日本各地の民窯で焼かれた瓶や壺や皿や漆工品、イギリスのスリップウエアと呼ばれる古陶磁、李朝の陶磁や民画、アイヌの着物や東北の刺子やこぎんなど、柳宗悦の美意識を通して蒐集された民芸品の数々を見ることができました。先月の28日にNHKの日曜美術館で、尾久彰三さんを案内人に「柳宗悦の家~初公開!美の思索の拠点」が放送されたこともあり、館内は平日に関わらず、多くは女性の来館者でにぎわっていました。

 ついでに書き置きますと、この日、日本民藝館を後にして近くの駒場公園の一郭にある「日本近代文学館」に立ち寄り「恋歌の現在」という企画展を見ました。大正生まれの歌人から昭和生まれまでの歌人を百人選んで、その直筆による「恋歌」と、それについての自らの注釈を並べていました。存じ上げないお名前が多いのですが、現在の詩歌の世界では著名な方々だと思います。一人一人そのお顔と歌、その自注をお年寄りの方から三十歳位の方まで順番に丁寧に追っていくと結構引き込まれて日本民藝館より長く留まっていました。ここでの感想を書き始めると長くなってしまいますので、興味のある方は「恋歌の現在」(角川書店)に詳しいので読んでみてください。

 さて尾久彰三さんの本を読み、民藝に導かれて日本民藝館に行ったのはいいのですが、どうも関心は〈もの〉より人の方に、柳宗悦という人に向いてしまいます。もちろん日本民藝館の究極の目的は柳宗悦の仏教美学の布教にあるのですから私のように多少でも柳宗悦を知ろうというものが現れることは柳宗悦も尾久彰三さんにとっても喜ばしいことでしょう。しかし、柳宗悦を「知る」にはどうしたらよいのか、「知る」とはどういうことか。私の小画廊で久松真一の展覧会をしている時ある東洋哲学の先生が言っていました。私が「久松真一を学ぶのに、どの本が一番いいですか」と尋ねると、「どの本を読んでも一緒です。どこを切っても同じ事が書いてある。哲学とはそういうものです。」と。「哲学とは、そういうもの」と言われても・・、哲学は、論理ではないということか、精神で感じるということなのか。ともかく、いくつかの著書は読んでみたのですがそれからはや四ヶ月も経ってしまいました。早く書き終わって次から次へと回を重ねていきたいのですが、今回は特に相手が哲学者であったのが誤算でした。画家であれば先ず絵を見て感じればいいわけですが、哲学者は読まないことには始まらないわけです。別に立派な論文を書くのではないし、それがこの美術館マンスリーの目的でもないのですが、それでも何か一つくらい自分の言葉で感じたことをストレートに語りたいと思うのです。そこでつい、ああでもない、こうでもないと考えが巡って、ここ二週間、著書を読み返し、なんとか無難に考えを纏めようと頑張ってはみたのですが・・・、やはりどうもしっくりこないというか、尾久彰三さんには申し訳ないのですが、読めば読むほど違和感を感じることが大きくなってしまいました。

 《彼らはかかる恵みに支えられて、働きまた働く。多くは貧しき人々であるから、安息すべき日さえも与えられておらぬ。多くまた早く作らずば、一家を支えることができぬ。働きは衆生に課せられた宿命である。だからそこには、何か温かき意味が匿されていまいか。正しき者は運命に甘んじて忙しく日を送る。働きを怠る者は、いつか天然の怒りを受ける。課せられた日々の働き、このことがまたどんなに彼らの作を美しきものにさせたであろう。否、彼らの作に美を約束することなくして、神は彼らに労働を命じはしないのである。彼らの一生に仕組まれた摂理は、終わりまで不思議である。》(工藝の美)

 私はよくわからないのです。柳宗悦は名をなした芸術家による美、天才による美ではなく、名も無き工人、貧しき民衆によって作られ、またそれらの人々が普段、日常の中で使い続けたもの、長く雑器として蔑まれ「下手物」と呼ばれてきたもの、それを民芸と呼び、そこに〈美の基準〉と〈工芸の正しき姿〉を見いだす。初期の茶人たち、利休や珠光らが見いだした美の極致はすべて名も無き工人、貧しき民衆によって作られた日用の雑器であったことを根拠とし、正しき工芸は限られた個人、限られた天才の手の内にあるのではなく、名も無き工人、貧しき民衆の手の内にこそあるべきだという。そういうことをさんざん語る柳宗悦は私は正しいと思う。しかしそれがどうして名も無き工人、貧しき民衆の幸せと結びつくのか。〈正しき工芸〉に潤う世界がどうして〈美の浄土〉へと結ばれるのか。そもそも〈美の浄土〉とは何なのか。柳宗悦は名も無き工人、貧しき民衆が作り出した工芸を〈野に咲く花〉と言った。野に咲く花は野にあってこそ美しいのではないか。柳宗悦は工芸は廉価でなくてはならぬと言う。日本民藝館の壁にあげガラスの向こうにあれば高嶺の花になるではないか。私は死んだ母親の墓に手を合わせたこともない極悪深重な凡夫ですから、《美の浄土》も、彼ら凡夫たちの清廉な心の内も想像すらできないのかもしれません。しかし《彼らの一生に仕組まれた摂理は、終わりまで不思議である。》とは、どうしようもなく違和感を感じてしまうのです。私は柳宗悦の言葉を追うほどに〈野に咲く花〉が遠く霞んでいくように感じるのです。

 しかし柳宗悦という人の仏教美学というものは、〈弥陀の救いを信じることによって絶望から救われる〉という他力の教えを根底にしているのですから、あくまでも、彼らの一生は凡夫としての一生であり、凡夫には自ら立ち上がる力はないのです。ただ弥陀の救いを信じることで救われるのであり、《・・終わりまで不思議である。》とは、その弥陀の力は実に不思議であると言っているだけなのです。他力宗、特に浄土真宗では、どんな苦しい生活でも、ただ南無阿弥陀仏ととなえ、弥陀に感謝し、弥陀の寄り添い、不満も言わず、嫌な顔もせず、毎日毎日を精一杯生きる人を「妙好人」と言い、理想の人間像のように言うそうですが、私には実感として理解できないのです。「妙好人」は実際にいるでしょう。しかしそれは限られた一種の天才ではないですか。私は「妙好人」などに到底なれないし、そうなりたいとも思わない。あ掻いても掻いて生きている人の方が、はるかに人間らしく、いとおしいと思うのですから、柳宗悦に近づけないと思うのもしょうがないことかもしれません。

 私は柳宗悦のような、海軍少将の父親を持ち、学習院初等科から中等科、高等科へと進み、この間、後の『白樺』の主要メンバー、上級生の志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄、里見弴らと出会い、明治四十三年(1910)の創刊の『白樺』に同人として参加し、同年、東京帝国大学文科大学哲学科に進み、その頃から西洋の芸術に関心を持ち、ハインリッヒ・フォーゲラー、ロダン、ホイットマン、ウイリアム・ブレイクに関する論文を『白樺』に発表し・・、というような上等な人生を送ってはいないので、かなりひがみ根性が入っているのだと思います。しかしやはり、高いところから見下ろしては名も無き工人、貧しき民衆の本当の悩みや苦しみを汲み取ることはできないのではないでしょうか。白隠や親鸞や空海のような宗教者は、名も無き工人、貧しき民衆に身を寄せて、それ以上の艱難辛苦を体験し、初めて彼らに何かを語ることができたのではないのですか。私は柳宗悦が単なる仏教学者であるのなら何の魅力も感じない。況や一個の宗教者でなければ、柳宗悦の言葉に何の真実も力も持ち得ないと思うのです。

 だらだらと私の駄文を連ねても意味がありませんので、最後に大正八年、日本統治下の朝鮮で起こった「三・一独立運動」に関連し読売新聞に掲載された「朝鮮を想ふ」と題する柳宗悦の一文を尾久彰三さんの本からここに紹介することにします。ここに書かれていることは、正しく、尊く、また価値のあるものです。しかしそこからどうするのかが一番問題で、困難なことです。臨済禅で言うなら、「大疑の下に大悟あり」です。それは、私たちの生きる現在においても私たちの社会に突きつけられたままの社会の大きな悩みの源であると思います。

 《自分は朝鮮に就いて充分な予備知識を持っているわけではない。僅かに所有する根拠があれば、それは凡そ一ヶ月の間朝鮮の各地を巡歴した事と、旅立つ前二三の朝鮮史を繙いた事と、予てからその国の藝術に厚い欽暮の情を持っている此の三つの事実だけである。併し是等は僅かな根柢に過ぎぬかも知れぬが、今もだし難い情が余に此一篇を書かせたのである。余は以前から朝鮮に対する余の心を披瀝したい希いがあったが、今度不幸な出来事に就いて少なからず心を引かされている。特に日本の識者が如何なる態度で、如何なる考を述べるかを注意深く見守っていた。併しその結果朝鮮に就いて経験有り知識ある人々の思想が殆ど何等の賢さもなく深みもなく又温かみもないのを知って、余は朝鮮人の為に涙ぐんだ。余は前にも云ったように朝鮮に就いて何等の学識ある者ではないが、幸いに余はその藝術に現れた朝鮮人の心の要求を味わう事によって、充分な情愛を所有する一人であるのを感じている。余は屡々想うのであるが、或国の者が他国を理解する最も深い道は、科学や政治上の知識ではなく、宗教や藝術的な内面の理解であると思う。云い換えれば経済や法律の知識が吾々を他の国の心へ導くのではなくて、純な情愛に基づく理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている、余は日本に於ての小泉八雲(Laffcadio Hearn)の場合の如きをその適例であると思っている。恐らく今迄ハーン程日本を内面から味い得た人は無いであろう(略)》

 《吾々とその隣人との間に永遠の平和を求めようとなれば、吾々の心を愛に浄め同情に温めるよりほかに道はない。併し日本は不幸にも刀を加え罵りを与えた。之が果して相互の理解を生み、協力を果し、結合を全くするであろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である。分離である。独立が彼らの理想となるのは必然な結果であろう。彼等が日本を愛し得ないこそ自然であって、敬い得るこそ例外である。人は愛の前に従順であるが、抑圧に対しては頑強である。日本は何れの道によって隣人に近づこうとするのであろう。平和がその希望であるなら、何の穉愚を重ねて圧力の道を擇ぶのであろう。 金銭や政治に於て心は心に触れる事は出来ぬ。只愛のみが此悦びをあたえるのである。植民地の平和は政策が産むのではない。愛が相互の理解を産むのである。此力を越える軍力も政権もあらぬ。政治ではなく宗教である。智ではなく情である。只ひとり宗教的若しくは藝術的理解のみが人の心の内より味い、味われたものに無限の愛を起すのである。日本は朝鮮を治めようとして軍人を送り政治家を送った。併し友情や平和の真意を知っているのは宗教家であり藝術家である。余は習慣が国債の問題をひとり政治家にのみ委ねるのを奇異な幼稚な態度であると思う。余は古いソクラテスやプラトーンの如き又は孔子、老子の如き人々が真に一国の治平、万国の平和を語り得る人々であると確く信じている。朝鮮の人々よ、余は御身等に就いて何の知識もなく経験もない一人である。又今迄御身等の間に一人の知人をすら持っていないのである。併し余は御身等の故国の藝術を愛し、人情を愛し、その歴史が嘗めた淋しい経験に盡きない同情を持つ一人である。又御身等がその藝術によって長い間何を求め何を訴えたかを心に聞いている。余は余の心にそれを想う毎に淋しさを感じ、湧きくる愛を御身等に贈らずにはいられない。 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を苦しめることがあっても、彼等の中に此の一文を草した者のいる事を知ってほしい。否や、余のみならず、余の愛する凡ての知友は同じ愛情を御身等に感じている事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでいないと云う明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい。余は此短い一文によって、少しでも御身等に対する余の情を披瀝し得るなら浅からぬ喜びである。》

尾久彰三さんは、この、柳宗悦の一文に寄せて以下のように語っています。

 《ここではさらりと、節目の年を記念して、私の愛する李朝の焼きものを紹介して終わろうと思ったが、朝鮮とその芸術についての、柳のいくつかの論稿を読んでいるうちに、その美しさをわれわれに知らせてくれた彼の仕事が、那辺から生まれているかを記すことこそ肝要かと思われてきて、長い引用をすることになってしまったわけである。柳の朝鮮に関する仕事は、『柳宗悦全集・第六巻』に納められているので、興味を持たれた方は是非読んで欲しい。それらを読んでいただければ、ものの美を愛することが、人類愛のことにまで高められることもわかっていただけると思う。柳宗悦が、ものの美しさを愛することによって、ものから様々な真理の言葉を聞き得たように、われわれも、真理を受け取るだけの愛をもって、ものに接したいと考える。そうでなければ、ものの美しさのことなど、つまらぬことではないか、と言っても過言ではないように思うのでる。》

 私も《そうでなければ、金儲けなど、つまらぬことではないか》と、尾久彰三さんの言葉を肝に銘じて、《そうでなければ》がどういうことで、《真理の言葉》とは何なのか、今後の課題として、柳宗悦でも尾久彰三さんでもなく、私には《愛》は似合わないので、批判精神を失わず、主体性を持って考えていきたいと思っております。

(2006.11.20 掲載)

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