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どうして、お金ももらえないのに頑張るの?

先日、小学校のPTA役員会議がありまして、このような状況なのでzoomを使ったオンラインでやったわけです。

僕が仕事部屋のドアをしめているときは、誰かと話をしているときという暗黙の了解は家族の中でも浸透してきました。

電話のときもあれば、オンライン会議、その他動画や音声の収録、ツイキャスやYoutube等のライブ配信ということもあります。

オンラインPTA役員会議が終わって、ドアを開けると娘が入ってきました。

「お父さん、今日はなんだったの?」

 「小学校のPTAだよ」

「いろいろやってるよね。なんで、お金ももらえないのに頑張るの?」

そう、僕はなんだか「いろいろ」やっている。
実業家で多角的にビジネス展開をしているというならわかる。そうじゃなくて、お金にならないボランティアばかり、いろいろやっている。

なぜ、声がかかりやすいかというと、「人望があるからですよ」なんて言ってくれる人もいるが、たぶん、そういう理由ではないと思うのです。
それは単純に、暇そうに見えるからに他なりません。

災害ボランティアはもちろん立派なことですが、毎日ずっと続いている地域のボランティアには、そういうスター性もありません。

パレートの法則じゃないけど、地域のボランティアというのも、2割の人が地域の面倒なことを8割引き受けているというのが当てはまりそうな気がします。

つまり何かを引き受けてくれたような人は、別な役割も引き受けてくれやすい、というのはあります。だから、一つやると次々と声がかかるのです。

保護司をかわきりに、民生委員、PTA役員、登下校見守りなど次々と声がかかり、数年のうちに今のような生活になってしまいました。

保護司や民生委員は、非常勤の国家公務員や地方公務員という立場も合って、実費弁償金や活動費というのは支払われますが、経費の一部を負担してくれるだけですので、お金の話をすればはっきり言って赤字です。お金が目的ならその時間で最低賃金でもバイトした方がいいです。

大臣から表彰されても、実生活でなんのメリットもありません。
なんなら、アマゾンギフト券でもくれた方が嬉しいくらいです。

ボランティアですから、もちろろん労力に対しての報酬はゼロで、実費弁償金として少しだけもらえる以上の経費がかかります。おまけに会費が請求されたり、寄付が求められることも多いですが、立場上、断りにくいです。

ちょっと愚痴っぽくなりましたが、幼い娘もそんな現状をなんとなく察知しているのでしょう。

しかも、うちの場合は、会社勤めとは違って毎日自宅で仕事していますので、仕事は仕事で大変だということも目の前でみています。同じようなテンションで、お金にもならないことにお父さんが一生懸命なのか不思議だったのです。

僕は二つの理由を説明しました。

ひとつには、自分を律するため。
「律する」という言葉は、低学年には難しいでしょう。

お父さんはもともと、とても弱い人間である。

すぐにズルをして楽をして自分さえよければ良いと考えてしまう。
暇になると生活もだらしなくなるし、悪いことばかり考えてしまう。

でも、誰かの為に頑張っているという用事があれば、それに相応しい自分でありたいと自然に思えるようになる。

人は、その場だけ取り繕っても、姿勢をみれば生き方がわかる。
いつでも良い姿勢でいられるように、自分の修行だと思って、声がかかったらできることは、できるだけ引き受けたいと思っているの。

そして二つ目の理由は、「あの世」に何も持って行けない自分は、「この世」に何を残していけるのかという想いです。

たくさん仕事をしてたくさんお金を稼ぐのは良いことだ。
欲しいものが買えるし、やりたいことができる。

そして、お金や、お金で得た自分の宝物、経験が、社会に還元できるなら素晴らしいことだ。
ところが、お父さんはお金だけではそれほどたくさんの人を幸せにできるほど、今のところお金には縁がない。

その少ないお金を独り占めして、限られた時間を自分のためだけに使ったとしよう。いつか死んで行くときに、何一つ持ってい行けないと気付いたら自分は幸せだろうか。残された人は幸せだろうか。
残念ながら宝物を集めても、本人が死んだらゴミにしかならない。

そう考えたら、自分が元気で頑張れるうちに、この「頑張り」を誰かの為に残していく方が、みんなが幸せに慣れるんじゃないかと思ってる。

そんな話をしたのです。

ボランティアというのは、どの業界でもなり手不足が問題になっています。
とくに僕らのような中年が難しいじゃないだろうか。いわゆるロスジェネ世代。

住宅ローンも払い終え、子ども達を立派に大学に行かせ、手厚い年金で暇を持て余している世代とはわけが違うのです。

いままだって頑張ってきて報われなかったし、一度も楽して儲けた時代を経験していないのに、どうして自腹切って家族にまで犠牲を課して、他人のためにやらなければならないのか。そう考えている人は少なくないと思います。

とっさに娘に話したことをこうして改めて振り返ると、僕は他人のために頑張ってるわけじゃなくて、結局自分のためなんだということがわかります。

悪く言えば、自分の幸せの為に他人を利用しているとも言えます。

人の命は、刻一刻とカウントダウンされているわけですが、そのように生きている僕は寿命が減るほどに幸福度が高まっていくのを実感しています。

そして、自分が幸せであることこそが、周囲の人をまた幸せにしていく唯一の方法だとも思っています。

誰のためでもなく、自分の都合で進化した結果、きれいに咲いている花のように。

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