ITPいわき演劇プロジェクト最終公演「でんでら野仮設診療所日記」を拝見して、演劇運動を未来にリレーすることについて考えた
直接的な当事者にはなりえないのだが、地域でおこなわれている演劇運動を未来にリレーすること、そして活動の傷痕を生々しく残す(アーカイブする、もしくは更新する)にはどうしたらよいかについては、部外者ながら折に触れて真剣に考えている。そのひとつひとつの活動の継続が、様々な要因によって厳しくなると、地域社会に当然遺されるはずである文化芸術の未来の弱体化に直結するからだ。
東日本大震災が始まった直後、私の職場(いわき芸術文化交流館)の制作方と当時のマーケティング担当のスタッフの中では「すぐに動きたい(実演芸術で被災者の支援をしたい/いわき(被災地)に来たいという実演者の支援をしたい)」という者と、「それどころじゃないだろう」という考え方の者とで二分し、どちらかというと前者のほうが多かったと記憶している。いま思うと、ちょっとした分断というか、志は同じでも理解しあえないものがあるのかもしれないと思った時間だったかもしれない。
未曽有の災害のなかで、みんな自分のできることで何とか貢献したいという焦燥感があった。でも私は後者だった。「ちょっと待ってよ」と。自分が物理的に激しい被災をしたわけでも家族を喪ったりしたわけでもないが、自分自身の心の整理すらついていかない状態だった。ふわふわした気持ちだった。危機的状況にあるときに、芸術が、自分自身に「効かない」のだ。芸術普及のミッションを課せられていわきに来たのだから、こんなに情けないことはなかった。そのことはまた別の機会に。
その後いろいろあって、休館していたいわきアリオスの再オープン(11月)のメドも立ったのが6月で、同月、市長の専権事項により当館のアウトリーチ事業が再開。いわき街なかコンサートの実行委員会のメンバーが集まれて近況報告と話し合いの末、その年の街コンの開催を決めたのは6月1日だった。ようやく何かが動き出した感が出てきたのはそのころだ。(震災の発生から1年間の職場の出来事は『文化からの復興 震災と市民といわきアリオスと』(水曜社)第一章で書いたのでそちらもお読みいただきたい)。だがしかし、まだ自分の勤務先も含め、練習施設や催事で使えるような施設もなく、そうした場所を探し出すだけでも一苦労な時期だったと思う。
そのころ、宍戸博さんから聞いたのか、ほろすけの会の竹田一行さんから聞いたのか忘れたが、いわき市久之浜の出身の劇団青年座研修所長の高木達(とおる)さんが、夏に、井上ひさしの『父と暮らせば』のリーディング公演を行い、秋浜悟史の『英雄たち』と取り上げ、はては東京から役者たちを呼んで『ウェストサイド物語』を上演し、被災された方々にお見せするとの話を聞いて、これはオオゴトだと思った。「え、どうするの?」と驚いた。
『あっぱとっぱの演劇祭』と名付けられたその事業を主催したのが、竹田さんや高木さんが立ち上げたITPいわき演劇プロジェクトだった。
私は仕事上、それまで(も今も)、演劇(やクラシック音楽、ダンス、映画その他の芸術ジャンル)の地元関係者と付かず離れずの距離感で付き合っていた。
地元の演劇人の方々とも、2007年から始まった「いわきでつくるシェイクスピア」事業に関わる市民出演者とのやりとりは当然あったが、業務外で主体的に何かコトを起こすことはなかった。
(2017年からは年に2回、おこづかいを使って「いわき街なか一箱古本市」を主催の一翼を担っているが、それは舞台芸術とは直接関係がない話)。
だがこの時はいてもたってもいられなくなった。いわきの演劇事情通の宍戸さんから相談されたこともあるし、実際自分の“本職”でもあった広報・編集面の応援だけでもさせてほしいと思い、当時も今もよく仕事を依頼している市内のデザイナー、亀岡高幸さんに連絡して、1色モノの各公演のパンフレットをデザインしてほしいと頼んだ。市内の広告代理店から独立してそんなに日が経っていなかった頃だったと思う。とにかく仕事が速い。私も彼も入稿→校了まで、ほとんど修正出さずに仕上げるぞ、くらいの気合いがあった。文字通りあっぱとっぱ(あっぷあっぷ、切羽詰まった感)が出ていたにパンフレットになった。それらに記載された出演者、スタッフ、協力者、諸々のクレジットを読み返しても、みんな、ちょっと訳がわからない混沌のなかで、あらゆる心情や信条をこえて集結し、何かのために力を持ち寄って実現に漕ぎつけたプロジェクトだったと思う。
真夏の中央台東小学校体育館の灼熱地獄のなかで、演者が汗だくになってバーンスタインのナンバーを歌い躍動し、集まった超満員のお客さんが大きな拍手を送っていたこと。竹田さんと、当時いわきで演劇活動をしていた古山絵里ちゃんが父娘を演じた『父と暮らせば』のリーディング公演の光景は、いまでも忘れられない。観たひとのこころに突き刺さったははすだ。
その後、いわきアリオスが開館前から5年がかりで続けてきた『いわきでつくるシェイクスピア』プロジェクトは2012年春に終了し、開館前から「カラオケを楽しむように戯曲を読もう」というキャッチフレーズとともに行ってきた、初心者から参加できるドラマリーディングワークショップも同年で一区切りがついた。
2013年に、いわき演劇の会といわき芸術文化交流館アリオスの共同企画・制作により、高木さんの(のちに「原発事故三部作」の第一作となる)『東の風が吹くとき』を、いわきアリオス中劇場と東京芸術劇場(池袋演劇祭)で上演した。
さらに2015年7月には、いわき市四倉出身の矢内廣さんが社長を務める「ぴあ株式会社」が支持母体として発足した「一般社団法人チームスマイル」によって、被災地の心の復興を応援するための劇場「チームスマイル・いわきPIT」が、いわき市平祢宜町にオープンした。矢内さんの同級生だった高木さんは同所の劇場長に就任され、2022年3月、チームスマイルによる同所の運営が終了するまで、ミュージカル、演劇、演劇指導者養成のワークショップなどの事業を手掛けられた。私たちいわきアリオス(特に元・広報グループが担当した事業)では、高木さんはもとより、箱崎一清支配人(彼も矢内さんの同級生)、矢野さん、市川さん、のちにアリオスのスタッフになってくれた加藤くんたちに、家族のように接していただいた。本当にお世話になった。
ITPいわき演劇プロジェクトの上演も、チームスマイル・いわきPITで展開されることが主になった。デザイナーの亀岡高幸さんによる宣伝美術(ポスター)は、上演のだいぶ前から街なかの至る所に貼り出され、時に「なんでこういうのをうちでやってくれないの?」と嫉妬を覚えるほどだった。まだ上演されていない作品世界を体現したクオリティの高い仕事で、ITPのアートワークが亀岡さんの多彩な表現(「仕事」以上の共感と熱量を感じる)で一貫して残せたことは、とてもよかったことだと思っている。彼を紹介したことは、私のささやかながらの誇りでもある。もちろん、亀岡さんの実力が卓越していたからではあるが。
ITPの活動後期は、2019年の台風19号の影響や、2020年からのコロナ禍のせいで、思うように展開できなかったこと多かったはずで、そうした話を聞くたびに、胸が痛くなった。
高木さんと直接話すことはそんなになかったが、『東の風が吹くとき』『愛と死を抱きしめて』につづく原発事故三部作の最終作、『でんでら野仮設診療所日記』だけは何とか上演したいという話は伝え聞いていた。それが、震災から12年後の2024年5月に遂に実現することになった。すなわちそれが、十数年つづいた、ITPいわき演劇プロジェクトの最終公演になると聞いた。
私は、いわきアリオス4階小劇場で上演された3公演のうち、5月26日(日)午後の最終公演の切符を買って観た。自由席だ。前日に観た人たちから、開場からあっという間に客席が埋まるよと聞いていたので、開場10分前から並んだが、その時すでに4階の屋上庭園前まで長蛇の列がのびている状況だった。
受付の方も、会場案内の方もみんな、ITPの出演経験者や応援者、それにチームスマイル・いわきPITの元スタッフたちであったりと顔見知りばかりで、ちょっとした挨拶大会になり、とても清々しい気分で客席に入った。
1階客席では、高校時代から知ってる子(で大学に入ってからはITPの裏方を手伝って育った子)が照明スタッフとして加わってて、よく通る声で場内の誘導もしていて涙が出そうになった。小劇場の2階の正面席2列がびっしり埋まった。その光景を見て、『いわきでつくるシェイクスピア』の3年目までの公演を思い出した(4年目は震災で中止、5年目は中劇場を満員にして2公演開催)。「観たい欲」「わくわく」が溢れたお客さまに「すみません、ここ、よろしいですか?」と声をかけ、お詰め合わせいただきながら誘導し、客席を埋めていくのは、本当に気持ちいいことだ。
開演直前に演出の高木さんが登壇し、出演者変更のお知らせと、自身が代役を務める旨の説明があり、拍手が起きた。
『でんでら野仮設診療所日記』の舞台は、地元の人なら誰でも想起するであろう、震災後比較的最初に整備された、高級住宅地内にある大きな公園の中の仮設住宅地。被災から何年も経ち、帰宅困難区域の規制が解除され始め、「故郷」に戻っていく者もあり、帰れない者もあり、あえて残る者も、この地に変わらず長年住まう者もあり……、という人々が織り成す人間模様だった。仮設住宅の診療所跡が人々の交流拠点になり、そこを舞台に芝居は展開される。
10代の高校生から認知症のお年寄りまで、十数名が助け合いながら日々交流するなか、ちょっとしたきっかけで噴出する、それぞれの境遇の違いや心の底に押し込んでいる感情というのは、やはり、発災直後から何年かの間に自分たちの体験や、心に秘めてきたものと重なり、なんとも言いようのない複雑な気持ちが蘇ってきた。そうだったそうだったと思いながら。
だが、私のなかに蓄積されていた感情は、時が経つにつれ消え去ったのか、目減りしたのか、地層化したのか、気化したのか、あえて避けようとしたのが、そもそも静岡出身の身寄りのないヨソモノだから地元の被災者と一緒にされたら申し訳ない、という気持ちが強かったのか……生々しい体感が薄れていることに気づかされ、ちょっと自分で自分が情けなくなった。
震災や原発事故の影響で、故郷を失い、家族を失い、心の底、生の根源まで抉られ、そのうえ不必要に複雑になった地域社会に放り出され、疑心暗鬼を押し殺しながらも、笑顔で生きざるを得ない人がいたこと、今もそうした状況が続いていることは忘れてはならないし、こうした演劇や芸術作品を通して、より多くの第三者の感情に訴えかけながら残していくことは、やはり重要なことではないか。
俳優陣は、いわきや郡山のおなじみの演劇人で固められていた。ある意味、これ以上は考えられないキャスティング。経験も個性もさまざまだが、高木さんの戯曲と演出は、それぞれのパーソナリティや持ち味が生き、役柄と俳優たちの人間性が絡み合うことで、底にある重く真面目なテーマをユーモアに変えたり、少しでも救いや希望のあるものに転化しようとしていたと思う。
人間の「人間性」を問われつづけている昨今の世界に、とても響くものであった。作品内のモチーフのひとつとして口ずさまれ、エピローグ前のシーンで合唱されたレ・ミゼラブルの「民衆の歌」も、うたを「整える」、というより、それぞれの人生や人間味や懸命さがメッセージとして自然に滲み出たものであり、涙を誘った。
さて、私は本文の冒頭に、「地域でおこなわれる演劇運動を未来にリレーする、その活動の傷痕を生々しく残す(アーカイブする、もしくは更新する)にはどうしたらよいか」、折に触れ考えている、と書いた。
ITPいわき演劇プロジェクトの十数年にわたる活動はこれで終了する。最終公演を拝見して、活動趣旨や作品、上演はもとより、運営や支える人たち、そして集まった満員の温かな観衆を含め、この「文化運動(演劇運動)」の総体がもたらしたものの大きさや、こうあってほしい、という、ひとつの生きざまを教わった(モデルとか、理想形、というものではない。パーフェクトに近づきながら、未来を信じた未完成を残し、かつ底辺に荒々しく激しい問いかけが横たわる表現行為として)。この活動を牽引してこられた高木さん、そして竹田さんの取り組みには、心からの敬意を表したいし、大変な状況下、ここまで継続してくださったことに感謝したい。
高木さんの「原発事故三部作」は、戯曲集の形で残された。が、『でんでら野診療所日記』を含む、これらの作品たちの「魂」や「本質」を、これからどのような形で伝えていくか。また、再演――東日本大震災と原発事故を、現地やリアルタイムで知らない人たち(あるいはお国の言葉も知らない人たちが)が演じることを含め――することにより、国内外多くの人に人類が起こした過ちと、それでもなお、未来を見据える希望について考える機会を与えることが、この上演を体験した者の使命になってくるのではないかと感じた。
私も、いま抱くこの混沌とした気持ちが、未来に向けてなにがしかの投げかけになることを祈りながら、本文を残す。
高木達さん、竹田一行さん、本当にありがとうございました。
そして、おつかれさまでした。
(記事を書くにあたって、本文中にも何度か登場している宍戸博さんに、事実関係や修正点についてご教示いただきました。専門じゃない分野の情報は、本当にいつも助かります。ありがとうございます)
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