四つ木の家
四つ木の家がなくなった。
四つ木の家は母の姉の家で、子供の頃は毎年1月2日に親戚一同が集まるのが常だった。
到着すると、まずは母方の先祖の位牌がある仏壇に手を合わせる。それを当たり前にずっと何年もやってきた。
みんなが集まると、お寿司かお蕎麦を出前で取る。私はいろんな具が入っている「おかめうどん」が好きだった。
お年玉を貰ったり、茨城在住の親戚がくれる霞ヶ浦の佃煮も嬉しかったけれど、何よりも親戚の前で歌うのが楽しみだった。
居間の奥に階段へと抜ける狭い四角いスペースがあって、そこが私にとっての初めてのステージだった。
うんと小さい頃には、「黄色いさくらんぼ」や「四つのお願い」なんかを親戚の前で歌って披露していたらしい。
自分自身で覚えているのは、森昌子の「せんせい」を歌っていた事。
私が子供の頃にはその家にはお風呂がなかったので、初めて銭湯に行ったのも四つ木だった。
父と母は結婚して新大塚に住んでいたのだけれど、里帰り出産みたいな感じで私はその家の近くの病院で生まれた。
そしてそのまま出生届を出したらしく、大人になってから戸籍を見たら
『葛飾区にて出生』
…と書かれていた。
!…何故、文京区か豊島区に届け出てくれなかったのか!!(イメージ・笑)
ずいぶん大人になってからの事。
今ほどではないが、夏の暑さが子供の頃に比べてかなり暑くなってきていた。
私は子供の頃から、母の姉の旦那さんを「おじいちゃん」と呼んでいた。
ある日、「おじいちゃん」は庭の木を切って、
暑い中でそれを燃やしていた。
その後、家族三人でご飯を食べていたら、
「おじいちゃん」は横になったそう。
しばらくして、様子が変なので息子(従兄弟)が
「おやじ!おやじ!」
…と、声をかけたら亡くなっていたとの事。
そしてすぐに母の所へ電話がかかってきた。
その時、居合わせたかどうかは忘れてしまったが、とにかく車があって運転が出来る私が行った方がいいという事で四つ木に向かった。
自宅で亡くなったので、警察の現場検証などがあり時間がかかっていた。
家族の了承を得て、遺体を解剖する事になり、
従兄弟とその姉の旦那さんを私の車に乗せて新大塚の監察医務院まで連れていく事になった。
奇しくも、私が生まれたばかりの頃に住んでいた場所へ。
それまで元気だった「おじいちゃん」は、
熱中症であっけなく逝ってしまった。
それ以来、夏の暑さでは無理はしないと決めて、夏フェスにはほとんど行かなくなった。
「おばあちゃん」はその数年後に亡くなり、
四つ木の家には従兄弟のお兄ちゃんがひとりだけになった。
私の母が2013年に亡くなり、
その葬儀にはお兄ちゃんも来てくれた。
従兄弟(従姉妹)は私よりみんなかなり歳上で、
お兄ちゃんもおそらく70代だったろう。
アナログな人だったので、お兄ちゃんの様子は気にしていて、
「たまには四つ木に遊びに行かなくちゃなあ」
とずっと思っていた。
それでもコロナ禍もあったので、ここ数年は四つ木に行けなかった。
今年に入ってから、固定電話にも携帯電話にも
何度かけても繋がらなかった。
深川の従兄弟(従姉妹)も気にしていた。
ある日、ようやくお兄ちゃんの茨城の姉(従姉妹)の娘に連絡がついた。
「あんちゃん、亡くなったよ」
やはり連絡がしばらく取れなかったお兄ちゃんの友人が、自宅で死んでいたのを発見したらしい。(聞いた話なので真偽は定かではない)
そして、葬儀は終わり、従姉妹が家を片付けているとの事。
そのうえここ数年で、監査医務院に一緒に行った京都のおじさんも亡くなり、さらにその娘(従姉妹の子供だけどほぼ同い年)も亡くなったとの事。
お兄ちゃんの事も悲しかったけれど、それにも増して50代で亡くなった彼女の事がとてもショックだった。
その話を聞いてから数ヶ月経った。
11月にようやく思い立って四つ木の家まで行ってみた。
やはり、もうあの家はなくて、一戸建てを2棟建設中だった。
Google mapにはまだあの家が載っている。
早く八柱霊園にも行かなくっちゃなあ。
そして私は生きて行かなくちゃ。
たとえどんなに寂しくても。