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私は強欲であることを私が納得する事

今年3月に友人の結婚式に招待された時のこと。コロナだったからということもあり、上京している友人たちに会うのもずいぶん久しぶりだったこともあって話に花が咲いた。子供のこと、親のこと、自分の体のことなど。。。
それなりに年を重ね人生経験も増えてきた私たちに話題は事欠かない。
トピックが子供たちの卒業式・入学式の話題になった時のこと。
友人RIEが、母親が着物を着て参列することに対して「1回はやってみたかったんだよね、だから1人目の時はしたけどあとはいいやって思ったよ。」と。
何気ない会話のようだったけれど、あの時からずっとずっと、私はその言葉が今でもまだ深く深く胸に突き刺さっている。友人RIEは自分がしたかったと気持ちを正直に述べたことが私には本当に衝撃的だったから。
私は、七五三の時も入学式の時も友人や親戚の結婚式の時だって着物を着る時はいつだっていつだって「着物を着ている自分をみんなが欲しがっているに違いないから」とか、「着ないと子供がかわいそうでしょ」とか、「着物を着ることができるんだから」とか。今から思えばまるで意味の分からない理由で着物を着ていた。だから楽しくないふり。めんどくさいふりをしていた。それは誰に向けてやっていたのか自分でもよくわからないのだけど、家族にも友人にも誰にでもそんな顔をして着物を着ていた。何なら自分にも楽しんでいるわけではない。私は仕方なく着物を着ているのだからと言い聞かせていたような気さえする。「着物をきるべきだから」と自分に言い聞かせていた。と、同時に得体の知らないもやもやとした感情もセットであったこともまだ事実。他人から言われる着物を着た時の誉め言葉も「ほら、みんなが喜ぶ。これが正解だったでしょ。」と納得していた。

だからこそ、友人RIEの着てみたかったという言葉が衝撃的だったしすこぶる共感した。私も実はそれなの!私も着物を着るのが好きで、着物を着るとテンションが上がるし、自分でも自分は着物がとてもよく似合うと思うの。すらすらといくらでも出てくる気持ち。本来の私なんという強欲さよ。
この気持ちをなぜ私は出せなかったんだろう。なぜ自分も完全に騙せていたんだろう。だからこそ友人RIEの言葉に一番最初に思ったことは「え?それいっちゃっていいの?」だった。私は逆になんで言っちゃだめだと思ったのだろう。

深堀して自分と向き合ってみると、やはりそれは見えない誰かがいつも私に「そんなことをするのは時間やお金の無駄遣いだよ。あなたにはそんなことをする価値はないよ。そのお金と時間は私たちのために使うべきなのだよ。」と言ってくるからなのだ。その見えない誰かは私が作り上げた私の中の実の両親である。私の実の両親は実際にまだ健在だが、彼らが実際に言葉に出さずともあの目を見るだけで私には伝わってくるのだ。そんな風に思うでしょと聞いてみても、「誰もそんな風になんて思っていないよ。」と言われるところまで完璧に想像できている。
なんにせよ、恐らくそういった理由で私は、自分の本当の気持ちに蓋をして、頑張っている私、我慢している私、けなげな私を今でも両親にアピールするような生き方しかできないでいる。悲しいことに私の必死のアピールとは裏腹に両親は本当は強欲な私の真の感情についても分かっているんだと私は思う。

だから、偽物だって自分でも気づかなかった自分の気持ちを本当の気持ちに取り換えてくれた友人RIEの言葉が染み入ったのだ。
と、同時に間違いなくこの気持ちは着物のことだけじゃないと強く思う。
そう考えてみると、私の本当の欲とか好きとかやりたいって気持ちは自分でも出し方が分かっていないのかもしれないという考えに至っている。
なぜそう思うのかについては、私はいつも選んだ道をすぐに飽きてしまうし諦めてしまう。その挫折の一番最後には、○○さんに申し訳なかったな。がはいる。自分の選んだ道を応援してくれた人や手伝ってくれた人だ。人目をいつも気にして選ぶ自分のやりたいことも好きなことも。○○さんの評価が得たくて好きになる。もっと言うと、なったふりをする。

自分に正直になる


これは私にとってかなり難しい課題であるとともにパンドラの箱のような気持ちもある。開けちゃったらどうなってしまうだろう。私が本当は強欲であることはまず間違いないだろう。

今自分が思う私の感情の蓋となっている両親から幸い物理的に離れることができた。ここからが私のスタートだ。自己分析としてまずは好きなものを帳面にリストアップするところから始めてみよう。

私は強欲である。


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