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『必生(ひっせい)』 刊行から十年

 『必生(ひっせい)  闘う仏教』集英社新書の初版発行から丸十年が経ちました。インド仏教復興運動を率いる破格の僧:佐々井秀嶺師による波乱万丈の自叙伝です。弟子の私が編者を勤めました。ISBN978-4-08-720561-9

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今でこそ、各媒体を通じて佐々井師の存在は知られるようになりましたが、本書が世に出された十年前までは、日本国内で師を取り上げたものは片手で足りるほどしかありませんでした。その中で、山際素男先生の長編小説『破天』小林三旅氏制作のドキュメンタリー『男一代菩薩道』は、間違いなく後世に残る名作です。しかし、佐々井師の一人称による述懐をまとめたものは、当時まだございませんでした。2008年の秋、インド・マハーラーシュトラ州ナーグプールに建つインドーラ寺の一室で、佐々井師はこのように仰られました。
「そろそろ一度日本へ帰ろうかと思ってるんだ」
正直、驚きました。それまで師は、インドのメディアに対しても日本から来る取材陣に対しても、自分はインドの土になる・日本へ帰るつもりはない、と答えていたからです。

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 その心境の変化については『必生』第四章に佐々井師自身の言葉で語られているので、ここでは記しません。私は、日本に戻るとすぐに関係各方面へ連絡し、必要な段取りに取り掛かりました。なにしろインドの被差別民衆から〝生き仏〟のように崇めらている師が、四十四年ぶりに日本へ帰ってくるのです。その頃の私は今より若く、血気盛んだったせいもあり「自分はこの事のために生まれて来た」と、本心から思いました。
 明けて2009年の春、ついに佐々井秀嶺師は一時帰国…正確にいうと1987年インドに帰化しているので来日ですが…致しました。
約二ヵ月余りに渡って全国津々浦々を訪ね、各宗派の祖師ゆかりの地を巡拝、日本各地の善男善女と法縁を結ばれました。私が個人的にもっとも感慨深かったのは、かつて範宴(若き日の親鸞)が法然上人に入門した〝師弟邂逅の地〟吉水草庵へ御案内できたことです。
「よきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第二条)
草庵跡といわれる安養寺様の本堂で、佐々井師の横顔を見ながら、こみ上げる涙を堪え切れませんでした。
 さて、滞在期間中、集英社の編集氏から〝佐々井上人に関する新書を出したいのですが〟とのお申し出があり、当時そういった書籍は数えるほどしかなかったこともあって、要件を取り次ぎました。すると師は、
「俺はもう日本語が思うようじゃないから、お前が文章にしろ」
と。こうして、『必生』企画がスタートしたのです。

 佐々井師がインドへ戻られてのち、先述と同じインドーラ寺の一室で師と二人きり、ほぼ一ヶ月のあいだ、火を吹くような獅子吼を全身で受け止めました。
ところが、取材を終えて帰国した直後、老母が脳梗塞で倒れたのです。その結果、半身不随。担当した医師の説明によれば「かなり大きなストレスが原因かと」。思い当たるのはただ一点。「息子がインドの偉いお坊さんを連れて来た・何かあったらお釈迦さまに申し訳ない」と、そのことが〝戦前生まれ〟の母を限界まで追い込んでいたのです。
 介護と並行しての編著作業は辛いものでした。師の言葉を編む重圧感と、母を寝たきりにしてしまった罪悪感に心が蝕まれました。とりわけ青年時代の佐々井師が苦悩する段(第一章)では、いわゆる〝入り込んだ〟状態へと陥り、理性的な判断がつかなくなりました。今となっては悪い冗談にしかなりませんが、「もしこれが売れなかったら、必ず生きると題した本の編者が✕✕‥‥で炎上を狙うしかない」と、馬鹿げた考えにも取り憑かれました。そのせいで、担当編集者氏にも大変なご迷惑をお掛けしてしまいました。
 なんとか脱稿まで漕ぎつけ、2010年10月20日、ついに佐々井秀嶺師初の一人称書籍『必生 闘う仏教』が店頭に並んだのです。

 その翌2011年、3月11日、東日本大震災が発生しました。
佐々井師は『必生』の〝おわりに〟で
「再び私が日本の土を踏むことは無いでしょう」
と語られましたが、祖国を襲った未曾有の災害に意を翻し、同年5月末に日本を訪れ、東北の被災地を慰霊行脚されたのです。

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この時の模様は、小林三旅氏の同行取材によって短編映画となり、インドのオディシャ州で開かれた芸術祭にて上映されました。
『MANTRA』 https://youtu.be/ngr9fBOxQiA
ちなみに、二年間寝たきりだった母は、この年の12月、往生の素懐を遂げました。

 2015年6月14日、高野山大学で開かれた佐々井秀嶺師講演会の終了後、私に駆け寄って来られたひとりのご婦人がいらっしゃいました。お話を伺うと、『必生』の視覚障害者用の朗読音源をボランティアで作ってくださった方だそうです。いささか老境の兆したそのご婦人は、
「無断でやっちゃってごめんなさいね」
と頭を下げられました。
「まさかお会い出来るなんて思ってなかったわ…、握手してくださいな」

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 《※高野山大学講演を報じたインドの新聞。佐々井師の隣に私》

 『必生』は、幸いにも母の存命中に刊行することができました。介護施設のベッドの上で不自由な体をおして読んでくれたようです。その本を、目の不自由な方に届けてくださった方と開創千二百年の聖地・高野山で巡り会えたのです。
「今日は来て良かったわ」
──惜しみながら去って行かれるご婦人の背に、亡母の笑顔が浮かんで見えた気がしました。

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