『1999 A.D.』のこと


昨年末、鶯籠が『冬眠』を迎えた。

自分は経済的に余裕がなく、遠征等は(最後を除いて)一切行かなかったので、鶯籠の魅力を満喫できたかといえば残念ながらそうは思えない。海とか山とか行きたかったよ、自分も。え? DDしなきゃ行けただろって? いや、まあそれはさぁ……。

それでも東京住みという幸運から、ここぞという時の主要ライブには参加できたので、全ての楽曲を実際に現場で聴くことができたと思う。そういった中で、鶯籠の楽曲でどの曲が好きかと問われれば『1999 A.D.』と答えたい。

自分がそんなことを言うと「ハイハイ、ダンス踊れたもんねー、よかったねーwww」と脳内再生余裕な声でPINOCOに煽られそうだが、いやいやそういうわけじゃないんだ待ってくれ。いや、そういう気持ちがあることも否定できないけど待ってくれ。自分は初めて『1999 A.D.』を聴いた時から一発で好きになったんだよ、と声を大にして言いたい。

と、ここで、この文章はツイッターのフォロワーおよび鶯籠オタを想定読者層としているが、noteという場で書かれている以上、話の流れを知らない人が読んでくれる可能性も大いにあるのでざっくりと説明しておきたい。

鶯籠とは

鶯籠というのは2019年まで鶯谷で、2020年からは茅場町に居を構えていたアイドルグループである。対バンにはあまり出演せず、独自の方向性を貫いたライブアイドルだ。自分はそのグループのオタクだった。だったというのは、残念ながら鶯籠は2022年12月31日をもって『冬眠』を迎えたからだ。『冬眠』を解散と取るか活動休止と取るかはそれぞれの気持ち次第だが、今となっては悪くはない表現だったのかもしれない。

オリジナル楽曲は実に80曲というレパートリーがあり、その中から好きな曲を1曲選ぶのは誠に至難の業だが、前述のように自分が上げたのは『1999 A.D.』。

『1999 A.D.』ダンス問題

この曲にはメンバーの駄好乙(自分の推しメンにして鶯籠のエグゼクティブプロデューサー)によるソロダンスパートがあった。残念ながら駄好乙は鶯籠冬眠前に活動休止に入り、そのまま…なんというかその…脱退? まあ意見の分かれるところではある。それはさておき、駄好乙活動休止後も『1999 A.D.』はここぞという時に披露される楽曲に育っていった。

その曲の後半にあった約30秒の駄好乙のソロダンスパート、駄好乙がいなくなっても、曲の構成、振りつけ等はそのまま変更なかったので、その時間はただ間奏が流れるだけのエアポケットとなった。

なので自分は駄好乙がいなくなった後の『1999 A.D.』で、曲中にそのダンスを振りコピして踊っていた。いつもは後方で控えめに踊っていたのだが、ある時知り合いのオタクの助けを得て、そのソロダンスをフロア中央で踊ったところ、大変ありがたいことにオタクのみんなから受け入れられた(と信じたいw)。

当初はメンバーからも容認されていたものの、何度か踊っているうちに、特典会の時にメンバーからダンス禁止を言い渡されたw 基本的には従いながらも、PINOCOと異論反論オブジェクション(若い人にはわからんネタ)を繰り広げたりもした。

一応自分の言い分としては、

・ソロダンスパートの間、メンバーはステージ後方で背中を向けリズムに乗って身体を揺らしているだけなので、ライブの邪魔をしていないということ
 
・コロナ前の鶯籠のフロアのように(『ESCAPE』におけるテッテレーさんのエアギターとか、『プロペラ』でがるぼさんをあげるとか)オタクの一芸だと思ってもらいたかったということ

まあこの時点で普通のアイドルグループのオタクからは「何言ってんだオメー」状態かもしれない。ただ、自分も目立ちたいから踊っていたわけじゃなく、普段あまり自己主張しない自分にとっての、推しメンに対する気持ちを表す唯一の自己表現だった(何言ってんだオメー)。駄好乙にも「自分が休んでる間は踊れ」って言われてたし!

ただメンバーに禁止と言われたら、その後は素直に踊らなかった。そして最終的にはソロダンスパート部分に新規でラップが挿入され、ダンス問題wは収束した。

自分のせいで曲が改修されたのなら申し訳ないが、自分のエセラップと違って凄くカッコよかったし、このバージョンの音源もホントに欲しかった。まあ今となっては叶うこともないが……。

とにかく、本来モブオタと自認している自分にとっては、色々と過ぎたる経験をさせて頂いたと思っています。いい気になって踊っていたつもりはないが、確かにいい気分ではあった。

と、以上がこの話の前置きにあたる。
長い! ベルセルクの黄金時代編並みに長い!(そこまでじゃない)
でもまあこっからがまた長いんですけど。
刃牙の最大トーナメント編並みに長いよ!(そこまでじゃない)

だから自分が鶯籠の楽曲の中で『1999 A.D.』が好きだと言うと、「ダンスを踊れたから」と思われてしまいそうだが、いやいやそういう訳じゃないよ、という言い訳をするための志の低い文章です!

『1999 A.D.』という曲

『1999 A.D.』はコロナ禍が始まった2020年に発表された、鶯籠60番目の曲だ(たぶん)。確か渋谷のライブハウスGladを支援する側面もあったように思う(ツイッターのリツイート数×100円を寄付する、とかやっていた)。当初は通販限定のCDで発売され「ライブで披露することは99%ない」と言われた曲。その後配信ライブで初披露され、有観客ライブでの披露は年も押し迫った2020年12月のトランス公演だった。

その『1999 A.D.』、発表当時の宣伝文句には、

「7分41秒に及ぶ長編展開作 鶯籠初となる新境地 Piano × Trance × Rap」

とあった。自分は言葉で説明できるほどの音楽的知識はないので、そういうアプローチは潔くやめておく。各種音楽配信サービスにあると思います。聴いたことのない方はぜひ聴いてみてください。実際に聞いてもらった方が早いと思います。え? noteって埋め込むことできんのかな? わからない、アナログおじさんでごめんね。

歌詞の内容的には、題名通り1999年へのリスペクト、その頃の情景を歌った曲であり、そこから現在に繋がる曲だと思う。自分は初めて聴いた時に、曲の素晴らしさからくる高揚感とともに、心の中でザワザワしたものを感じた。なんだか凄く切なくなった。その理由は何なのかと自分なりに考えた。1999年という年がその心のザワザワに起因しているのだろうと。

1999年という年

昭和生まれにとって、1999年は「ノストラダムスの大予言」と結びつき、避けては通れない年だ。

「ノストラダムスの大予言」とは1973年に発売された五島勉の著書であり、16世紀のフランスに生まれた医師・占星術師ノストラダムスが残した予言詩「諸世紀」を、当時の世相に合わせて解釈したベストセラー書籍。それによって人類が滅亡すると予言された年、それが1999年。

オカルト的なモノと一切関りがない人にとってはどうだったのかわからないが、ベストセラーというものが社会に与える影響は現在とは比べ物にならないほど大きかった時代。また、当時はトンデモ本というカテゴリーはまだ存在しなかった。そのため、この本のせいで厭世的な価値観をその心に刻まれてしまった人間は少なくはなかったと思う。それは個人だけの問題ではなく、1980年代以降の新宗教に少なからぬ影響を与えたと指摘する人も多い。実際、オウム真理教事件の遠因のひとつになったとも言われている。キリスト教やユダヤ教における本来の終末論とはかけ離れた、間違った終末思想のでき上がりだ。

たとえ人類の滅亡を信じていなかったとしても、それは「もしかしたら爆発するかもしれない爆弾」のように、自分も頭のどこかにずっと引っかかって残っていた。大袈裟じゃなくて普通の人もそんな感じだったと思うんだよ……えっ、俺が普通じゃなかった?w

また、1999年は20世紀が終わる1年前でもあり、まさに世紀末と呼ぶのに相応しい年だった。だから1999年で世界が終わらなかったとしても、確実に20世紀は終わりを迎える。何かの変化が訪れる時代。それが心のザワザワを形成していたひとつだったかもしれない。

自分の1999年

1999年、自分も確かに渋谷にいた。その頃の自分はゲーム会社に勤めていてゲームを作っていた。所詮オタクとしてそのままゲーム業界に入ったような人間だから、センター街に繰り出すことはあっても、この曲を作詞したtcbnさん(鶯籠運営)のようにお洒落なクラブなんかには行けるはずもなく、せいぜい会社の仲間とゲーセン巡りをしてからカラオケでオールするのが関の山だった。それでもその頃の渋谷の空気を肌で感じていた。プレイステーション2の発売を翌年に控え、まだゲーム業界に未来を感じていた時代。

自分はテストプレイのアルバイトからそのまま開発に移行した。何の知識がなくても、数年間働いていればそのまま開発部に移動できるような、まだおおらかな時代だった。ライブハウスのフロアと同じで、多くの人間がやってきて、やがて去っていった。同期の人間も次々と辞めていった。頑張っても自分の作りたいゲームは作れなかった。やがて21世紀に入り数年経った頃、自分も人員削減のあおりをくらってリストラされた。

元々趣味の一つとしてアイドルの知識はあったものの、実際にアイドル現場に足を運ぶようになったのはそれからだ。いわゆる「弱った心にアイドルは効く」ってやつだったのかもしれない。

冬眠発表前の『1999 A.D.』

とまあ、自分語りの部分もあってウザいとは思いますが、子供の頃の1999年に対するイメージと、実際に自分が過ごした1999年の記憶から、1999年という時代には、なにがしかの感情をともなう時代、心に引っかかる時代というのが根底にあったのだろう。それが初めて『1999 A.D.』を聴いた時に、曲そのものの高揚感とともに、心の中にある郷愁感、あるいは寂寥感といった様々な感情が沸き上がってきた理由かもしれない。「訳もなく泣いている 思い出してる」というこの曲の歌詞の通りです。「無力さは」は今でもずっと感じてる。

それでも『1999 A.D.』発表時は、もういい大人ということもあり、その気持ちを惜しむように、愛おしむように、曲に寄りそっていたと思います。

冬眠発表後の『1999 A.D.』

しかし2022年の夏、状況は一変する。鶯籠のスケジュールに「冬眠」という言葉が躍った。当時はまだ(ある意味今も)「冬眠」の本当の意味は明かされていなかったが、到底ポジティブな言葉とは思えなかった。

遅過ぎる二度目の青春が終わりを告げる。思い出ではないリアルタイムの寂寥感や焦燥感が胸に込み上げてくる。

この頃ライブで『1999 A.D.』が歌われた時のフロアは、実にいい感じで盛り上がっていたものの、「冬眠」という言葉を突きつけられて、どこか儚さをまとっていたように感じたのは自分だけだろうか。

もうすぐ確実に終わりを迎えるということ、現実と直結するそんな切ない気持ちを抱えながらリアルタイムでこの曲を聴けたことは、ある意味贅沢な体験と言えたのかもしれません。だからそんな気持ちも含めたうえで、自分は『1999 A.D.』が好きでした。

鶯籠冬眠後の『1999 A.D.』

当初はここまでの内容を「鶯籠冬眠」前に書いていて、できたらアップしようと思っていたんですよ。鶯籠の総括とか関係なく、『1999 A.D.』を軸にしたエッセイみたいな読み物としてね。当時なんかnoteを始めるのが流行ってたような気がしたから(そんなこともない)

ですが、文章がイマイチまとまらなかったのと、毎日DDしてて忙しかったせいで間に合いませんでした。ほら、これ以上すずめちゃんに干されるのも辛いんで、定期的に顔出しとかなくちゃね!…うん…いやまあ、それはさておき、結果的にそれでよかったのかもしれません。

なぜなら「鶯籠冬眠」が終わり、メンバーから話を聞く機会がありました。そこで自分が『1999 A.D.』でダンスを踊っていたことが、もしかしたら残った3人のメンバーを苦しめていたのではないか?という考えに思い至ったのです。3人とも優しい子だから怒ってはいないと思うのですが(とか言って実は激怒してたらどうしようw)、それでも彼女たちの心の水面を波立たせていたというのなら、それは大変申し訳なかったと思います。ただ、それでも自分は踊っていたかった。もちろん、本当に望んでいたのは自分が踊ることではなく、本来踊るべき人のダンスを見ていたかったということなのだけれど。

そして年明け、駄好乙の誕生日会と、3人の新年会が重なりました。少し葛藤があったけれど、自分は誕生日会に行きました。

そこでなぜかダンスバトルのコーナーがありw、ダンスバトルという形だったけれど、駄好乙一緒に踊ることができた。凄く幸せだった。すべての伏線を回収をしたような、何かが結実したような気持ちになれた。

もしかしたら、ここにきて突然文章が雑になったとか、何を言ってるのかよくわからない、と思った方がいるかもしれませんがそれはある意味正しいです。諸事情により内容を端折っています。まあ誰かの言葉を借りるなら、いわゆる「察してくれ」という文章となっております。

とにかく、こうしてまたひとつリアルな感情を『1999 A.D.』に上乗せすることになった。

最後に

記憶と音は結びついていると言われます。思い出は音楽とともに甦ると。

自分は既にいい歳したおっさんですが、これからさらに年齢を重ねていき、感情や感性、情緒といったものが鈍く濁って死んでいったとしても、この曲を聴けば若い頃の、そして今この時の感情や記憶を鮮やかに蘇らせてくれることでしょう。それは少し切なくて、痛みを伴う部分があったとしても、間違いなく楽しかった思い出です。かけがえのない宝物だと思います。

自分はこれからも、駄好乙こと萩原杏衣ちゃんを見守っていきます。
ぴか卵の3人、PINOCO、ばんぱいあ、からあげも応援しています。
点点には長年放置プレイされたのに(プレイ言うな)、なんか最後の動画でいい感じに丸め込もうとしてたけど騙されないぞ! ったく動画スゲェ可愛かった!(騙されてる)

そんなわけで、自分は鶯籠の楽曲では『1999 A.D.』が一番好きです。

5人の『1999 A.D.』も、3人の『1999 A.D.』も大好きです。

2023年1月27日 PINOCOの誕生日に寄せて


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