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【胞状奇胎③】可哀そうがられることについて。

今まで、可哀そうがられることのない人生を送ってきたので、妊活がうまくいかなかったり、胞状奇胎になったりして、親や兄姉にかけられるふとした言葉に、とても感情が乱されることに気付きました。

家族と胞状奇胎について話している時に、「どうしてこうなっちゃったのかな~まったく」と、私がつぶやいたら、「そりゃ、人工授精したからじゃないの?」と言われました。
その時は「そうじゃないよ、これは確率の問題。卵子が老化していることもあるけど、自然妊娠の人も体外受精の人もなる病気なんだよ」っていう説明をしましたが、
その後、ず~とその一言について考えていて、なんだか、悲しい感情が消えずにいました。

「人工授精なんてしなければよかったのに」って思われた(かもしれない)ことが、とても悔しくて悲しかった。

人工授精をしたからなったんじゃない、これは仕方ないことなんだって。何か悪いことをしたからそうなったんじゃなくて、たまたまこうなってしまっただけで、私は至って健康だし、全然可哀そうなことじゃないって。

その時、ふと気がついた。
あ、私、自分のことをはじめて「惨め」だと思ったんだなって。この感情が、こんなに辛く悲しいものだということを、この歳にして初めて知りました。

私もしおこんぶもしおこんぶ夫も、今回の妊娠については、一歩引いて客観的なスタンスで、向き合ってきました。陽性反応が出ても、「出たよ、でもまだわからないから来週までまつね。」病院に行く前も、「陽性反応はまだ出てるけど、病院にいくまでわからないから」。胎嚢らしきものが見えて予定日の日付がエコー写真に出たときも、「でも心拍が確認できないから。」と淡々と向き合ってきたし、手術も、「手術が終わって検査結果が出るまでわからない。今できることをやるしかない」と、感情的にならないよう、ドライに向き合ってきました。

そこで、この結果となり、
「こうしたから悪かったんじゃないの?(という意味で言ったわけではないことは理解していますが。)」とか、「可哀そうに。」と言われると、心に積み上げてた煉瓦が一気に崩れ落ちるような感じがして。

入院中も、次は何を着てどこにいくのか、トイレはどこか、水はどこで買えるのか、ベッドはどうやって倒すのか、消灯はいつなのか、イヤホンの音漏れがしてないか、
次やることばかり考えていたら意外と時間がたってしまったのですが、
ふと、消灯後の静かになった部屋を見回すと、向かいには、手術後でなかなか尿の管が抜けず自分では食事もできない患者さん、横には毎朝夕に注射を受ける患者さん、斜向かいは長期入院で明日からも数多くの検査や手術にを控えた患者さんがいました。

その状況で、「自分は恵まれているのか?」ということに、産まれてはじめて疑問を持ってしまった自分がいました。

どちらかというと、
「いや、それでも私は恵まれてる」って言い聞かせるような感じだったと思います。

何不自由なく、健康で、家族に愛されて育って、自分の好きなことをして、勉強をして、東京に出て、夫と出会って、結婚して、仕事も充実して、褒められて、幸運に恵まれて、生きてきた人生。

これ以上何を望むのか?

私が持っていないものなんて、ほんの少ししかないのに。
なんでこんな風に「可哀想な人」になりかけてるんだろう?

これは、
「足るを知る」とか、
「無い物ねだり」とか、
そういう使い古された言葉では解決したく無いような問題で。

この疾患になったことは、神様からの試練だと思って、治るまでじっくり、この気持ちと向き合いたいと思っています。

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