久しぶりに会った父

今日は娘と、久しぶりに電車に乗り、実家近くの街へお出かけした。

幸い、平日昼前の下り電車(各駅停車)だったこともあり、とても空いていて、また窓が開いていたり、わりと安全に移動することができた。

そこで用事を済ませたあと、両親からメールが入り、たまたまその街にきているとのこと。実に久しぶりに再会することになった。

待ち合わせの場所へ行くと、母はリュックを背負い、相変わらず軽快に歩み寄ってきた。ソーシャルディスタンスを保ちつつ再会を喜び、ふと本屋の脇のベンチを見やると、杖を持って座っている父がそこにいた。

黒すぎるほど黒く量が多かった髪の毛はほぼ真っ白になり、現役時代は燃え滾るような眼をギョロリとさせていたのが見るからに好々爺という笑顔をみせ、杖をつきながらこちらへやってきた。

父の病名はランバートン・イートン。この病名も、つい最近ようやく判明したものだ。それまでしばらく原因と病名がわからなくて、何度も検査したりあてのないリハビリをしたりしていた。

やっとのことでどういう病気なのかがわかり、いまは治療にあたっている。むかし母が歩けなくなり、同じようになかなか病名がわからずようやくリウマチからくる不調だった とわかったとき、父が「なんの病気かわかれば、あとは戦うだけだ!」と言い聞かせるようにつよい目をして言ってくれた。まさにそれである。(母は今は超元気で歩きまくっている)

とはいえ薬で免疫を落とさなければいけなかったり、肺がんの懸念が続くため、治療中といえどコロナ禍では油断できない。



好々爺のようにして孫(私の子)に歩み寄る今日の父をみながら、私はぼんやりと「人って本当に年を取るんだなあ」と思った。

馬鹿すぎる言葉だけれど。もしかしたら久しぶりに会ったから自分のなかですこし若返らせていたのかもしれない。そことのギャップのせいか、本当にまざまざと思い知らされた気がした。

遠方に親がいて、帰省するような人達はきっと帰省するたびにそう思っているんだろうな。私はわりと近くにいて、頻繁に会っていたから。まあもしかしたら本当にただ治療やコロナ禍でのストレスやらで老けたり痩せたり元気がないのかもしれないけれど。

ぷくぷくと、まるまると、つやつやとしたおじいちゃんだって世の中にはいるものね。やっぱり病気だから、そういう風に感じたんだろう。やさしい笑顔でいるのに、とてもはかない笑顔だった。きっとそうだ。

来月にもう一度肺がんの検査をして、がんになっていなかったら、あたらしい薬を追加して、そうしたらきっともう少し元気そうなおじいちゃんになれる。それを強いるつもりも、励ますように本人に投げかけるつもりもないけれど、それを信じたい。

だって、そんな好々爺然としていたのに、話してみたら前の父となんら変わらなかった。ものすごくしっかりしていて、話にはすこしブラックみが効いていて、ひろくて健やかで優しくて。あの人は本当の意味で、ものすごく強い人だ。だからきっと大丈夫。

でもきっと父だけじゃなくて、母も、私も、夫も、猫も、娘だって。いつかは死ぬのだからなあ。なるべくどうか、皆が健やかに長生きして、幸せに幸せに暮らしていけますように。


神様。

よろしくお願いします。

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