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地獄のお話? この世のお話。

ある地獄のお話。

そこにはテーブルに美味しいスープが用意してあるらしい。
でも、彼らの片手は縛られていて動かすことができず、
利き手には柄の長いスプーンが、これまた縛り付けられているのだと。

そこに居る人々はみな必死でスープを飲もうとするのだが、
如何せん、柄が長すぎてどうしても口に運べない。

それでも皆、ああでもないこーでもない、と必死に目の色を変え
思うようにならない自分の身体で柄の長いスプーンと格闘しているのだと。
いくら頑張っても時間が経ってもご馳走にはありつけず、お腹は空くはイライラするわ・・・

一方、天国にも同じように目の前に美味しそうなスープ。
片手を椅子に、片手を柄の長いスプーンに縛られている人々が、同じように座っているらしいのだが、
こちらは皆美味しそうに、にこにこしながらスープを飲んでいるという。

そうなのだ。
天国では皆自分が持っている柄の長いスプーンで、そのスプーンが届く他の人に飲ませてあげていた。当の本人の口にはまた別の人がすくってくれたスープが運ばれていて…
結果飢える人は無く、皆がお腹を満たすことができているのだった。

そんなお話。


この話には、いわゆる「教訓」が含まれているんだろう。
私が私が!と自分の利益だけを考える人と、他人の境遇に心を砕くことのできる人、ということなのかもしれないし、まあ解釈はいろいろ、人それぞれにあるだろう。

でもこの話、舞台は「地獄」と「天国」ということになってはいるが、
ここで言うこの「地獄」って、まさに私達が生きているこの世の姿なんじゃない?と思ってしまうのは私だけなんだろうか。

今地上に生きている何十億の「大人」の姿が、この何とか自分で自分の口にスープを運ぼうと悪戦苦闘している姿に重なって見えてきた。もちろん自分は別だというつもりは毛頭なく、私自身もその一人。そこには他人への無条件の信頼など無く、自分より人のことを慮る度量も余裕も優しさも見えない。誰が悪いわけではないのかもしれないが、ただただ殺伐とした光景がどこまでも広がっていく。

「そんなこと言ったって、自分で自分の面倒もみられないのに人の事も無いだろう」という人がいる。「自分が満たされて初めて人の境遇を慮ることができるんじゃないの?」という人も。
そんなのはきれいごとだ!と一笑に付す人もいるかもしれない。

でもね。
私達がもう一段「階段」を上るためには、ここのところを何とかする必要があるような気がする。この様相が変わらない限り、私達はずっとこの殺伐とした世界でもがき続けなければならない。もちろんもがくことは無駄じゃないし、もがいてこその「ああ、そうだった!」なのかもしれないけれど。
もういいかげん、みんなうんざりしてないかな。


何を隠そう私自身、自分の傘は自分で差さなくちゃ、と思っていた1人だ。大人になったら自分の面倒は自分でみなくては。だってみんなそれぞれ自分のことで大変なんだから、と。まずは自分で自分の身を、降りかかっている災難から守ること。自分の食い扶持は自分で稼ぐ、まずは自分で自分を満たそう、と。

きっとそれはいいも悪いも無く、
私が育った環境や受けた教育や得た知識から来ていたのだろうと思う。
そして今もどこかでそういう思いは残っているのかもしれない。「自分の」人生ってね。

それがここ1年くらいだろうか、何が変わったのか「ん?なんかちょっと違うかも」と思うようになったのだ。単に歳を重ねたからかな。
歳を重ね「生きる」という概念に「生かされている自分を活かす」っていう視点が加わったのかな、うーん、考えてみてもいい言葉が見つからない。
けど、何かが変わったんだろう。自分で自分の傘を差せなくても、誰も雨に濡れないようにみんなで差しあえばいいじゃん、みたいな感じかな。


誤解の無いように敢えて言うが、もちろんこれは資本主義とか共産主義とかの話ではなく、あくまでこころの話。突き詰めると主義や制度の話にまでなってしまうのかもしれないけれど、やはり少し違うのだ。

さて、と。
私が地獄の光景と見紛うこの世界、ここからみんなして抜け出すために、
私はいったい何ができるんだろうね?
まずはこの柄の長いスプーンで、そのスプーンが届くところの人にスープを。
もしかしたらその人が同じように誰かにスープを、またその人が誰かにスープを・・・まあ一人ずつだとみんなに行き渡るまでとても時間がかかるかもしれないけど、途切れさえしなければいずれは皆にいき渡る。
もし沢山の人が気付いたならば、一瞬でみんなのお腹が満たされる事だってあるかもしれない。

またここで言う「スープ」は例えで、なにも食べ物である必要はないよね。
形あるモノである必要もなく、言葉でも行為でも何か自分が差し出せるもの、という解釈で構わない。一人一人持ってるもの、差し出せるものは違うんだから。

そんなとりとめのないことをのらりくらりと考えていると、いつの間にか夜中も夜中、家族が寝静まった家の空気はしんとして、ひっそりと身を包む。
ひんやりした部屋の空気がこれまた良くて、
あと少しここで、とソファに座り直しほうじ茶を一杯。

そうやってまた時間は経ち…

もうあと半分も残ってないだろう今生、これから何をどうやっていこうかなあ…なんてことにまで思いは至る。

・・・あれこれ思いを巡らすのにはちょうどいい秋の夜長だね。

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