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愛読書を再読して感じる、自分の変化。

とある愛読書があります。

何十年前とかなり前に出版されたものですから、随分と前からその本の存在自体は把握していました。ただこれといって読むキッカケがなく、手に取ることもしていませんでした。

そんなとき、わたしが慕っている人がこの本を紹介していて。
「あの人もオススメしてるし」
それがキッカケで、読んでみようかなぁ〜とこの本を手に取りました。

この愛読書、初見が衝撃的すぎて。
拙いわたしの読書歴ですが、その中でもこの出来事はきっと一生忘れることはないでしょう。
それほど、あの時の読書体験は凄まじくて。わたしの心の中に、あの体験が深く刻まれました。

時を経て一年後、再びその本を手に取りました。

本当に驚いたのですが、初めて読んだ時と、見える景色が全然違いました。
作者が言っていることの意味が難しすぎて、結局何が言いたいのか…と頭を捻らせていた初読での出来事が嘘のように「あぁ、こう言いたいのか。」と理解できました。

そして、わたしはこの愛読書にものすごく影響されながら人生を歩んでいたのだとわかりました。それも、普段の生活で「あの本はこう言っていたからこうしよう」とかではなく、無意識的に。

本の内容自体はもちろん全てを覚えているわけではなく、断片的に「そういえば、あの本はこう言っていたな」と思い出す程度です。

この本は1回目はそのまま読み、2回目を読むときには大事なところや共感するところにマーカーを引いて、ノートに感想や自分の思考なんかも書き綴っていきました。

マーカーが止まらない。感想を綴る手も止まらない。

本を鵜呑みにして生きるのは違うと思うし、そこに自分の意見や思考を反映させてこその読書体験だとは思っています。

それでも、この本の言うことを忠実に、しかも無意識に実行へ移していたわたしは、作者の論ずることに大層共感していたのでしょうね。

一年を経てわたしは本を吸収し終え新たなフェーズへと進んで行っているんだと確信しました。

きっとこうやって、過去の偉人の言葉や伝記からさまざまなことを知り、得れば次へ行き、そのうち死んでいくのでしょうね。

だから、読書はやめられない。たった数千円で、わたしたちをどこまでも連れて行ってくれる。知らない世界にも、憧れのあの世界にだって。

読書を通して、自分が生きてきた一年間には意味があったのだと、心底安心しました。
進んでいないようで、わたしは着実に前に進めているのだな。

物覚えが悪くて足も遅いわたしは(50m走は驚異の9秒台です)、昔から周りとの足並みは揃わない。それでも、ゆっくり時間をかけてわたしなりに進めているのですよ。大丈夫。

だからいいの、別に笑われたって。あんたたちみたいに早く走り切って、疲れてその後の音楽の授業が楽しく受けられない…みたいなタイプじゃないの、あたし。(何の話)

初読で衝撃を受けた本は、数年後に見返すととんでもないことになっている、そういうこともあるのですね。「必ず読み返す時が来る、だから本は捨ててはならない」と、どこかの小説家が言っていました。

面白いことに、この本が次に読むべき本を教えてくれているような気がします。そうやって循環して行くのだろうな。

さぁ次は、あの本を読もう。




追伸

愛読書を公開するのってめちゃくちゃ勇気いりません…?ワタシ的にですが、その人のことが全て明らかになってしまう感覚があるというか…。

本棚を見れば「この人と相性良さそうだな」という感覚が湧くのと同じように、読書歴を晒すことで同じような現象が起きるような気がします。
自分の人間レベルを見られているような感覚が勝手にして、多少ビビっています。笑

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