水車 第二章 承前

 森人の青年は気球の横腹に書き上げた物を満足気に見渡した。全体に掛かる隠蔽魔法を練り込んだ迷彩塗装に紛れ、初めからそうであったかの様に書かれた森人文字はこの気球の機名を表していた。
 森人が手にいれた最初の気球だ。
 「サンダーバーヌーシチョガ(お兄ちゃん何してるの)」下の方から妹が呼び掛けて来た。「ナムアランサ(なんでもないよ)」「マンマーヤシガウリテチュラセ(ご飯だよ降りてきて)」
 木を伝って降りる途中、遠い空に小さな黒点を見つけた。十個程もある。気球だ。
 敵が来る方とは方位が真逆だから王国だろうか。違和感を感じ、遠見の魔法を使った。見慣れた気球が三機、飛空艦とよばれる大型が三機、あまりに小さくて見逃してしまいそうになる見たこともないのが四機。
 残りの地面との距離を飛び降りて省略すると青年は走り出した。
 「サンダーバーマーカイガマンマチュイサンド!(どこいくの?ご飯食べないの?)」「ウエーカタ!(長老のところへ!)」

 参謀長から届いた書簡に斜めに眼を通し、長官は盛大に溜め息を突きどっかりとソファーに腰を下ろした。
 「やっと逃げ出してくれたか」愛弟子でもある司令の事だが、書簡にはそんな事は一言も書いていない。早急に森に司令部を移す必要があるので移動を開始した、と事後承諾を求めているだけである。
 遅滞工作も限界に達し、憲兵本部は空軍司令に対する尋問権を漸く手にいれた。一両日中には憲兵隊が派遣されるだろう。
 尋問権は陛下からの委任の形を取る。委任状を翳されれば逆らうことは出来ない。なので治外法権であるエルフの森に籠る。
 後は言を左右してほとぼりが覚めるのを待てば良い。
 「心配なのは俺を救いだそうと動き兼ねないことだな」長官が一人事ちる。あまり知られてないが長官は王族の末席に座する。
 逮捕権を持つのは王一人、実はごく安全な身分なのであった。

 「「勇者様此方でしたか」」声が重なって聴こえる。精神分裂症の前段階であったかどうか。調べたくても手元にはスマホがない。
 もし有ってもネットがないのだから、大したことは調べられないのだが、持ち去ったのが宰相の一人息子で取り返すことも文句を言うことも出来ないと有っては鬱積する物がある。恐ろしく大事な物だったと思えてくる。
 話し掛けてきたのは、文部乃廓主席次官の娘で年の頃は十五六。
 寄ってくる娘で立ち位置がどう見られているか判る。
 (意外と便利かもな)口の端を上げてにこやかに、たわいのない会話をする。心の奥底の滓が次第に溜まっていく。
 こうやって人間はちょっとづつ狂っていくのかもな。いや、もう狂っているのか、勇者と呼ばれる青年には解らなかった。

 捕縛団、暗にそう呼ばれる憲兵隊百四人が空軍府=工廠に到着した時には、既に捕らえるべき間諜の陰も形もなかった。
 軍府内では憲兵に捜査権も逮捕権もない。あるのは、[空軍司令]に対する尋問権とそれに付随する任意同行という建前の強制連行権だけだ。
 それで十分なはずだった。連行しさえすれば薬物や魔法で自在に自供が取れる。真実がどうあれ、[事実]が作り出される。
 しかしそれもホシが居てこその話で、恫喝せざるを得なかった。「司令を呼び戻せと?貴官は作戦行動を妨害するつもりか」参謀長が恫喝し返した。
 ここは軍府内で、警察権は空軍にある。作戦中の妨害は明確な利敵行為その物で、その場での斬殺がゆるされている。憲兵隊は引き下がらざるを得なかった。
 帰っていく憲兵隊の背中に向け居残り組打ち揃って、塩をまいた。

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