見出し画像

原子物理学/無限の濃度と境界についての検討

★数学の極限概念と物理学との溝

 ある人が「宇宙の本質とは、分けられたもの・分けること・つまり数ではないのではないか?」と言っていたので、私はそれがどういう意味なのかを理解しようとして質問を繰り返していった。

 全一なる世界を区別し切り分けて数にする、この操作でできる数というものは、類概念に対する種概念だよね。ギリシアの論理学の出自的に言うと、数・言葉は現実そのものではない(メガラ派からは言葉とは声の息にすぎないという言い方をされていた)。

 だがしかし、そうであっても、数・言葉による物についての記述(方程式)が、物事を適切に説明しているなら、その記述には現実の物に対応した一定の妥当性がある。
 言葉はただ現実の模写・現実に対する説明であって、現実を完璧に写し取ってはいないというのは当然のことだから。

 それに、エネルギーは抽象度として最高度の類概念であるが、われわれが日常的にPCやスマホの充電に使うものでもあり、電気事業者やその取締役会はエネルギーは抽象概念であるから幻・声の息だという説明をされても、それを取引の道具にして生計をたてている以上、そんなことはまったく信じないと思う。

 だから、数や言葉は本質でないとしても、現実について数や言葉を注意深く使った記述(方程式)には、世界の本質を含むものはあると、私も思う。

 まあつまり方程式が妥当なものになるかは、最終的には構成力の問題かな、と。

「dark matterにしても対称性にしてもquarkにしても偏りつまりそこには何か法則があると考えるのが妥当ではないでしょうか」
「それが時間的に変化する一時的なものだとしてもです」
「その変化自体も法則によるものと見る事は出来ますよね」

 と彼が言って、そこまで話が進んで、相互作用の問題に及んだ。

「量子もつれの話で真空の対生成と対消滅について指摘しましたが他にも全く何の相互作用も及ばないようにする事は不可能ですよね」
「重力も電磁気力も無限遠まで影響するなら」
「それに仮に全ての相互作用から切り離せたとしてそれをどう認識するのか」
「時間の進みが空間の各々で異なっているというのは一般相対論から分かりますが」

 という彼の論理を積み上げていくうえで生じていった疑問を聴いて、私は、そこで神(物理法則)の存在論的証明の妥当性になるのか、と思った。

 もいっこ別の宇宙つくって観察するにしても、でもその構造と相互作用の記述式を理解したうえで記述し作れないと作れないから、物理法則を論理的に組み立てながら考えれば考えるほど、宇宙は偶然の産物だという考えをしづらくなって確率論からは遠ざかり、神様はこんなもんどうやって作ったんだ?となる。
 ……すくなくとも私はね。

 と、そのような慨嘆を呟いた。すると「偏りの生まれ方、変化の経過自体も法則によるものと考えることができる」と言われたので、私は彼に質問してみた。

 私が自分の心の中に強くある人格像群の互いの関係性と、人生で囚われてきたモチーフ群の流れや体系をできるだけ詳細に記述した小説の中に、心についての論文を埋め込もうとしていた時に「それは君のハミルトニアンが見えてしまうからやめたほうがいい」とある人に忠告されたのだが、この場合の「ハミルトニアン」とは何だろう?と。

 量子物理学において使われる際の意味とは少し違うのだろうか?私個人という系の、構造と相互作用の記述式、というくらいの意味合いだろうか?

 数・atomではなく、法則の体系から時間を生じさせたものが宇宙の本質?
 しかし、我々に認識できるものは静止しているものではなく、時間だけだ。時間から法則を逆算するしかない。

 そのように思考がリープして、なるほど、と思った。五指に対する掌の問題、彼が「数を本質と仮定すると理解と認識がおかしなことになる」と言っていた意味がよく分かった。彼がなぜ、解析的アプローチの有用性を肯定しながら「数を基準に考えると世界の構造の本当の姿から遠ざかる」と言っていたのかが。

 物理学において、物質以外のものとは「法則」だ。物理学上はそうだ。そして法則は、時間を系に組み込まないと設計することができない。従って、法則の存在を否定する人々は、時間についても否定する。逆に、時間経過についての設計ができないと、法則は成立しないので、安定した宇宙の生成は成立しない。

 法則を最高度の類概念とすると、時間とは法則の種概念だ。

★全ての「仮定」は「事実」だろうか?

 仮定が無条件に事実となるなら、神は想像できるから存在せねばならず、すべての科学的仮説から推論を起こし実験して追証明する、という科学的営為は完全に方法論として否定されることになる。
「仮定(単称言明)」を論証によって「事実」か否かを判定するのが、すべての科学的営為の根本にあるものではないだろうか?その論証過程をすっ飛ばす、あるいは無意味なものと宣言することは、科学の自殺である、という話からそのような議論が生じたのだった。

 最初に、クルト・ゲーデルの不完全性定理の話が出た。私は論文そのものを読んだことはないが、カール・ポパーの著作で引用されていた要約と骨子だけは読んだ、と答えた。彼は、不完全性定理は確実だが、だからといって日常のユークリッド幾何学の道具としての有用性が否定されるわけではないと言った。

 私は答えた。たしかに数学の範疇は、科学的論証や証明の必要条件ではあっても十分条件ではないです。と。つまり人間が認識する世界では、世界を自分の使える道具にしていく試みでは、最初に線を引くこと、場合分けの問題になる。その次には引かれた線とは何か、境界についての記述の問題になる、と。

 それはボーアの原子雲モデルの解説に確率論が使われる理由と同じですね。つまり原子核の周りの電子の軌道を観測する手段、電子顕微鏡の粒子より微小で質量の小さい、観測しても反動で電子の存在位置や軌道を変えてしまわない粒子が、人間に扱えるもので今のところ存在しないので。と私は言った。

 欠落を埋めるために、確率統計の偏向から存在位置の傾向を知ろうとする試みが有用視される。ここで、最初の話に戻ると、仮定と事実との関係性というのは、過程が事実であるかということの妥当性は、仮定の中身・つまり定義・によっても変化するものです。
 つまり神の存在論的証明の妥当性というのは、論証する前に仮定する「神の定義」にもよりますし、宇宙そのものが神の体であり物理法則が神の心であると考える、アインシュタインの宇宙観・神観に近い、イスラームのような教義も存在する。と、私は続けた。

 彼は言った。だからこそ根本の仮定が誤りなら、その上に積み上げる議論は誤りになる。と。自分が数は本質ではないのではないかと考えたのは、数が本質であるとする大前提の上に積み上げると、宇宙の構造と生成以降の数の相互作用でおかしなことになるからだ。それでも宇宙は今存在しているからだ、と。
 だから宇宙に対して法則の実在(神の心)を仮定せざるを得なかった、と。

★境界の問題について

「宇宙の本質が数ではない」のはなぜなのか
「最小単位とは何か」
「境界とは、単位同士を分けるものとは何か」
「宇宙の本質は個々の最小単位を関係づけている法則ではないか」

 多分、数というのは、世界は分けられるという数学の本質概念から導かれる結果、つまり公準かな。四則演算が成立するかは場合による、多分すべての場合には適用できない。となると、ここでも場合分け・境界を引くという問題が出てくる。時間という概念には解析的には微積分が適しているけど……。

「――vectorという考え方ですか?解析的にはそれが正しいと思いますが」

 vector、そうですね、そういうことです。つまり、時間はどこまで分割できるのか、ですか?
 1と2の間には無限の小数が立ちはだかっているなら、そのどこに引ける境界はあるのか?
 アレフ、つまり無限の濃度、が問題ということですか?

「分割は時間の問題だけではありません。物質が分けられると言うならそれ以外との境界は何なのか。ただこれも瞬間という現実には有り得ない条件を想定しているのでそこに整合性の取れる何かがあるのかなと」

 時間はどこまで分割できるのか。1と2の間には無限の小数が立ちはだかっているなら、そのどこに引ける境界はあるのか?
 アレフ、つまり無限の濃度、が問題になるなら、分けられないなら繋げることもできないから、多分時間は四則演算ができない。つまり数学の考え方だけでは時間は数学的に扱えない?

 分けるという行為、境界を引くという行為、数の起源、か。少なくとも数学は周囲の環境を人間の使える道具に変えていける、本来原理的に分けられないものを分ける、数にすることで、計画が立てられるし、その覚醒集団のみの生存には有利になるけど……戦争もそこから生まれる。そういう話ではない?

「人間が通常の生活圏で見られる領域ではものは分けられて当然だったんです。数学が世界の全領域を記述するのに適していないのではというのはそういう意味です。なので考えが逆です、はじめに数学ありきではなく現実があって数学がありその現実というのも人間が通常知覚出来る領域だけではないという事です」

 なるほど、そうですね。となると、境界の数学的記述は……?
 数・理念が物理世界の反映なら極限概念の境界はどうなるか?
 内と外を分ける、その境界は?
 現実では時々刻々流動的に変わるものをどう記述する?

 ……わからない。というか、理念はあくまでも指針としては使えるが、そのまま現実世界に適用することはできないし、理念と現実は区別されなければ齟齬をきたす。

「しかし、現実はこうして存在しています。物質を分ける境界があるとするならそこには明確な数値がなければおかしいです。数学的には無理数の一言で片付いても現実はこうして存在している以上そういう訳にはいきません。揺らぎがあるとしても境界は常に出てきます」

 ……数学的にできるのはガウス的な記述?
 量子と同じで、どこかで宇宙空間の最小単位がある?

 空間に境界と最小単位がないと、時間の境界と最小単位は記述できない。
(光子は)空間の境界をワープしながら移動している?

「そうではないんです。私も大学院の頃までは最小単位で瞬間移動しても良いと考えていました。しかし境界の問題というのはそれとは無関係です」

 ……そうだね。そもそも境界は何でできていて、どういう構造をしているんだろう?

「解析的には境界は波動・流体と考えて、その観点から構築していくのが妥当なのですが。つまり、等価原理からすればenergyを基準と考えて記述するのが妥当だとは思うのですが、重力や電磁気力は理論上無限遠方に到達します。それはつまり相互作用によって一繋がりになったものと見なしても良いはずです」

 たしかに、実際応用的の記述というか解析的な記述では、数学的には流体として考えて記述した方が妥当なのか?
 ああ、空間の最小単位という概念を基準にして考えると、空間と時間は一体不可分のもので、時間だけというのは存在しない、時間は存在しない、って、そういう話なのね。

「そうです。つまり本当の問題は、時間をどう考えるか。あるいは、数ではなく数を互いに関係づけ、ひとつの全体としている法則。手に例えるなら一本一本の指ではなく、その指を繋げ動力を供給している手のひらなのだと。だから私は数は本質ではないと考えるようになりました」

「なるほど」

(ちなみに、デジタルの語源であるdigitには「数」の他に「指」の意味もある。)
(非常に有意義で楽しい論証問答であった。)

 事実と仮定を分けたうえで話ができないと、こうした真理探究・論証問答の営為そのものが不可能になってしまう。だから私は、事実と仮定を混同して・あるいはわざと区別せずポジショントークをすることは「科学の自殺」である、と書いたのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?