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re:action

同居人のリアクションが薄いというだけで、すごく気分が沈んだ。同居人から心がはなれ、ひとり黒い海を渡ってくような気分になる。そうなると、暫く帰ってこれない。その夜はひとりで泣いた。

こんなふうに、時々「起こってること」と「それに対しての自分の反応」が一致してないと思うことがある。同居人のリアクションが薄いとき、「ふーん」とか「ちっ」って思うくらいが相応の反応なはず。なのに私は、ひとりお通夜みたいな気持ちになってる。

どうしてかなと考えてたら、実際にお通夜に行ってるのかもしれないなという考えが浮かんだ。

小さいとき、まだ幼児期やったと思うけど、祖父のお葬式に参列したことがある。まだ命に限りがあることも知らないくらい子どもやったから、私にとってお爺ちゃんの死は突然やった。「こんな急にお別れするなんて」とびっくりもしたし、それをお葬式という形で整理づけようとしてくる大人たちにも正直混乱した。

でもお爺ちゃんが亡くなったあとも、写真が家に飾られてたり、家族の話題にあがったり、存在は残り続けた。だから死ぬということは、完全にいなくなるわけじゃなく、リアクションがもう返ってこないことなんやと思った。その頃から私は、死と「無反応」や「姿が見えなくなること」をどこかで連想づけている気がする。

だから同居人が、どこかお爺ちゃんに似てるこの人が、目を逸らしたり、背中を向けたり、反応しなかったりすると、死が連想されて心臓がギューっとなる。お爺ちゃんのお葬式に参列した時の自分に戻って、混乱してしまうのかもしれない。


関係ないけど、餃子描きはじめました

死や別れについて考えてたら、一生懸命やりたいことをやるしかないような気がしました。あんまり理屈じゃないけど。最近はたのしく餃子を描いています。

生きる糧にします