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小説落陽(老人ホームにおける実情を赤裸々に綴り問題点を提起したコメディ小説)

「桜島」

~それでも日はまた昇る~

一.日の出

茜色に染まった空は、広大な湾の対岸に聳える雄大な桜島のシルエットを、くっきりと浮かび上がらせていた。一日に七回色を変えるといわれるこの山は、太陽を背に黒から始まり、青から緑に変化し、夕方は夕焼けで真っ赤に染まる。

薩摩人にとって、この火山は大きな存在である。この山を前にして自分と対峙し、自分の小ささを感じたり、「桜島がいつも見ている」「桜島に笑われないようにしなければ」「桜島よりもっと燃えなければ」と思うものである。

「今日も良い天気だ。」
 この時期になると、海沿いに建つこの施設から見える朝日は、目の前の桜島の頂から顔をのぞかせる。もうすぐダイヤモンド富士さながらの景色が見えるはずだ。
 「さあ、起きて朝日を拝むとするか」
 角(すみ) 謙三は、ベッドの横にあるナースコールを押した。
 「は~い、かくさん、どうしました?今忙しいので、もうしばらくお待ちください」
 夜勤の女性の声がした。

名字から謙三は「かくさん」と呼ばれている。八階建てのこの施設には入居者が七十名余り住んでいるが、夜勤者は三人しかいないので、朝方は特に忙しくて手が回らないのだ。
 暫くして、小柄ではあるが色白でぽっちゃりした、遠くから見ると高校生にも見える三十代半ばの女性職員が部屋に入ってきた。謙三はこの女性をこの施設では一番かわいいと思っている。
 「もう起きますか?それじゃパッドを交換しますね」
 と言うと、彼女は慣れた手つきで謙三の掛け布団を剥ぎ、リハビリパンツとズボンを足元へずらし、下半身を露出させた。それから陰部を包んだパッドを外し
 「今日は、いっぱい出ましたね」
 そう言うと、尿で重たくなったパッドをごみ箱に捨て、新しいパッドで包んでくれた。
 「今日は、便も出てますよ」
  彼女は謙三を横向きにし、お尻の便を拭き取った後、蓋に穴をあけたペットボトルの水をお尻に噴き掛け洗浄すると、お尻用のパッドを交換し、リハビリパンツを履かせた。そしてパジャマのズボンをジャージに履き替えてくれた。
   最初の頃は恥ずかしさで抵抗があったが、徐々に慣れてきて、最近は快感さえ感じるようになってきている。
 「さあ、起きましょうか」
 彼女はそう言うと、謙三を抱きかかえ、ベッドの端へ座らせた。そして車椅子をベッドの横へ持って来ると
 「車椅子へ移りますよ」
と言いながら、謙三の両脇の下へ手を回し抱きかかえ、謙三を立たせようとする。謙三は身長が173㎝あり、小柄な彼女には大変な作業である。その時、謙三の顔は、彼女の胸の谷間にあった。
 「ああ、至福の時だ。もう死んでもいい」
 うっとりしていると
 「こらあ!何をしてるの!左足はどうもないんだから、顔を上げて自分でも立ちなさい!」
 彼女の怒号がとんだ。
 「そうなんだ。この子は結構、気が強いんだった。」
 仕方なく、謙三は彼女に協力し、無事椅子への移乗に成功した。もう少し移乗に時間を掛けて欲しかったと思いつつも、嫌われたくないので
 「ありがとう」
と言おうとした、が
 「あうあうう」
となってしまった。
 謙三は数年前、左の脳が梗塞を起こしてしまい、言語障害で言葉を喋れなくなっていたのだ。人が言った言葉を理解する脳は正常なのだが、自分が言いたい言葉を口から発することが出来ない。

謙三は、十年前に愛する妻を亡くした。大動脈解離で、あっという間の出来事だった。子供もいたが、子供よりも妻を幸せにしなければならない。結婚するとき幸せにすると誓ったんだから。今は甲斐性のない自分だけど、もう少し待ってくれと思っていた矢先の出来事だった。

それからというもの、謙三は何もする気が起きなくなった。この世には神も仏も存在しない。絶対に神も仏も信用しないと思った。

夫が亡くなると妻は長生きをする。逆に妻が亡くなると、夫は後を追うようにあの世に旅立ってしまうのが通例だ。 厄介者の夫が亡くなると、妻は楽になり長生きするが、妻が亡くなると、夫は何にも出来ずに直ぐくたばってしまうということだ。

謙三も脳梗塞で倒れたとき、やはり俺もあの世に行ってしまうのか、と思ったが、目が覚めた時、幸いそこはあの世ではなかった。謙三にとって幸いにもなのか、不幸にもなのか、自分でも判断がつかなかった。
 「ああなんてこった。お礼の言葉も言うことが出来ないなんて。しょうがない。もうすぐ朝食だ。食堂に行くか。」
  左手左足を使い、車椅子を操り、何とか食堂まで行くと、もう既に朝日は山の頂きから顔を覗かしていて、満天に輝いていた星も殆ど見えなくなっていた。
「人間には見えなくても、昼間も空には星はあるんだ。夏は冬の星座が、冬には夏の星座が昼の空にはあるはずだ。我々には見えなくても、存在する物は世の中にはいっぱいあるんだ。」
昔、親父が言っていたことを思い出していた。
 「おはよう」
 同じ階に住む、元土建屋の社長をしていた通称社長こと鎌田さんが食堂に来た。
 「おあようごはいあす」
 これは通じたようで、社長もにっこりした。
 三年前にこの施設に入居した社長は、この施設では古参の一人で、この六階を彼が仕切っている。歩行はバランスが悪いため、両手両足を横に少し開き、約十センチ位の歩幅でトコトコ歩く。三歳の時から描いているという絵を、色紙に毎日描いては、職員や入居者に配っているのだが、余りにも貰うのが増え過ぎてしまい、その殆どが本人にわからないようにゴミ箱行きとなってしまっている。それでも本人は満足げに、毎日一生懸命絵を描いている。
 次にやって来たのが「すけさん」こと、いつも首にタオルを掛け、少し腰が曲がっているため前屈みになって歩いてきた助三郎さんだ。
 すけさんは身体的にはどうもないが、脳の前頭葉障害で収集癖があり、何故かトイレットペーパーを集めて回る。トイレに入いると必ずポケットにはトイレットペーパーが入っている。人の部屋に無断で入り盗んで来ることもある。彼は夜になるとベッドの上に座り新聞紙を五センチ幅に手で破いていく。見事に同じ幅に新聞紙の端から端まで破いていく。それをどうするわけでもなく、ただひたすら明け方までその作業を続ける。朝、彼の部屋を覗くと、ベッドの上で彼は破かれた新聞紙の中に埋まって寝ている。

彼は皆に挨拶した後、冷蔵庫から自分の納豆を取り出し席に着いた。

暫くすると、上半身は殆ど動かさず、足だけが摺り足でそっと歩く「みよちゃん」がやって来た。

「私、もうご飯は食べたかしら?」

「ご飯は今からだよ」

と社長が言うと

「やっぱり。どうりでお腹が空いたと思ったもの。朝ごはんなの?夜ごはんなの?」

「朝ごはんだよ。早く椅子に座りなさい。」

と社長に言われ、彼女はゆっくりと席に着いた。

職員が車椅子に乗ったおばあちゃんを連れて来て、席に着かせた。彼女は殆ど動けない。リクライニングの車椅子に寝たきりで、一応席に着いたものの、ご飯は部屋でお腹に開けた穴から、職員が宇宙食みたいな、袋に入った流動食をチューブを通して胃に流しこむ。いわゆる「胃瘻」というやつだ。

最近は、病院は手術で儲けるために、あるいは食事介助の手間を減らすために、少し嚥下が悪くなると、直ぐにお腹に穴を開けたがるらしい。しかし、実際に口から食べる練習をすると、食べられるようになる人も多く、ここの施設でも口から食べるようになった人が何人かいる。

「腸瘻」といって、腸に穴をあけ、そこから食事を流し込むのもあるらしいが、この施設には幸い腸瘻の人は誰もいなかった。逆にS状結腸をお腹の外に出し、人工肛門を作り、便を外に排泄する人は数人いる。

謙三は右麻痺になってから、言葉を喋れなくなって悔しくてしょうがなかったのだが、ある日、目の前の、目だけが動いているそのおばあちゃんを見ていたら、どこからか声がする。

「お兄さん、お兄さん」

自分はお兄さんではないし、でも周りには誰も呼んでいる人はいない。

もう一度おばあちゃんを見ると、目が自分をみているし、確かに自分を呼んでいるように見える。

「そうだよ。貴方だよ。口がきけない者同士は、心で話ができるようになったりするんだよ。」

「そうなんだ。うれしい。久しぶりに人と話ができる。」

謙三はうれしくてにっこりすると、顔の表情さえ作れない無表情のおばあちゃんの顔も、少しうれしそうに見えた。

「あなたは若くていいね。私は若いときは公務員で、一生懸命仕事を頑張ってきたのに、年金も子供たちに取られ、揚げ句の果てはこんなところに入れられてしまった。それになんにも動けないし、話も出来ないもんだから、ここの職員にも子供扱いされるし、赤ちゃんと同じだよ。もうお迎えが早く来てほしいんだけど」

「おばあちゃん、おばあちゃん。そんなことを言うもんじゃないよ。僕なんかまだ七十代なのにこんなことになっちゃって。悲惨なもんだよ。二十代三十代の職員たちにも馬鹿にされるし、嫌われないように気を使わないといけないし、嫌われたら世話してもらえないから敬語を使っているよ。情けないもんだよ。」

人間はある機能が失われると、違う機能が発達するというが、言葉を失ったおかげで、テレパシーの能力が発達したのだろうか。

謙三にとって理由はどうでもよかった。ともかく謙三は喋れない者同士だけでも、意思疎通が出来るようになって嬉しかった。

「おばあちゃん、何かあったら僕に言ってよ。何にもできないけど、聞いてあげることだけはできる」

「あんたこそ自分一人で悩まないで、私に相談しなさいよ。ここは全く監獄と一緒なんだから。若いあんたには辛すぎると思うよ。」

暫くするととことこと、杖を突いた九十六歳の外園さんが食堂にやってきた。この階では一番高齢ではあるが、頭も体も一番しっかりしている。

「みなさんおはようございます。今日もいい天気ですね。」

と言いながら席に着いた。

「外園さんはどうもないみたいだけど、なんでこの施設にいるの?子供さんもいるんだろうに。」

社長が聞いた。

「私は島にいたのよ。島の子供たちは中学校を卒業したら皆、集団就職で東京や大阪に行っちゃうんだ。だけどね。私は頑張って子供たちを本土の高校へ出したんだよ。ほとんど食うや食わずの生活で、子供三人に仕送りをしたんだ。ポンカンやサトウキビを作って。島で現金を作るって大変なことだったよ。高校卒業したら、子供たちは大学や就職で皆都会に出て行ったのよ。主人も死んで、残された私は一人ぼっちになってしまって。だからここに入ったのよ。」

田舎では親が死に物狂いで子供を育て、都会に送り出してきた。その子供たちが日本の高度成長を作り出してきたのだが、田舎では年老いた親だけが残されているのだ。

他に九十二歳の元将校のおじいさんも、朝の挨拶をしながらやって来て

「ほら見てごらん。大きな豪華客船が入ってきたぞ。今日のは十一万七千トンでここに入る船では一番大きな船だ。」

と、皆に外を指さしながら言った。

外を見ると大きな船が、朝日を受けキラキラ輝きながら、今まさに港に入ろうとしていた。そこの波止場は豪華客船の誘致のために自然を破壊して作った人工島で、月に数回豪華客船が入港する。

「あれはイギリスの船だ。一度でいいからあんな船に乗って、どこか遠くへ行ってみたいもんだ。ああいう豪華客船に乗って世界一周をしている人間もいれば、こんな箱の中で、回りに気を使いながら、死を待っている人間もいる。哀れなもんだ。」

元将校さんはしみじみと言った。

「しかし、人工島にしても、原発にしても、あれだけ反対しておきながら、最近は何事もなかったかのように静かになってしまった。もちろんお上もそれを見込んで強行するんだろうけど。」

と社長が言った。

エレベーターが開く音が聞こえ、食膳を乗せた台車が到着し、職員が食膳を配った。胃瘻のおばあちゃんは部屋に帰り、後のメンバーは黙々と朝食をとった。

朝食が終わり、部屋に帰って暫くすると、

「謙三さん、今日はデイサービスですよ。一階に降りましょうか。」

と、職員の声が聞こえた。


二.デイサービス

「そうか、今日はデイの日だったんだ。」

謙三の場合、デイの日は週三回組まれている。あまり行きたくはないのだが、ケアマネージャーという人が、組んでしまっている。本来は自分で決めるものなのに、年寄りには判断能力がないということで、ほとんどケアマネージャーが決めてしまうのだ。

一階に降りると、まだ誰も来ていないと思ったら、いつもの入り口のドアに「窓際のよっこちゃん」が立っていた。

「私、帰りたいの。うちに帰るの。」

よっこちゃんは一人暮らしで、その家も子供たちが処分してしまい、帰ろうにも帰る家もないのだが、認知症の彼女にはそういう事情は分からない。毎日、一日中入り口のドアの前か、窓の前に立っている。入り口のドアは二重ドアになっており、内側のドアは右端と左端のスイッチを両方押さないと開かないようになっているが、彼女にはそれがわからず、ただただ毎日ドアの前に立っている。

次に眼鏡をかけた背が低いかめさんことカメマツさんが、シルバーカーを押しながら玄関にやってきて

「今日は娘はまだ来ないですか?」

玄関横の事務室の女性に向かって聞いた。

「今日は来ない日ですよ。さっき言ったばかりでしょ。今日もう三度目ですよ。」

怒ったようにかめさんに言った。

かめさんの娘さんは、水曜と日曜にやって来て一緒に出掛けることになっているのだが、彼女には曜日の感覚はない。毎日、何度となく玄関に行っては娘さんがやってくるのを待っているのだ。

謙三がデイルームで指定席について待っていると、次から次にデイの人たちがやって来てそれぞれの席に着いた。ここでは毎日三十人の人たちがデイを利用している。

「うわ~」

男性職員の叫び声がデイルームに鳴り響いた。デイの入り口付近を見ると車椅子に座ったおばあちゃんが、男性職員の股間を握っていた。

目のぎょろっとしたそのおばあちゃんは、リクライニングの車椅子に横たわるように乗り、体はほとんど動かないのだが、顔面と手だけは動き、理性は失われ、男性の股間ばかりいつも狙っている。

「油断した。忙しくてそこにいるのに気が付かなかった。」

苦笑いしながら逃げるように、その男性職員は別の利用者の送迎の為に、エレベーターに乗り込んだ。

九時二十五分からデイサービスが始まる。血圧や体温を測ったりした後、まずラジオ体操をスクリーンを見ながらするのだが、どんなに認知症が進んでいても、ラジオ体操は皆覚えているらしい。スクリーンを見なくても、皆、音楽に合わせて、手足を動かしている。

九十六歳のおばあちゃんが、よく

「私たちが小学一年生の時の教科書には、まず最初に、・・・・が書いてあった。」

と言うと、周りの同じ年代の人たちが

「そうだった。そうだった。」

と相槌を打った。

昔の若い時に刷り込まれた長期記憶はなかなか忘れないものらしい。

その九十六歳のおばあちゃんには物盗られ妄想があり、財布など置いたところを忘れ、誰かに盗まれたと騒いでいるのだが。

体操が終わると、入浴の順番を待ちながらお茶タイムになる。皆銘々にお茶を飲みながら隣の人と談笑をする。

「私は辞め金(退職金)でヨーロッパを回ってきたよ。ベルサイユ宮殿やロマンチック街道に行って来た。トレビの泉でまた来れますようにと言ってお金を投げたのに、もう行けなくなった。あの時行っといてよかった。近所の人たちは辞め金を使って外国へ行っていい身分だ。と言っていたが、お土産を渡すとよかったねえとコロッと変ったよ。人間、現金なもんだね。」

小柄な片麻痺のため歩行器でようやく歩く「よっちんがったんさん」と呼ばれるおばあちゃんが言うと、目の前に座っていた元美容師のおばあちゃんが、

「またその話をしてる。その話は聞き飽きた!」

と叫んだ。そして

「私なんかね。昔、映画女優にスカウトされたんだよ。でも断った。映画女優もいい時はいいけど、悪い時は何にも仕事が来なくなるから、手に職をつけなさいっておじさんに言われて美容師になったんだよ。」

「その話も何度も聞いたよ。」

と、よっちんがったんさんが反撃し、みんな大笑いした。

「私の甥っ子は石原裕次郎なんだよ。朴大統領も私の親戚だし、今度大統領選にでるヒラリーさんも、遠い親戚になるんだよ。」

その隣にいた、妄想の激しい少し若いおばあちゃんが言った。

「そりゃすごい。今度私にも会わせてちょうだい。」

皆、それぞれ言いたいことを、そして毎日同じ話を言いあいながら、時が過ぎていった。

「さちこさん、お風呂ですよ。」

入居したばかりで、初めてデイサービスに来たさちこさんを、職員が迎えに来た。

お風呂に行くと、男性職員が

「さあ、服を脱いでお風呂に入りますよ。」

と言うと、さちこさんは

「きゃあ!何をするの。男の人は出て行って。

と叫んだ。先に裸になっていた他のおばあちゃんが

「大丈夫。最初は恥ずかしいけど、直ぐに慣れるよ。自分で入れないんだから、しょうがないじゃない。」

渋々裸になって職員に体を洗ってもらう。男の人に体を洗って貰うなんて考えられない。特に男尊女卑の鹿児島ではあり得ないことなのだ。しかし、他の人たちは当たり前のように、若い男の人に洗って貰っている。今では慣れて皆どうもないらしい。

「あ、またやっちゃった。」

職員が嫌そうな顔をしながら言った。浴槽の中から、茶色いものが浮かんできた。

「また風呂のお湯を替えないとならない。」

まだ良い方だ。ズボンを脱がすと便だらけとか、体を洗っている最中に便が出る人もいるのだ。

お風呂も終わり、昼食も終わると昼寝の時間だ。寝たくもないのに寝ないといけないなんて面白くないが、つまらないデイサービスに付き合っているよりは、まだ寝ている方が楽だと思い、謙三もベッドに横になる。

みんなが寝静まると、職員のヒソヒソ話が始まった。ここの職員は元々声がでかいのでヒソヒソ話にはならないのだが。

「俺はここを辞めるよ。ここの給料じゃ、家族を養っていけない。」

「本当だね。なんで介護の世界って待遇が悪いんだろうね。今から一番必要な職業なのに、こんな給料じゃ、なり手がないよ。パートのおばさんの為の職業だね。」

「旦那の給料が入って、奥さんの小遣い稼ぎのための職業だね。毎月の給料が二十万もあればこの世界では高給取りだからね。」

「あべちゃんが介護離職ゼロとか言っているけど、資格を取るのに金を安くするとか、再就職したらお金をあげるとかじゃだめだよ。待遇をよくしないと同じことだよ。」

「介護報酬は決まっているし、その介護報酬も減る一方だ。昇給なんてありえない。介護の世界なんてお先真っ暗だよ。現場をよく見てほしいよ。あべちゃん。」

なるほど、介護はそんなに待遇が悪いのか。きつい、汚い、それに給料が安ければ新3Kだ。これから団塊の世代の人達が歳を取れば一番必要な職業なのに、可哀想にと思いながら、いつの間にか謙三は夢の中へ入っていった。

午後は脳トレが始まった。一ケタの足し算と一ケタの掛け算と割り算のプリントが渡された。

謙三は

「馬鹿にするんじゃない。俺は大学も出てるんだぞ。こんな小学生みたいな問題ができるか。」

と心で言いながらプリントをやってみるが、足し算はできても、掛け算ができない。掛け算を何とか終わらせたが、割り算は全くやり方が分からなくなっている。謙三は

「これは脳トレじゃない。自分がこれだけの能力しかないんだというのを認識させるためのプリントだ。プライドをズタズタにするためのプリントだ。」

と思った。

隣では九十二歳の元将校さんが怒っている。

彼のプリントを見ると、全問答えが書いてあり、職員が

「すごい、全問正解ですよ。」

と言うと、彼は

「こんなもん、できて当たり前だ。もっと歯ごたえのある問題を持ってこい。」

と言うと、改めて職員が持ってきた四字熟語の問題を解き始めたが、あっという間に終わってしまった。

職員に答え調べを頼むと、職員は

「私にも分からない。解答を持ってきますね。」

と言うと、正解の書いた紙を持って来たが、やはり満点であった。

「おみそれしました。」

と、恥ずかしそうに、職員は退散していった。

このおじいちゃんは、二中を出た後、陸軍士官学校を卒業し、ビルマの戦地で将校として活躍して復員したのだが、つい先日、自叙伝を自費出版したばかりの方である。

謙三は、九十歳代のおじいちゃんに負けたことが恥ずかしく、悔しかった。

終わりの体操を行い、階ごとにエレベーターで部屋に帰る。まだ終わっていなくても数人はエレベーターへと移動を始める。

「まだデイサービスは終わってませんよ。」

と職員が言っても、車椅子を漕いだり、杖で歩いたりしながら、エレベーターへと急ぐ。


三.自由を求めて

自分の階に上り、食堂へ行ったら、そこにはすけさんと、桜島みたいに爆発寸前の社長が、顔を真っ赤にして立っていた。

「すけさん。あの山を見たまえ。紅葉で真っ赤に染まって綺麗だろう。だけどあの紅葉ももう暫くしたら枯れて落ちてしまうだろう。枯れて落ちてしまう前に、あんなに鮮やかに自分を輝かせるんだ。君はこのままここで朽ち果てていいと思っているのか。」

「社長。社長は何を言っているの?」

すけさんは、不思議そうな顔で、社長の顔を覗きながら言った。

「俺はなあ。外出禁止になってしまったんだ。もうどこへも行けなくなってしまった。」

社長は、歩行は少し不安定ではあるが、ある程度の理解力はあるし、頑固で言い出したら聞かないということで、タクシーを使っての外出は許されていた。

外出は、デイサービスがない日の週2~3回であるが、必ずと言っていいほど、山形屋に出掛ける。お年寄りの共通の好きなものは演歌と相撲、NHKののど自慢、水戸黄門そして山形屋である。山形屋に行くと帰りには職員に名物の金生饅頭を買ってくる。買ってくるのはいいが、職員が何も言わないと、

「あいつはお礼も言わない。」

と機嫌を悪くする。

いつからか山形屋の帰り、パチンコに行くようになったらしい。職員にも今日はいくら負けたとか話をしていたという。

ある日、いつものようにパチンコ屋に行ったら、入り口の階段で転んで怪我をして、救急車で病院に運ばれてしまった。施設に病院から連絡が入り、職員が迎えに行ったのだが、それから施設からの外出は全面禁止となってしまったのだ。

「すけさん、かくさん。君たちの人生はこのままでいいと思っているのか。この監獄みたいなところで縛られて、外を知らない籠の鳥のままで人生を終わらせていいと思っているのかい。」

「私は終(つい)の住まいを探し回って、やっとここに決めた。ここで朽ち果てる覚悟で入居したから、何の不満もないね。」

いつの間にか、九十二歳の元将校さんが悟りきったような顔で言った。

「あなたはもう年だからそれでいいと思っているだろうが、私はあなたの年になるまでまだ十年ぐらいある。すけさんも一緒だ。かくさんなんかまだ二十年ぐらいもあるんだ。」

社長は、年寄りの出る幕じゃないねと言わんばかりに言った。

「私は嫌だね。前いた精神病院よりはまだましだけど、無理やり子供たちにここに入れられ、たばこも吸えない、焼酎も飲めない、カラオケにも行けない、女も抱けない。まだやりたいことはいっぱいあるんだけど、このまま何十年も、この中で同じことの繰り返しで死んでいくなんて。俺の人生って何なんだと毎日思っているよ。」

すけさんは、全くその通りという顔で社長に言った。

「ああうう、あああああ。」

顔を縦に振り左手で自分を指さしながら、かくさんも同意の表現をした。

「しかし、社長。これはどうしようもないことでしょう。ここから出るなんて。行くところもないし、夢の夢。あり得ないことでしょう。」

すけさんがそう言うと、社長は

「そんなことはない。夢は叶えてこそ意味がある。このまま朽ち果てるなんて死んでも死にきれない。俺に考えがある。今日の夜、ご飯が終わったら、みんなで相談することにしよう」

と言うと、すけさんが

「さすが社長。頼りになるなあ。今着けている時計も立派なもんだ。高そうですね。」

「ああこの時計か。前の時計が壊れたもんで、職員に頼んで買ってきてもらったんだ。なんだか、今どきのって感じで恥ずかしいんだが。」

照れくさそうに、それでも自慢げに、苦笑いをしながら社長は言った。

エレベーターが開き、夕食が運ばれてきた。

「もうこの話は後だ。職員にも他の人にも絶対に喋ったらだめだぞ。」

職員の若い女の子が、配膳車からお膳を配りながら、

「あら、今日はみなさんお集まりが早いこと。きっと良からぬ話でもしていたんでしょう。職員の悪口とか。」

と言うと

「ううああうう。」(そんなことはない)

と謙三が頭を横に振りながら言うと

「この人たちは、良からぬ相談事をしているぞ。気を付けた方がいいぞ。」

と元将校が言った。

みんなドキッとしたが、その職員は、どうせ他愛のない話だろうと、笑みを浮かべながら、他の階へと配膳車を運んで行った。

胃瘻のおばあちゃんが、謙三にテレパシーを発した。

「羨ましい。私が五体満足だったら、真っ先に参加するよ。年をとっても夢を持つことは素晴らしいことだ。やるだけのことはやってみなさい。どうせだめでも元の生活に戻るだけだ。」

「ありがとうおばあちゃん。おばあちゃんも連れて行きたいけど。ごめんね。」

謙三は、おばあちゃんに対し何もできない自分を恥ずかしく思った。

皆、黙々とテレビも点けずに夕ご飯を食べた。社長が小声で

「いいか。一緒に行きたい人は、今日の八時にここへ集合だ。分かったね。」

みんなコックリと頷いた。

謙三は、食事が終わり部屋に帰ると、社長の言葉を考えていた。

「どこかへ逃走するというのだろうか。そんなこと出来る筈がない。職員も何人もいるし、それにどこへ行くというのだろうか?有り得ない。」

考えても考えても、現実のこととは思えなかった。

八時になり食堂へ行くと、もう既に、社長とすけさんは席に座っていた。

「私の考えでは、メンバーはこの三人とみよちゃん、そして窓際のよっこちゃんの五人だ。どう思う?」

「みよちゃんは同じ階だし、窓際のよっこちゃんはいつもドアの前に立っていて可哀想だからね。それに歩くのは普通だし、いいんじゃないの。でもかくさんは歩けないよ。車椅子だから無理じゃないの?」

とすけさんが言うと

「何を言ってる。同じ仲間じゃないか。それにかくさんの面倒を見るのは、あなた、すけさんに決まっている。」

みよちゃんもよっこちゃんもまだ七十代で若く、みよちゃんは顔だちも上品な感じで、社長のお気に入りだった。よっこちゃんはいつもドアの前に立ち、誰しもどうにかしてあげたいと思っていたので、全員納得をした。

「まず流れを説明しよう。決行に移すのは一時から二時の間の昼寝の時間だ。この時間は職員も休憩に入り、見守りは二人だけだ。おまけにこの二人も、うとうとしていることが多い。ドアの前の事務室も誰もいない。」

「なるほど、さすが社長。観察が鋭い。」

すけさんは、感心したように言った。

「俺がタイミングを探すので、合図があったら、すけさんはかくさんの車椅子を押してドアを出る。みよちゃんは俺が連れに行く。よっこちゃんはいつもドアの前にいるので、そのまま外に連れ出せばよい。」

「うん、簡単なもんだ。だけど社長。どこへ行くんですか?」

すけさんが不思議そうに聞くと、社長は

「俺の本宅へ行くと、直ぐにバレてしまう。俺の別宅へ行こう。俺の妾に住まわせていたんだが、その妾も死んでしまった。そこだったら誰も知らない。職員も絶対分かりっこない。」

そう言うと、社長は自慢そうな顔をした。

「社長。そこは遠いんですか。僕は遠くまで車椅子を押せませんよ。」

すけさんが聞くと

「車でほんの十分程度のもんさ。」

と言う。

「いやいや、車は車でも車椅子だからねえ。三十分ぐらいはかかるでしょう。」

と、すけさんが無理無理という顔しながら言った。

「大丈夫。近くにタクシー屋があるので、そこまでだ。そこからはタクシーに乗っていけばよい。」

「う~ん。なるほど。よく考えておられる。それだったらうまくいくよ。その別宅にさへ着けば、後は主婦をしていた女が二人もいるんだ。飯はどうにかなるだろう。」

すけさんは右手で左の掌を打ちながら、もう既に成功したような顔で言った。

「よしそれで決まりだ。決行は早い方がいい。明日の昼だ。すけさん、かくさん。怠りなく準備をしておくように。」

謙三は、準備といっても何を準備するべきなのか、皆目見当がつかなかったが、ともかく明日だということで、ワクワクしてきた。

「目の前の桜島を見たまえ。薩摩の先人たちは、あの桜島より燃えていた。だけど我々薩摩人はいつまでも明治維新に頼っていてはいけない。いつまでたっても西郷さん、大久保さんでは、薩摩の先人たちも泣いていることだろう。我々も最後に燃えるだけ燃えて、あの桜島に笑われないようにするんだ。いいかすけさん、かくさん。」

社長は胸の前で腕を組み、涙ぐみながら言った。

「ヘイ社長。」

二人は社長に合わせるように、勢いよく返事した。もう薩摩の先人というより、まるで赤城の山に三人ともなってしまっていた。

部屋に帰ると、謙三は興奮を抑えられずにいた。本当にできるんだ。よしやってやろうと、準備することさえ考える余裕なく、興奮に酔いしれていた。

 

四.決行


 いつものように職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。

もう既にこの階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長はいつもより背筋を伸ばし、すけさんはきょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見えた。一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に車椅子を当てながら、ようやく自分の席に着くことができた。

席に着くと胃瘻のおばあちゃんからメッセージが届いた。

「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも今日は真珠湾攻撃の日だね。」

「ありがとう、おばあちゃん。」

朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。

「ニイタカヤマノボレ一二〇八

 一三時三〇分

  ドアの前に移動

    ↓

  鎌田 ドアを開ける

   ↓

 すけさん かくさんを押して外へ

  一目散に駐車場から外へ出る

   ↓

 鎌田 よっこちゃんとみよちゃんを連    

 れ、すけさんを追いかける。

   ↓

 タクシー屋まで、後を見ずに走る」

 と、とても単純なメモであったが、謙三は胸の高まりを抑えることができなかった。

 朝ごはんが終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、一階へ降りて行った。一階ではいつものように窓際のよっこちゃんがドアの前にいる。

 「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。」

 よっこちゃんは、きっと今日のこの日が来るのを毎日待っていたに違いないと、謙三は思った。

社長はみよちゃんを捕まえ、今日のことを説明している。

 「今日はお昼に外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」

 「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い。」

 「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて私の家だからね。」

 社長は、すけさんを呼ぶと

 「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまではかくさんを押して頑張ってくれ。」

 「はい、分かりました。社長は抜かりがない。」

 午前中の体操も終わり、入浴は社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたがその間社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしていた。

 そうこうしているうちに、嚥下体操があり、お昼ご飯となった。午前中の時間がとても短く思えた。

 昼食が終わると、昼寝の時間である。社長もすけさんも、そして謙三さえも昼寝を断った。

 「夕べ寝過ぎたから眠くない。」

 と社長が言うと

 「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」

 職員が怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうと他の人に声をかけた。

 「みよちゃん、さあ寝ますよ。」

 と声をかけると、みよちゃんは

 「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」

 三人ともドキっとしたが、職員は

 「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」

 五人を除いては、皆ベッドに横になり昼寝になった。電気もすべて消され、カーテンも閉められ、ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。

 社長はあっちこっちうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員もまだテレビを見て元気である。

 「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」

 社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、窓際のよっこちゃんが何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方からこっちを見ている。

 社長は急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいない。見守りの職員も二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。

 「今だ!」

 社長はすけさんに指で丸を作り、合図を送った。すけさんは職員に気付かれないようにそっとかくさんの車椅子を押し、ドアの方へ向かった。

 社長はドアの両方のスイッチを押し、ドアを開け、すけさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは

 「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」

 「いいから、今は時間が無いんだ。」

 朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんとみよちゃんの二人の手を引き、ドアの外へ飛び出した。

 外へ出ると、もう既にすけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は出島の中にあり、周りを海で囲まれ、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。すけさんはかくさんの車椅子を一生懸命に押した。しかし足が躓き、転んでしまった。車椅子は自分で転がって行き、ブロックの塀に当たった瞬間、かくさんが車椅子からずり落ちてしまった。

 「大丈夫か。」

 社長も来て、すけさんと一緒にかくさんを持ち上げ、車椅子に乗せた。かくさんは体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやくかくさんを乗せることができた。

 「遅くなった。早く行くよ。」

 社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き、急いだ。二人とも歩くのは社長より安定しているのだが、あまり走ることができない。

 「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」

 みよちゃんが言った。

 「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」

 よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、疾うの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには昔の記憶しか残っていない。

 「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」

 海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのにはきつい。

 すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台はかくさんの車椅子用の介護タクシーだ。

 「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」

 タクシーの運転手が二人で、手際よくみんなと車椅子をタクシーに乗せた。

 タクシーのエンジンをかけ、発車させると、

 「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設での仕事が来なくなりますからね。」

 「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」

 社長が怒って言った。

 「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」

 「分かった。分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護という言葉を知っているかね。」

 社長が運転手に聞くと、

 「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に誰にも言いません。私は口が堅いので有名なんですから。」

 「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を見たことがないけどね。」

 と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとし、久しぶりにシャバの空気を吸い安堵した。

 タクシーは海岸線から町中に入り、約二十分位走ったところで、社長が

 「そこだ。そこで降ろしてくれ。」

 と言い、みんなタクシーから降りた。

 そこは高い塀に囲まれ、大きな柘植の木の聳える二階建ての邸宅だった。

 社長は駐車場の横にある通用口の鍵を開け、

 「さあ、みんな入ってくれ。俺は近くのコンビニに買い物に行ってくる。」

 と言って出かけた。

中に入るとそこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。

「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」

程なくして社長が帰ってきた

「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。」

皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。

「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」

みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。

謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に事が運んでいいのだろうか。謙三は車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。

施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は脳梗塞になってから禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。

「うまい。久しぶりだし、格別今日のビールはうまい。」

すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。

少しずつ酔ってきたのだろう。社長が自分のことを喋りだした

「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりにホルマリン漬けにされ、学生たちに切り刻まれる。実は俺もその会に入っているんだ。施設にもその会に入っている人は何人もいるよ。」

謙三はぞっとした。死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく生きているうちにそんなことを決められるなんて、考えられない。それに社長は子供さんたちもいるだろうに。

「俺は頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは皆家を出て行った。だから面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも今はみんなが仲間という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」

皆ほろ酔い気分だった。

「でも社長。ここは天国だけど。飯はどうしましょうか。」

とすけさんが言った。

「主婦のプロだった女性が二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえみよちゃん。」

と、みよちゃんの方を向いて言うと

「私家事はしたことないの。自営業で靴屋をやっていたから、家事は全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」

と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。

「ええ!じゃよっこちゃんだったら。」

と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。

「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私家に帰りたいの。」

「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」

すけさんは、観念したように言った。

「ん?何か匂うぞ。」

と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。

謙三が、自分のお尻を指さし

「えた。えた。」

と言っている。

「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」

と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。

「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」

この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。

「仕方がない。二人でするか。」

社長は、車椅子をトイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。

「うわ!臭い。」

社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと

「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」

と社長が言うと

「ごめんなさい。僕が取りました。」

と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。

「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」

ある程度トイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ

「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで代わりのパッドとかリハパンはどうした?」

謙三はハッとした。準備をしておけというのは、このことだったのか。興奮していて全く準備をすることを忘れていた。

「しょうがないな。これでも当てておくか。」

社長は、バスタオルを持ってきて、謙三の股間にあてズボンを履かせた。

ふと、みよちゃんを見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。

「あ!やられた。」

みよちゃんには放尿癖があったのだ。

「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃんも着替えとか持って来てないだろうな。」

社長は、奥の部屋に入ると、妾のものと思われる女性用の下着とパジャマを持って来た。

すけさんが床を拭いた後、みよちゃんの体をふいてあげ、着替えをしてあげると

「社長。これからずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」

すけさんは、全部自分がしなければならないことにうんざりしていた。そしてストレスで、そこら辺にあった新聞紙を破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。

社長は、なにやら外が騒がしいのに気が付いた。車が何台も止まる音がする。

「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」

「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろうな。あいつは口が軽そうだったからな。」

「社長。あんたがそそのかしたんでしょう。あなた達にもしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」

女性の施設長が、泣きながら外から叫んだ。

「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」

と、社長が言うと、

「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」

と、すけさんが叫んだ。

「そうだ、そうだ。」

とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。

「もっと利用者に自由を」

社長も叫んだ。

「もっと職員の待遇を良くしろ。」

と、謙三は言いたかったが

「あうあうあう。」

としか言葉にならなかった。

「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら街を歩いている人は、ほとんどが老人だけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達にどう対応していくべきなのか、今、考えて置かなければならない。考えたことがあるのか。老人を施設に縛り付ける、それじゃ施設が幾ら有っても足りなくなるのだ。」

社長は演説を始めた。

「君達は、タクシーの運ちゃんにここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」

と社長が言うと

「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長はいい腕時計をしてるでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が入っているんですよ。」

と職員の一人が言った。

「な、なんだと。ここがわかったのは俺の腕時計のせいなのか。」

社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。

「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」

と、施設長が言うと

「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」

と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。

「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」

と社長が怒鳴ると

「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きているのは、介護の人たちが世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」

と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。

後は頼んだと言われても、社長もみんなの世話は、到底できない。すけさんがいたから何とかここまでやってこれたのだ。

「社長。帰りましょう。」

と、施設長が部屋の中に入って来て、社長の手を取り、外へ行こうとすると、

「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから。」

と言うと、施設長は

「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずその腕時計を持って行ってください。」

と言った。

社長は苦笑いをし、しょうがないかという顔で頷いた。


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