不妊治療について思うこと

 私は不妊治療で、身体の不自由な娘を授かった。最先端の治療だからといって、必ずしも健常な子どもを授かれる訳ではないのだと、経験した今はわかる。ネットの記事によれば、自然妊娠と不妊治療による妊娠で、障害児を授かる確率は同等。不妊治療での妊娠の方が危険という訳ではなさそうだが、発達障害など、すぐには見えにくい障害の発生率については、まだ研究段階とのこと。きっと読む記事によって結果が違っていたりもするのかな。

 不妊治療を受ける前に通っていた自然派のクリニックでは、先生から「不妊治療でできる子どもは、奇形や発達障害が多い」との話を聞いていた。長年婦人科の診療に携わっているドクターの実感としての言葉。それも耳を傾けるべきひとつの意見であると思う。

 しかし不妊治療は、多くの人たちにとって夢の治療だ。現に私たち夫婦は、治療がなければ子どもを授かることはほぼ不可能だった。自分がまさかそんな「最先端」の医療にお世話になって、子どもをもつとは予想していなかったけれど。

 不妊治療は、フルタイムワークとは相性が良くなくて、通院は本当に大変だった。たまたま私が住んでいるのが比較的大きな都市で、たまたま職場から30分圏内に夜6時まで診療しているクリニックが存在したから、なんとか通うことができた。けれど、場合によっては不妊治療の為に、仕事を続けられなくなる人も、いるのではないかな。そして私はそれほど切実に「どうしても赤ちゃんが欲しい」と思っていた訳ではなかったし、結婚がとても遅かったこともあって、独身には独身なりの、子どもがいないならいないなりの幸せの形があると思っていたので、移植した受精卵が着床しなくても、それほど落ち込んだりはしなかった。それでも、百回ほどの通院(しかも待ち時間が長い!)や、毎回の採血や、たくさんの投薬や、採卵や、移植や、大変なことがたくさんたくさんあって、忙しすぎて他に考えるべきことが山ほどあったから、淡々とそれらに耐えることができたけれど、それを耐え難く感じる人が少なくないことは、容易に想像できた。そしてさすがの私も、一度は着床しかけた受精卵を化学流産した時には、ちょっと泣いた。心も身体も大変よ、とても。

 クリニックには1年半ほどお世話になった。初めてかかった頃はそれほどでもなかったように記憶しているが、最後の頃には待合室に患者さんが溢れるほどになっていた。患者さんのほとんどは、私たち夫婦よりも若いカップルで、いかにこの国に子どもを望みながらも、不妊に悩む人が多いかを思い知った。

 待合室のモニターには、「今月赤ちゃんを授かった人は◯◯人」とか、クリニックで赤ちゃんを授かったお母さん達のお礼のメッセージなどが、美しい写真やイラストと共に映し出される。「いつか私もあちら側に」と知らず知らずのうちに願ってしまう自分がいたな。そういうムードに、なる場所だった。その◯◯人の赤ちゃんの中には、障害を持った子も、無事に生まれて来られなかった子もきっといただろうけれど、妊娠の先のことはクリニックには関係がない。妊娠が成立すれば良いのだもの。心拍が確認されさえすれば。不妊治療のクリニックは、そこまでが仕事だから。

 決して脅す訳ではないけれど、事実としてここに記しておく。私は不妊治療を経て重度の障害のある子どもを授かった。医療的ケアが必要な私の娘は、たくさんの通院とリハビリと入院と手術と、とにかく健常児は経験しなくても良いようなたくさんの痛みや苦しみを味わって、たった3歳でこの世を去ってしまった。私は娘に出会えたことを後悔していないし、本当に濃密な、素晴らしい日々をもらって、短い期間だったけれど母であったことを誇りにすら思っている。娘を通してたくさんのことを知り、多くの優しい人たちに出会い、私にとって娘は今でも世界で一番大切な宝物だ。けれど、娘自身は、どうだっただろう。辛かったんじゃないかな、苦しかったんじゃないかな、と今でも思って泣いてる。

 不妊治療は夢だけを叶える魔法の治療ではない。いわゆる「普通の」場合でも、妊娠、出産には人間にはまだ解明できていないことがたくさんあって、お母さんも、子どもも、常に命の危険と隣り合わせだ。だから、同じ危険が不妊治療を経た妊娠にも、当然付いてくる。

 前に別の記事にも書いたが、私が通っていたクリニックでは、グレードの高い(いわゆる、質の良さそうな)受精卵から順に移植していく。その方が着床の確率が高いから、と聞いていたが、私の子宮に着床したのは、最後に残っていた受精卵の、2つのうちの1つだ。移植の際には受精卵の顕微鏡写真を見せてもらって説明を受けるのだが、その最後の1つは見るからに、細胞の分裂具合がちょっといびつだった、ように私には見えた。

 その「いびつな」受精卵が娘だったのだ、と断定はできないかも知れないが、私はひょっとしたらそうだったのかも知れないな、と思っている。そういう胚が着床しても、無事に出産まで育つことがあって、出生前診断を受けても、障害の有無は確実にはわからない。出生前診断で判定できるのは、全障害のうちのたったの25パーセント。どんなに気をつけていても、障害児は必ず一定の割合で生まれる。現に私はNIPTを受けて、結果は陰性、つまり、その診断で分かる染色体の異常は認められなかったということだ。けれど生まれてみてびっくり。生まれるまでわからないことが、あるのよ、世の中には。

 アメリカでは不妊治療の際に、受精卵の段階で染色体異常の検査をするのだと、何かの記事で見た。それは画期的だな、と思うと同時に、どれくらいの異常がわかるのか、気になるところ。NIPTや羊水検査と同じ精度なら、娘のような遺伝子の変異は見つけられないから、結局同じことになってしまうのかな。

 「子どもが欲しい」と願うのは、親のエゴだと私は思っている。親の選択によりこの世に生まれた命は、何があっても親が守り、育てなくてはならない。望んで生んだ命なのだから。それから、世の中には望んでいなくても、するっと授かってしまう命もあるらしいのよね。それでも、授かる可能性のある行為を一度でもするということは、授かった命に対して責任があるのではないかな、と思う。産むかどうかを悩んだり、その結論を行使することを含めた責任。それは産む人自身の責任でもあり、妊娠はひとりでできない以上、相手の責任でもあり、そして何より小さな命の行く末を決める大きな責任だ。

 一度は娘の母となり、娘を失って離婚して、また1人の女に戻った私は時々思う。「もう一度人生を巻き戻せるとしたら、私はまた不妊治療を受けるだろうか。」きっと私はまた娘に会いたいと思ってしまう。また同じ苦しみを繰り返してもそれでも、赤ちゃんの娘をもう一度抱きたいと、きっと願ってしまうだろうと思うんだ。そしてきっとまた沢山泣くんだ。自分勝手だね、本当に。

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