シン・アートー越境せよ!

森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第69回目。

K「森田さん、こんにちは。次の対談のテーマ、私は浮かんでいないので、森田さんから何かないでしょうか? これまでの議論の延長上で、良いと思いますが。しかし、暑いですね。名古屋は夕方になっても、30℃。」

M「加藤さん、こんばんは。名古屋は30C!。ちょっと、異常気象ですね。私の方は土砂降りで、今日は職場から濡れて帰ってきました(突然のスコールで、傘を用意してなかったもので)。ちょっとまえに、「惑星ザムザ」の件でお話ししました布施琳太郎が再度「話題」になっていますね。他の批評家たちと、モジャモジャと応戦している模様ですが、「現代アート」であるなあ...と。我々が、こいつらに興味がない、今後も興味をもつことがないのは、確実ですが。「現代アート」に、決定的に欠けているのは「何か」、(前の対談で、我々は日本の現代アートを全否定しているので、その答えとしては、「何もかもが」ということになりますが)。」

「福尾匠氏の抗議。」

布施氏がキュレーター・出展作家として関わった「惑星ザムザ」という展示を私が批判し、その批判的な文脈のなかで「メディア環境を内面化したキメラ」という文言を使用しました。上記の論考で布施氏は、当該の私のツイートへのリンクを貼るだけでその批判的な文脈に一切言及することなく、「キメラ」という言葉をタイトルに含め、本文でも繰り返し自身の態度を象徴する概念として用いています。前段のやりとりを知らないであろう大半の読者は、私が布施氏を肯定的に評価したのだと勘違いするでしょう。このような誤解はたとえば、「福尾はこの語を批判的な意味で用いたが、私はむしろそれを積極的に引き受けるべきだと考えた」といった簡単な補足がワンセンテンスあれば避けることができるものです。http://tfukuo.com/2022/06/24/布施琳太郎氏および美術手帖への抗議/?fbclid=IwAR0hpYqr3OZLssg55RLLG_gGsl2SH4hCekrub3CweIi1JDZY3SNdqVrcino

「ちなみに、布施琳太郎と論戦しているのは、この石田裕己という方(下記リンクにて、布施氏との応酬がまとめられているhttps://note.com/ut_hitorigoto/n/nc7748ca8e7ab)。」

「石田裕己氏が「惑星ザムザ」を批判して、その応答という形で出した美術手帖の文章で、上記の福尾匠のツイートを恣意的に「使用」し、それに福尾氏が抗議した...という流れです。リンク先の記事「僕の「惑星ザムザ」評に対する布施琳太郎さんの応答への再応答」でも、指摘されていますが、布施氏のキュレーションは「雑」で、ステートメントと作品とに不一致がしばしば見られ、そればかりか、作品の魅力を減縮してさえいる場合もあると。」

K「森田さん、ありがとうございます。何か、複雑そうですが。大事な前提として。現代アートの展覧会のステートメントにしろ、実際の展示内容の批評文にしろ、通常ほとんど誰も読みませんよね。まともに。読まれないものという認識が広く前提としてある。私自身が、そういう習慣で。自分が参加したものも。まあ、展覧会のタイトルぐらいは、気にするという感じで。ましてや、それら執筆者たちによる「論争」というのを長文で、公開でというと、私には読み通すのはほぼ不可能なものになる。ここには、何が欠けているのかと言えば、「芸術」が欠けているんでしょうね。シンプルに。「デザイン」しかない。」

M「加藤さん、こんにちは! そうですね。モジャモジャ...と、論戦してるけど、いったい、まともに、あれらを誰が読むのか?と。芸術が欠けている。デザインである。その通りだと思います。」

「布施という人は、芸術の「モノ性」への還元を拒否すると。」

(引用)
だからこそ、その「キメラ」的な身体を、石田が「モノ性」へと哲学的に縮減したことが、僕のなかに仄かな違和感を生んだのだ。彼が、論考の前段階のツイートで記した「虫性」(石田裕己のツイートより)を前提としたとき、「惑星ザムザ」を人間批判以上の具体性で──つまり「哺乳類批判の展覧会」という新鮮な論点で──キュレーションの不備を指摘することすら可能だったように思われる。

「「芸術かどうか」の判断の、引き延しの戦略というふうに、私には思えます。」

「ある意味で、布施氏は、彦坂氏と通じている部分がある。」

(再度引用)
だから僕は、外交官ではなく、ひとりのアーティストとして、この身体と、この世界に存在するモノたちが継ぎ接ぎされた「キメラ」でありたい。そのためなら、僕は、自分が担うことになる権力を否定しない。権力がないフリをしない。もしも僕が、矛盾や二重性への葛藤を失ったのなら、そのときはたんなる老害として駆逐されるべきだろう。それまでは、まだ変えることができると思える未来のために努力を続けたい。

「モノ性への否定、や、キメラになることへの欲望、とかも、私には彦坂氏の論法に通じているものを感じる。モジャモジャ小難しいことをいってますが、「芸術判断は俺がやる」と。その点は、譲らないようですね。」

K「なるほど。「芸術判断は俺がやる」と。「権力」について語っていますね。森田さんは、美術業界での振る舞い方としての、彦坂氏との共通点を感じると。布施氏に。曰く「モノ性への否定」は、彦坂氏のよく言う「アートは人格で作るのだ」という、人格または精神中心主義と重なるということでしょうか。「キメラになることへの欲望」って、なんでしょうか。現代思想みたいな? これも、彦坂氏がよく言う「何重人格」とか、そういうことへの共通性と。森田さんは、布施氏の文章に、彦坂氏の形式上の反復を見ると。ならば布施氏は、彦坂氏を参照しているのでしょうか?」

M「彦坂氏の「たおやめぶり」というのは、かねてより加藤さんと議論していたポイントとしてありますね。」

K「本居宣長の。柄谷行人が語った「日本性」としての。」

M「布施氏が彦坂氏に影響を受けているのは、94年生まれの布施氏のことですから、大いにありえる。逆に影響を受けて「ない」可能性は、低いのではないでしょうか。そうですね。布施氏のことですから、柄谷行人はもちろん、読んでいるでしょう。」

K「そうなんですね。今頃、現代思想系の人なんですね。」

M「ばりばり、現代思想系ですね。布施氏。逆に、もちょっと、一般向けに「読める」ように配慮がほしい。隠語の塊みたいな文章なんで...。」

K「文章下手ですね。」

M「布施林太郎のお父上(布施英利)も、なかなかアツい。レオナール藤田のコスプレしてるおっさん。」

K「その人、Twitterで目にしたことがありますよ。沖縄の有名な画家を褒めていた。美術の完全素人ですね。美術の堂々とした完全素人。」

M「でもなぜか藝大の教授という。」

K「だから藝大。」

M「なかなか、看過しずらい存在。構造ぐるみ、で非常に厄介なんですよね。フセ父子。言いにくい部分ですが。お父さんのツイートではいつも「琳太郎ぉ~」という感じ。」

K「それは、まさに堂々としていますね。私の印象と、森田さんとの一致ですね。」

M「清々しい程の。」

K「清々しい。「僕は権力を否定しない。」」

M「Twitterのツイートを重要な参照先として、論文に組み込む...って。今まで考えられなかったメンタリティですよね。しかも、そのツイートの主がマジギレ(笑)してるって...。」

K「なるほど。そこは「前衛的」だと。論文に人のツイートを参照。」

M「前衛/過激。しかも、曲解にての参照。美術手帖も、そこにこそフォーカスしてほしいですね。一番クリティカルな部分は「無視」と。またしても、我々が「正統」からのアートクリティック。これ、放置しつづけると、アート界のプリンスによる「つくられた独裁」になりかねない。」

K「美術手帳は、記事が載っていることを確認する媒体でしょう。画像確認とか。」

M「底が抜け過ぎですね...。「やりたいほうだい」。」

K「大体私は、読んだことがありません。美術館には置いているのかな、今。確かゼロ年代には、世田谷美術館の学芸員室に置くことを廃止したと、キュレーターの東谷隆司が私に言っていた。」

M「「プロ同士」のコミュニケーションの作法では、じつはそんなにプレゼンスはないと。美術手帖。」

K「真面目に学芸員を研究者としてやるなら、美術手帳などはおよそ参照できないでしょう。しかし、学芸員自体の文章も、私は美術家としてまともに読もうと思ったことは、これまでほとんどない。学問としてのそれなど、「空虚」化しているのは前提でしょう。大体ゼロ年代から、例えば私の愛知では愛知県美術館の拝戸雅彦氏のメガネが、色付きの業界人のようなものに変わった。興行師ですね。学究の徒ではなく。」

M「布施林太郎も、あの歳にしてはスーツが似合わないツラガマエですね。黒瀬陽平の、あのロン毛にも違和感があったのですけど。なんというか、自分の事をアーティストって勘違いしているかな?と。」

K「無意識に、形式をここでも反復しているのでしょうか。黒いシャツ等。」

M「「反復」感がパないですよね。黒瀬陽平の場合は、「包摂」ってのがキーワードでしたが、布施氏の志向性も、その反復性が感じられる。包摂する世界の管理人としての自分、と。」

K「黒瀬陽平の文章自体、私はまともに目を通したことが一度もないのですよ。」

M「布施にくらべて、黒瀬は文章は下手じゃないですけど、イメージの政治に終始している人でしたね。」

K「イメージは上手でも、芸術にはアクセスできない。」

M「できない。絶対に。嘘だから。嘘がお上手。マーケットに流通させる手腕が、腕の見せ所、、、と。」

K「また、彦坂氏のように、「多重人格」に自身の身を潜めることでも、同様に。芸術にはアクセスできない。」

M「そうですね。「複雑性」ですね。[「芸術」の]「複数性」に届かない。」

K「日本の現代アート界、さらに不毛さの極地に行っているようですね。それが確認できました。」

M「仰る通りです。一人くらい、面白い奴がいてもいいのに。いない。反復。スティーブライヒ(笑)。加藤さんがいれば十分ですね。」

K「「強迫」ですね。反復。」

「「私は行く」(笑)。」

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