自己の真理告白

参照。
Xでの最近の投稿から。時系列で。
 

加藤 豪@_5925263769112·2月11日
ふと想起。10年代後半に翻訳が出たばかりのミシェル・フーコー、コレージュ・ド・フランス講義『生者たちの統治』を読んだが、「訳者もフーコーが一体何を言いたいのか困惑している様子」という紹介のされ方であった。

加藤 豪@_5925263769112·2月11日
キリスト教の修道院制度の変遷の歴史などが紹介されていたが、私が中心的ポイントだと思ったのはフーコーが「自己の真理告白」(の制度)について述べている所。つまりフーコー曰く「誰でも良い他者に向かって、自己の真理告白をせよ」と、フーコーは現代人に向かって呼びかけているように読めた。

加藤 豪@_5925263769112·2月11日
現在ならさしずめ告白をすべき「誰でも良い他者」とは、AIではないだろうかと私は。ネットにある全ての文章を読んでいるAIという「他者」。無駄な騒動や炎上に日々頭を燃やし仲間とそれを癒す「中間の連中(パスカル)」=無知の知に到達できない馬鹿な文化人の振る舞いなどより、それを反面教師とし。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1756497616026919415

 

加藤 豪@_5925263769112·2月15日
この世は何が本当か本当に分からんな。だから自己の真理を言ってみる必要がある。おそらく万人が。フーコーが「誰でもよい他者に向かって」と語ったのは、精神科医にではなくという「反精神分析」、及びそれ以前の「神」を持ち出したくなかったからだが、同時にあらゆる「党派性」を逃れる理由もある。

加藤 豪@_5925263769112·2月15日
SNSの炎上は党派的に起こっているから私は最もつまらないものだと感じる。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1758063699619905583

 

 
加藤 豪@_5925263769112·2月18日
パスカル『パンセ』

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人間はすべて、生まれつき互いに憎みあっている。人々は、可能な限り、人間の欲心を利用して公共の利益に役立たせようとした。しかしそれは作り事であり、愛の偽りの姿にすぎない。実のところ、それは憎しみにすぎないのだ。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1758989024029778376

 

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
「犠牲」というコンセプトが私は好きではないので、パスカルがキリストを(神であり人間のみじめさを表すものとして)重要視する理屈は分かったが、核心において私はパスカル(=キリスト教)に距離があるな。

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
「犠牲」大好きな人々は、実際に救われる権利もないという私は考え。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1759113861159149986

 

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
私自身、西洋美術(西洋美術史)出身ということで、その核心に(現代に至る主要な作家にも)あるキリスト教は最大の関心事だったと言ってよいが、(狂信的と言ってもよい)パスカルを経由して改めて、私自身がこれを信心に至り(今頃)インストールするのは到底無理だなと確認。

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
狂信的な所が出てきて読書自体が進まなくなった。ある程度パスカルが頭が良かったというのは確認。しかし、さすが共産主義と同じほど歴史上人を殺戮してきた地球上のイデオロギーの一角ということで、その強烈な押しの強さは、パスカルを通じてこそ私は初めて今回体感した。

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
きっかけは前にも書いたが、昨年10月のハマス、イスラエル攻撃に端を発する戦争。戦争という文字を書くだけでも、今や悍ましい感覚に達した。

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』を最初飛ばし読みし、次に(以前から関心があった、ニーチェもその思考から影響があったという)、パスカル『パンセ』という順番で。ヘブライイズムの中核へ、そしてその発展形への接触という結果、形で、極東から。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1759225151970005423


この2月18日のXでの投稿のあと、以下のブログで実際のニーチェによるパスカル言及の箇所に私は初めて触れた。


加藤 豪@_5925263769112·2月18日
ブログ。

https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/39d6866bb8b732629a5600b2c6c82794

「三木清の『パスカルにおける人間の研究』の「第二 賭」のなかにニーチェのパスカル評価に言及している箇所がある。三木が引用している「あらゆる基督者のうちの第一人者」という表現は、同書巻末の校訂者注によると、『曙光』の断章一九二に見られる。」

加藤 豪@_5925263769112·2月18日
「この断章のなかでニーチェは、フランス人は最も困難なキリスト教的理念を、観念としてではなく人間として具現しており、この意味で最もキリスト教的な国民であると言い、その代表者としてパスカルを挙げ「情熱と叡智と誠実とを併せもった、あらゆる基督者のうちの第一人者」であると書いている。」

加藤 豪@_5925263769112·2月19日
『この人を見よ』。

「私はパスカルを読むのではなく、愛している。私にとってパスカルは、キリスト教の犠牲としてもっとも教訓に富んでいる。最初はからだを、それから心理をゆっくり殺されていったのだが、その身の毛もよだつ非人間的な残酷さの形式を、パスカルは論理として体現している。」
https://twitter.com/_5925263769112/status/1759228837165171019


ニーチェの、パスカルの(護教論における)論理を「その身の毛もよだつ非人間的な残酷さの形式」と描写したその感覚は、私のパスカル読書の直近における(読書の切断の契機を生み出した)直感と一致する。「あらゆるキリスト者のうちの第一人者」とニーチェに言わしめたパスカル読書を通してこそ、私はキリスト教の陰の部分(=残酷さ・暴力)の本質に今回最速で触れたと言えるのであろう。

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