暇・地獄に突き落とすブレーズ・パスカル

パスカル『パンセ』

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地獄に落とされた者たちを狼狽させることの一つは、自分自身の理性によって断罪されるはめに陥ることだろう。彼らにしてみれば、理性こそキリスト教を断罪する根拠だと思っていたのに。

 

私はキリスト教徒では全然ないが(過去にそうであったこともない)、パスカルのこの時代の護教論は非常に興味深い。去年10月からイスラエル、パレスチナで起こってきたことは、私にまずマックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』を初めて読む気にさせたが、それをつまみ食い程度にして、その後すぐに私はパスカルの(主に)キリスト教論をかなり入り込んで読む気にさせた。それは今も継続中。パスカルは非常に深い。ちなみにその前には、10年代後半、フーコーの(講義録における)キリスト教論にも私は触れていた。そういう関心の経緯だが、パスカルには私は格別なものを肌感で感じている。現在に非常にアクチュアリティがあると。まず初期の計算機をパスカルは作っている(17世紀)。それが今のIT基盤の社会に繋がっているし、それに引き続くAI(大規模言語モデル)の登場は、パスカルの中核の一つ「気晴らし」「暇」のテーマにもまた直接的に繋がっている(暇のテーマは、今後の想定される「高齢化社会」にとってもリアリティは大きいだろう)。AIが人類のある種の領域の仕事を奪って行くことが現在世界で想定されているが、そもそもパスカルが機械式計算機を作ろうと思ったのは、父親の徴税官の仕事を楽にする為とも言われており、つまり人間を「誰でもできる仕事」「誰がやっても同じ結果になる仕事」から解放し、「暇」(という人類にとっての「苦痛」)に向き合わせる為とも考えることができる。そのぐらい頭が良いだろう。論理的に繋がっていたはずだ。そして、その人間にとっての苦痛な「暇」は、その後の護教論に、直接的に論理的に繋がってくる。


参照。機械式計算機の歴史。

https://ja.wikipedia.org/wiki/機械式計算機

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