野を踏破

森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第81回目。

K「森田さん、こんにちは。坂部恵がパリの図書館でフーコーを何度か見かけた時の印象の表現、「本の虫」。フーコーは自身を仕事人間で、つまらない人間だと言っている。「私と暮らす人は何と退屈なことでしょう」と。インタビューで。昨日たまたま見た、レックス・フリードマン(人工知能と自動運転車が専門の科学者/研究者)のポッドキャストで、同じ主題が反復されていた。サラ・シーガー(天文学者・惑星科学者)との対話で。フリードマンが最後にシーガーを「MITの偉大なスター」と。しかし、どこか寂しい響きがここには。」

サラ・シーガー:太陽系外の惑星と生命を探す|レックス・フリードマンポッドキャスト#116
https://www.youtube.com/watch?v=-jA2ABHBc6Y

「日本語字幕で見ました。」

M「加藤さん、こんにちは。 サラ・シーガー、注目されている天文学者であると。 ざっと日本語翻訳で見たのですが、動画の前半は自身の理論について、後半は人生について語っているようですね。フーコーにしても、サラ・シーガーにしても、超エリートですからね。並外れて忍耐強い人でしょうね。 ちょっと前に「grid」っていう本がベストセラーになったのですが、社会で成功する最大の要素は「自己制御力」だと、 現在は言われるようになった。「知能」よりもずっと重要なのだと。「マシュマロテスト」っていう有名なテストがあります (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%83%AD%E5%AE%9F%E9%A8%93)。社会って、ある意味で「究極のマシュマロテスト」みたいな世界なんで、その究極の「忍耐ゲーム」の頂点にいるのが、 上記のサラ・シーガーみたいな人ですよね。だから、彼女みたいな人が語る「人生」に説得力があるわけですね。「MITの偉大なスター」っていう、その言葉にどこか空々しさがあるのは、 この人生=究極のマシュマロテストっていう、そのような社会の構造に、なにかポッカリ、重要な本質が抜けているような感じがするからかもしれないですね。」

K「サラ・シーガー、忍耐強い人格であることが窺われますね。議論に絶えず挑戦的でもある。フリードマンに「あなたが1年のうちに死ぬとしたらどうしますか?」と。フリードマンは「家族と共にいること」と。」

シーガー「私は(夫の死後)残りの人生を別の地球を見つけることに捧げます。私たちは一人ではないことを見つけるために。」

フリードマン「他の人とのつながりへのその切望は、何ですか。なぜそんなに意味がいっぱいなのか考えてみてください。」

シーガー「なぜ私たちは死をそれほど厳しく受け入れるように進化したのですか。人々がそのように死んだことを気にしないとしたら、私たちはどのような社会になるでしょうか。それは非常に異なるタイプの世界になるでしょう。なぜ私たちはつながりを求めるのか。それは私たちが理解できないその潜在意識の前に話していたということです。」

フリードマン「ええ、結合されたコインの反対側を知っています。つながりと愛は喪失の恐れです。」

シーガー「夫を失うことから愛について学びました。私がもっと持っているものを愛することを学びました。」

M「上記の抜粋、私も見て、気になる部分でした。私たちは驚くほど自己の心理を、自己の死によって規定されている...云々と。フリードマンの応酬。」

K「「他者」(地球外生命)」を求めながら、最愛の他者(夫)を失うことで、自己の持っているもの(才能等)を愛することを学んだと。循環している。自己の才能は、数学だと。その能力を使って、地球外生命を求める。シーガー「私たちは地球のような惑星を最初に見つけたいと思っています。地球のような惑星を見つけるだけでも、10億ドルの努力が必要です」。フリードマン「私たちの活動はどんなものでも、根底にあるのは死の恐怖だ」と。心理学者の言葉を引用し。議論が終わってから、フリードマンはカール・セーガンの “Somewhere something incredible is waiting to be known.” を引用。スマートな締め。」

M「フリードマンも途中、かなり困惑した表情を浮かべているので、 けっこう、アクロバティックな議論であると想像できます。サラ・シーガーが宇宙論から人生(や愛)を語り、それに応酬する形で、フリードマンが死について言及する、と。 機械翻訳では、英語での議論の有機性が、ちょっと分からない部分もあるのですが。」

K「そうですね。面白い。」

M「全体的に、やはり「スマート」な印象ですね。」

K「シーガーの方が挑んでいく場面があったんですね。「私の夫が危機の時に、周囲の人たちに同じ質問をしました。レックス、あなたにもそれをします」と。」

M「「人生の有限性」みたいな議論ですね。」

K「そうですね。フリードマン自身「あと1年しか余命がないとしたら?」と聞かれて、メディテーションは大事だと。これはフーコー が語る「古代」(ギリシア、ヘレニズム、ローマ)の瞑想法と同一。フリードマンは、「自分自身、いつ死んでも良いように訓練をしていた」と。この対話を聞いていると、フリードマンの方が私の感覚ではギリシア的なんですね。」

M「サラ・シーガーって人が、こういう問い詰め方をする理由は、なんとなく想像つきます。 宇宙論と。しかも、地球外生命体。 すぐに見返りがないような仕事をやっていて、 (おそらく、見返りが帰ってこない可能性が高い) その仕事と労力に投資して、ずっと未来まで、あるいは永久にもらえないかもしれない報酬のために、 ずっと労力を注ぐという人ですよね。ちょっと、いっちゃってる部分があるんでしょうね。」

K「そうですね。主治医と症例(シーガー)みたいな。先ほどの(前対談)の分け方で言えば、「歌」(夫や、愛する犬)の問題で苦しんでいるのがシーガーで。だから、フリードマンの姿勢は、基本が社会批評なのでしょうか。人工知能と自動運転車の専門家ということですが。メタ的な批評の観点がありますね。」

M「メタ的ですね。絶えず、その視点を参照している。」

K「シーガー「他の地球を探すこと」。フリードマン「今日が起こって良かった」。」

ミシェル・フーコー講義集成 XI『主体の解釈学 』(コレージュ・ド・フランス講義 1981-82

p.371
手許にあるロゴス(補助のためのロゴス)という考え方の中には、このようにムネーメー mnêmê(記憶という語の古い形)に与るものの記憶において真理の輝きを保存する、ということとは微妙に異なったものが入っています。各人はこの備えを手許に持たなくてはならない。正確に言うならば、それはたんに、文を歌い直して光の中でつねに新たに、つねに同じように輝かせるという形での記憶ではありません。それを手許に持たなくてはならない、つまり、言うなればほとんど筋肉の中に持たなくてはならないのです。直ちに、遅れなく、自動的にそれを蘇らせることができるようにしなくてはならない。したがってそれは歌の記憶ではなく、むしろ活動する記憶、活動中の記憶なのです。

「とろんとした眼差しで滑舌悪く話すフリードマンが、シーガーを突き刺した感じ。」

M「主治医と症例、っていう加藤さんの印象の記述が的確ですね。フーコーも薬物中毒でしたね。たしか。」

K「フーコーは、重症。」

M「フーコーの場合、言っている御託や説教は立派なんですけど、本人が「症例」の塊みたいな。」

K「車にはねられた時、人生最大の喜び(=快楽)だったと。脳内麻薬。自殺志願者、フーコー。フリードマンのメディテーションとは、ちょっと違う。」

M.フーコー「ヴェルナー・シュレーターとの対話」(1981年12月3日)、パリ、ゲーテ・インステュート、1982年より、フーコーの発言だけ抜粋。『ミシェル・フーコー思考集成9 自己・統治性・快楽』、筑摩書房。

「情熱の状態とはパートナーたちのあいだの混成状態なのです。」

「相手が愛していなくともおかまいなしに愛することができるものです。孤独なものなのですよ。だからこそある意味で、愛は常に一方から他方への懇願に満ちているのです。そこに愛の弱さがある。」

「愛は情熱にもなりえますよ、つまり今話したような状態に。」

「しばらく前から頭を離れないことの一つは、自殺するのがどんなにむずかしいものか、自分にもわかってきたということなのです。手近な自殺の方法に何があるか、ちょっと数え上げてみましょう。いずれ劣らずぞっとしないものばかりですが。ガス、これは隣人に危険を及ぼす。首吊り、これは翌朝死体を発見する家政婦の身になってみればやはり不快なものです。窓から身を投げる、これは歩道を汚します。しかも自殺は社会の側からはもっともネガティブな見方をされてもいるわけです。自殺するのはよくないことだと言われるだけでなく、もし誰かが自殺するなら、それはよほどひどいことになっていたからだと思われてしまう。」

「自殺ほど美しく、従ってこれほど注意深い考察に値する行為はないと人々に再教育するための、真の文化的闘争に私はくみするものです。人は一生かけて、自分の自殺を練り上げなければならないのです。」

M「フローレンス・ナイチンゲール効果じゃないですけど、シーガーがフリードマンに対して、それに陥る感じが、なくもない。シーガーは、どこか感情的安定を求めて、彷徨っている風の目つき。」

K「そうですね。」

M「能力とは別のものですよね。「存在」の大きさというか。」

K「シーガーは、訴えているという風ですね。「当事者」として。大きくは、同じ機構に属している、先端的な、両者。科学は未踏の領域に挑まねばならない。」

M「数式が出てきますよね。途中で。F~F~なんちゃらって。アインシュタインの統一場理論みたいなものか。」

K「これですか? (https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2590115621121351&set=p.2590115621121351&type=3)」

M「それですね。」

K「綺麗ですね。」

M「かっこいいですよね。でも、なんていうか、「本当に見えてるのかな?」って思うっちゃ、おもいますけど。やっぱり「見えてる人」って惹かれるんですよね。私は。」

K「「見えている」とは。」

M「端的に「全体」ですね。」

K「なるほど。」

M「アインシュタインですら、彼がやっていた統一理論って、今では「ゴミ」らしいので。宇宙論ってそれくらいラディカルで、移り変わりが速い。」

K「科学って、そういう宿命っていう。誰が発見しても同じという。公式に本質的に発見者の固有名は関係ない(?)。早いか遅いか。しかし現実的には、その都度権威化されるので、科学者は必然的に神経症に。」

M「芸術の「美」と「醜」の問題とも通じるかもしれないですね。」

K「「美」と「醜」の問題も。「美」をAIに学習させたら。できると私は思いますが(これは前にも語ったか)。」

M「意識により直結した問題を扱っているのがフリードマンなんでしょう。どこか、見ていて危なっかしさがない理由ですね。AIのエンジニアの話は、わりと動画などで見るが、どうも、エンジニアすら、AIが内部でなにをしているのか、よくわかってないと。エンジニアがやっているのは、性能を向上させたり、パラメーターを増やしたり、それくらいで。そういうラディカルさは、面白いですよね。すくなくとも、いままでの科学的な「還元主義」とは異なる。「意識」の問題は、絶えず自問しているだろうな...とは思いますね。AIの研究者は。」

K「森田さんは、「美」「醜」をAIがどのように扱えると思いますか? 結局、人間の「意識」を媒介にしないとできない。」

M「意識全体の問題ではあるでしょう。その大きな有機的な結節点ですね。「美」とは。「意識」の主要な構成要素として美はあるだろう、と私は考えています。「発達障害」も、その「美」と「意識」との関係があると思います。それはそれは、如実に。」

K「「意識」の主要な。では、意識の全体の問題を考えると、「美」を排除したいという心理も人間は持つ、複雑なところがある。「美」が抑圧となる場合です。」

M「それはあるでしょうね。難しすぎるので。もっと単純に考えたいわけですね。例えばモラルとか。モラルと意識、だけで考えると。よりソーシャルな心理モデルで。」

K「政治的に言えば、「リベラル」はそういうところがありますね。美は抑圧だから排除しようと。」

M「抑圧になるんでしょうね。美=「カルト」とかいって。」

K「銃撃された安倍元首相=カルト=美しい国。という恣意的な図式化か。」

M「美と意識、っていう関数があると、恐ろしく複雑な世界があるので、あえて蓋をすると。でも、例えば数学者なんて、美がないと成り立たない職業ですからね。そういう「天賦」に対する、憎しみはあるかもしれないですね。」

K「でも、美はカルトではないでしょう。」

M「もちろんカルトじゃないですよ。」

K「美への神経症が、色々な形でカルトというか。「壺買ってください」から始まり。」

M「意識は、「美」でできている。かなりの部分。カルトじゃないですよ。」

K「過剰に自己内部の問題として美を抑圧するから、神経症化。それが集団化=カルトが出てくる。「現代アート」セクトも。同様に。」

M「さんざん還元主義的な態度で、「アート」を記述してきた罪ですね。これこれ、こういう要素で出来上がっていると。そういう言い方が、カルトをつくりあげてきた。ロバートモリスが「還元主義」っていうが、モリスの理論は、非常に体系的ですからね。そういうのを下手に真似して、猿まねして、へんてこな理論が蔓延してしまった。」

K「「現代アート買ってください」。「コンセプチュアル」と。但書を付け。」

M「ゆっくりと、全体を見渡していきたいですね。コンセプトといって、セカセカせずに。」

K「「こうすればアートになる」という方程式。こういう要素で出来上がっているという、還元主義。それがアートの教科書に。そして勧誘。」

M「うまくできてますね(笑)。本当に。」

K「「無意味な我々の人生」、そこを補填する。」

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