クーンズの天才と限界

オマル マン氏との対談、第21回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。彦坂尚嘉さんの動画を久しぶりに見ました。ジェフ・クーンズについてですが、一つにはクーンズが日本では正面から語られないという問題が従前からあります(マイク・ケリーについても同様ですが)。特にクーンズが語られないということは、20世期後半以後のアメリカ美術の世界における覇権を、駄目押し的に強調している存在、ということがあると私は思います。日本の美術人は、相対的にヨーロッパへ視線が逃げているという印象が強い。ということは、日本人にとってアメリカ美術は「抑圧」であるということです。その現代の一番新しいところで、ジェフ・クーンズがあるということ。クーンズが90年代初頭に日本に紹介された時、圧倒的なインパクトがあり誰もが口にした、しかし(覇権が続くので)皆口を閉ざした。彦坂さんが語るデザイナー、ヴァージル・アブローとの方法論の類似の文脈の点でも、クーンズは一過性の現象ではなく、美術史において正統な位置を占めると思われる。日本人は無視できなくなる。その時に、クーンズの正反対のことをやってきた日本は梯子を外される。集団で落下すると思うのですね(この想定自体は、私はずっと以前からしてきました)。パープルームの梅津陽一君が定式化して語る「現代アート=ゴミ」は、世界のアートの公式として全面化していない。少なくともアメリカでは。彦坂さんが着目しているのは、クーンズのステンレス素材の選択。ステンレス彫刻はそれまでの美術史には無かったと。硬く加工が難しい。そして、美術家が一人ではできないし、資本とそれ相応の時間がかかる。彦坂さんが語る「兵器」の喩えは、既に90年代から日本でもされていたのです。「クーンズのラビット彫刻は、ステルス爆撃機」という比喩。」

【ジェフ・クーンズの分析】言語判定法・入門基講座
https://www.youtube.com/watch?v=jZUcKZTzj0o

「アメリカのアーティストは、歴史に残ると思われるものは、クーンズほど社会的派手な位置にある作家に限らず、堅牢な素材を選択している。例えばロバート・モリスの晩年(カーボンファイバー彫刻)もそうだし。マイク・ケリーも、後半は耐久性のない布等の使用はやめている。」

「それと、前回対談で語ったメディアアーティスト・八谷和彦作品の「実体性」の特徴、これら上記のアメリカのアーティストは、対して「非実体性」。これは「芸術」の条件であり、日本にはこの「非実体性」を備えたアートが、いったいどの範囲であるのか?ということ。」

「村上隆作品は、八谷和彦と同様、実体的。彦坂さんも私の見てきた経験では怪しい。」

「クーンズは一番特徴的ですが、作品に対する自己が、「遠隔操作」的。対象としての作品が、自己から遠いんですね。密着していない。そうでなければレオナルド・ダ・ヴィンチなどの伝統的・正統な「空間」やヴァルールの問題を取り扱えない、ということが基本的にある。」

「それができないので、日本人は、色々とごまかしをして(集団的)自己フォローをする。「現代」という名を冠すれば、伝統や抑圧の問題から逃れられるという態度を、上記(以外にも多々)アメリカの作家はとっていない。」

「スラヴォイ・ジジェクが語るような、アメリカはヨーロッパの伝統から切れていると(自分たちがオリジナルだと)錯誤しているというのは、それこそ表層的な誤解なんですね。少なくともアートを見れば。」

O「加藤さん、こんにちは。ジェフ・クーンズがどういう存在なのかをいうのは、ある意味わかりやすく、彼こそがアート界の頂点、とまでは言いませんが、マイクケリー、モリス、エルズワースケリーと共に、20世紀後半における最大のアーティストであると思います。単純に知名度だけでいえば、後述した3人よりも上ですね。クーンズを真似ているといわれる村上隆と比較しても、クーンズには、「下品さ」がない。あの「メイド・イン・ヘブン」でさえも、「攻めてる」という肯定的な評価が多数という気がする。「下品」=「実体的」ということでしょうけれども。クーンズの作品の美しさについては、すぐには言語化できるものではないですけれど、個人的に何度か、クーンズの作品集を見たという経験からしか言えませんが、第一に、そこには伝統的「古典美」が息づいていると感じさせる。また、加藤さんがご提示したクーンズの傑出した「非実体性」「不可能性」「遠隔操作的」という表現と、(深い分部で)矛盾しないと思うのですが、凡百の現代アート作品と比べてもクーンズの作品は「濃さ」が感じられるのです。「無機的」とか「感情がない」とは全く思わない。」

K「エルズワース・ケリーもそうですね。」

「クーンズは、「無機的」とか「感情がない」ではない。そう感じます。あの自身の被写体になる時の笑顔等のポーズは、人を雇って演出をさせている。「人格」そのものは、ペラペラではない。」

O「あの「水槽でプカプカ浮かぶバスケットボール」、はとりわけ素晴らしい。並外れた美への探求。あれを見たデミハンハーストをノックアウトさせた。いそいでイギリスに戻って、パクった。例の牛と鮫の作品。」

K「完全にイギリスは、アメリカに対して、90年代以後だけ見ても負けていると思います。」

O「あの作品には「ファシズム」がある。ファシズムは、アメリカにいって、進化した。あれ以上強力な現代アートは、その後40年、出てません。村上隆がいくら真似をしてもファシズムにはならないのですよね。」

K「ファシズムとの関連で、必ずしも私自身はクーンズを見ておらず、リバタリアンとしての、また企業家としてのクーンズの印象が、まず第一に強い。」

O「ファシズムの本質は、ある種の誘導の技術ということになる。ハイエクの「従属への道」で示されたように。誘導される者は、そのことに気づかない。でも一方で、第一観では誰もが本能的に「それだ!」と分かる。そういう誘惑の技術ですね。例えば、トランプもそうだった。だからクーンズは、はるかに先にいたということでしょう。」

「加藤さんがクーンズのもう一つの顔、=「企業家」というのも、煎じ詰めれば、搾取する側の者、ということになりますよね。なお、支配のメカニズムを精緻化したのはヨーロッパな訳です。そのメカニズムはアメリカにわたって、究極の合理化を果たした。」

K「クーンズ=トランプでも良いと思いますが、ハイエク的な意味での社会主義=ファシズムではないと私は思います。」

O「そこは同意します。」

K「保守的な自由主義思想だと。」

O「社会主義というのは観念的ですが、アメリカニズムは合理的です。観念は、ない。」

K「クーンズは、自分が好きなことしかやっていない。」

O「ですので、クーンズはアメリカの人ですので、非観念的な、機械化の権化であるのですが、一方で、その元をたどると、ヨーロッパの支配の体系がある。その、距離感が素晴らしいと私は思っているのです。」

K「そうですね。「アートはキンキラキンであって当たり前」という。」

O「無邪気な怪物然としている。」

K「無邪気が、地でもあり、合理主義的でもあり。」

O「そう。そこですね。」

K「ステンレスに手を出す勇気というのも、その怪物性=無邪気性と関係があると思うし、同時にビジネスマンとしてしっかり実行する。」

O「しかも、うっとりする程、美しい。あの作品を前にすると、「美しい」という言語判定を、嫌でもするでしょう。どんな人間でも。」

K「イタリアのポルノ女優・チチョリーナに、いきなり電話をして、結婚までして、子供まで作るというのは、常人にはできない。」

O「やるとしたら、アメリカ人だけですね(笑)。」

K「車で走っていたら、広告看板にチチョリーナを見て、これだと思ったと。」

O「ほんと、アメリカ人。ウィリアムギャディスの小説に出てきそうな。その場でひらめいた「冗談」を、死んでも実行する、みたいな。」

K「一方で、合理主義的であくまで冷静だという。離婚後、子供の親権を争っていたというのは、常人の部分ですが。」

 O「だからクーンズは、非メトロポリタン的、非グローバリズム的な、「内向き」な、アメリカ人なんだけど、メタ的にみると圧倒的に先を進んでいる、というような。不思議な感興を呼び起こす人物ですね。」

K「不思議さがありますね。」

O「二重性。」

K「そうですね。」

O「アメリカを象徴している。アメリカほど、世界的な拡大路線をたどった国はない。一方で、アメリカほど、非介入、非干渉を謳った国もない。」

K「「自由」と「干渉」の国。それをクーンズは如実に表しているかもしれない。日本人は「干渉」されたくない。」

O「一方でクーンズから、逃れられない。」

K「そういうことですね。支配されている。」

O「最初に「ファシズム」といったのは、そういう意味でした。」

K「なるほど。それに対して、日本の独自性を謳っても(彦坂さんがいうように、戦艦大和の独自の価値を主張しても)、沈められると。」

O「彦坂さんはクーンズへのコンプレックスがすごい垣間見えますよね。もはや、そこを出発点にしているとさえ。」

K「そうですね、最大の対象だと思います。「クーンズに乗りたい」=「アメリカの空母に乗りたい」。」

O「あとクーンズには、「笑い」があります。あれはなんだろう? 村上隆や彦坂氏には、ない。「笑い」は。ムズムズっとする。クーンズの作品集を眺めてると。会田誠も、狙いすぎて笑えない。」

K「「空間」を支配している笑いかな。」

O「素晴らしすぎて、途方もなくて、笑ってしまうという。だから、とてつもない天才だとは、いつも思う。負かされてしまう。」

https://www.independent.ie/entertainment/theatre-arts/bfef9/30488209.ece/AUTOCROP/w620/2014-08-10_ent_2028248_I1.JPG

K「一過性の“フーリッシュ”なものを、硬質の素材で永久的な地位に持ってくる。」

O「ここまでの次元でやれるやつって、いるのか?と。ほかに。」

K「彦坂さんがいう「下層」のものを「上層」へ。」

O「原理を言葉にするのは、簡単なんですけど、問題は実現できるマニファクチャーの有無ですね。村上隆がそうですけど、けっしてマニファクチヤーの質では負けてない気がするんですけど、出てくるものに「笑い」は、ない。同じく「下層」を「上層」にしている方法論のはずですけど。」

K「そうですね。彦坂図式だと、村上も相当するが、全く別文脈になる。」

O「クーンズの作品には、あらゆる意味において、「独特さ」が横溢しています。しかも、その制作プロセスはきわめて独自、緻密であると感じさせる。言い換えれば「発明的」でもある。対して、村上隆は「ライン」が見え透いてる。」

「クーンズの発明品を目にして、まずその点に、痺れてしまう。そして途方もなくなって、「笑って」しまう。」

K「やはり「実体」か「非実体」か。後者は、優越者だけが取りうる体制。村上は、「コンセプト」が結構先ですから。露骨なんですよね、口にする表現が。「欧米の金持ちの変態の馬鹿息子を騙して、世界にのし上がる。日本のオタクを商材として」というような。」

O「お江戸、なんですよ。お江戸の町人。村上隆。」

K「クーンズは、そういうことは言いませんね。あくまでも、ハイカルチャーに座している。」

O「YOUTUBEの長時間のインタビューを見たことがある。一貫して「抽象的」ですね。自分のこれまでの活動の総括とか、アートの意義とか、自分はこれこれをシェアしたい!と。企業家の鑑みたいな。「お喋り」の次元ではない。」

K「自分の仕事場を、無料で見学できるコースを設定していると、以前、同様に動画で。」

O「普通にいって、あそこまでレベルの高いアーティストいないでしょう。人物からして傑出している。」

K「基本スタンダードに、従っているという印象。」

O「ウォール街で営業して、あっという間にトップ営業になったとも。」

K「そうですね、最初営業から。セールスマンのような。」

O「だから、会田誠のいう「アーティスト」というのがいかに虚偽なのかと。駄目なヤツが最高、みたいな。」

K「そうですね。左翼思想。「うんこも、金塊も平等だ。同等だ」という。」

O「「衒い」もない。クーンズには。自然体。」

K「居心地がいいのかアートに居座って、「みんな違ってみんないい」の広告看板みたいな存在になってしまった(=会田)。私は良くないと思います。」

O「内面的必然性が皆無ですもんね。「挑戦」がない。「仲間」はあるが。」

K「心地よく生きるためだけに、「芸術」を度外視してその領域にへばりついている。しかし、本音は彦坂さんも同等でしょう。」

O「とかく、大胆なふるまいがないですよね。彦坂さんも会田さんも。終始、普通。ネット上では。普通の人。本気度ってそういうことでしょう?」

K「「普通の人」。日本の美術業界人が、名指されて一番嫌がる言葉(そして、自らの発達障害等を特殊性として自己文脈化し、「売り」にする)。」

O「クーンズって一時期何十億って借金して、メイドインヘブンもつくって、離婚して、酷い目に遭って、、、全然、普通の人じゃないですからね。」

K「子供も一時誘拐されていますからね。」

O「狂ってるのに、話すと、隅々まで論理的で、冷静で、聡明で。」

K「これを、とりあえず二十世紀後半以後の、アーティストの鑑というしか。」

O「「クーンズ(米軍)対 他国」という図式をまるごと受け止めると、我々、「非アメリカ」は全滅するしかないでしょう。」

K「そういえば、クーンズのラビット彫刻が、少し前にオークションで約100億円と聞いて、F35戦闘機一機分の値段だと、私は比較した記憶が。」

O「そのような話を聞くと、私も(ほかの人と同様に)、コンプレックスを感じますね。日本人だけじゃないかもしれないが、真剣に表現をすると、「エディプスの悲惨さ」みたいなものに回帰していく。」

K「一つの作品を作るために、かなりな時間とお金をかけている。」

O「だから、クーンズの抑圧というのは、本質は、そういうものかもしれないと思う。」

K「そこまで大胆な、企業家の鑑のような作家は、他になかなかいない。」

「歴史にも、見つけようがないかもしれない。ダ・ヴィンチは没後も随分長く無名だったようだが、「有名」と名を冠するには、クーンズほどふさわしい美術家はいない。」

O「たとえば、パーソナルな作風の画家はみんな、クーンズには対抗できないでしょう。梅津庸一とか。」

K「クーンズの大胆さは歴史からさえも逸脱している。」

O「大胆さ、ですね。」

K「精神の大きさが。もちろん、一方でアメリカの「ポップ」や「ミニマル」の前提がなければ、生まれてこないようなものだが。」

O「そこを打ち破ってほしい。加藤さんに。たぶん、本質は、エディプスコンプレックスでしかないのだから。」

K「がーー。本当に。精神分析的にも。」

O「無理なわけは、ない。」

K「美術家は、まず「資本」にたじろいではいけないですね。クーンズが切り開いた以後は。チマチマしていてはいけないというか。」

O「ですね。あと利権とか、著作権とか、赤瀬川じゃないですが。」

K「クーンズは、「作品が高く売れるようになると、それに従い美術館の扱いもコストをかけてくれるようになる」と、全く逡巡もない。」

O「太い。アメリカが。」

K「日本は、全共闘以来の国内向けの「闘争」にエネルギー等を無駄に使ってきた。倒すべきは、(今日では)クーンズだとはっきりしているのに。」

「クーンズの合理性と大胆さは、資本の調達力を背景として圧倒的だが、弱点は、その作品形態上、本当にはクリエイティブじゃないところ。」

O「(国内⇒)その消耗の核心は「いじめ文化」ですよ。」

「適性な評価が望むべくもない。真にクリエイティブな者に対しては、ただ隠語をつかって苛める。あるいは、「あいつ意味わかんない」とか腐して、干上がるのを待つ。」

K「(クーンズは)発想が、チープなものを難加工の高級素材でという、そのパターンなので、本当は、内心それ以上進むには行き詰まりを感じているはず。」

O「だからネットで勝負をするのでいいと思う。現実世界にいる、つまらない日本人は唯々邪魔なので。邪魔な奴はガン無視。」

「加藤さんを「翻訳」をする人間が必要です。」

K「クーンズが(足を使った)セールスマンから始まったのと、時代が違いますもんね。」

O「そうですね。時代が違っていて戦い方も違う。というか、ネットだと事情が変わって、まだ誰も分かってない。本質的には。」

K「「まだ誰もわかっていない」という所が、フロンティアの領域になりうるということですね。」

O「驚くほど、誰も理解してないのが、ネットです。少なくとも、今の「ネット有名人」は、実験用マウスみたいなもので、100年後は、誰も残ってないでしょう。」

K「まだ過渡期だと。その割には皆、既に疲弊しているようにも見える。ネット。」

O「「芸」がないでしょう?「スイミー」になってるだけで。」

K「クーンズを超えるには。」

O「それに、加藤さんの作品にも「笑い」があるんですよ。(これ、今まで言う機会がなかったのですが。)」

「ネットのアートとか(11億とかで落札したピクセルの絵画)、超絶に「不完全」ですし。まだ未踏の大地ですよ。ネットは。」

https://beatandone.com/wp-content/uploads/2021/10/crypton_1.png

「私には加藤さんの作品が、ネットユーザーを圧倒するヴィジョンは、見えますけどね。鮮明に。」

K「前に、美術に大事な「敬虔さ」とオマル マンさんが言ったけど、上記アメリカの作家にはあるんですよね、美術の伝統に対する。」

O「ありますね!」

K「そこを見えなくて、勘違いしていると、本当に沈められるので。」

O「アグネスマーティンも、すごい敬虔さありますね。」

K「その厚みがあるんですよ、アグネス・マーティンもそうですが。アメリカには。」

「ジジェクがヨーロッパのホテルは、フロアーが0階から始まるが、アメリカは地階が1階だと。伝統の上に自分たちが立っている自覚が無いと。それは、私は違うと。」

O「すごい的確な喩え。」

K「結構、多くの日本人が、ジジェク的なアメリカを見ていると、危ないと私は(少なくとも美術においては)。」

O「文学でもコンピューターでも、まさにその感じ。」

「古典という観点からみると、じつは見た目のものものしさほどは、進歩もない。古典が重要なのに、みんな、見てない。「新しい」だけを見てしまう。」

K「そうですね。古典こそ、ハイエクがいう「交易」に重要な「機密情報」ではないか。上記作家たちは、決して口にはしない。」

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