【瑞木瑠衣SS-9】 日常との決別
修学旅行が終わった。
それは即ち、旅行という非日常から日常へと戻ることを意味する。
オレはいつものように屋上で筆をとる。
スカイツリーに浅草寺、ディズニーのパレードにシンデレラ城。
鮮明に、詳細に思い出される光景を1枚1枚紙に描いていく。
記憶を整理するように。
考えなくてはいけないことから目を逸らすように。
しかし、考えないようにとすればするほど考え込んでしまうのは仕方の無いことだろう。
筆を走らせる手をぴたりと止めて視線を落とす。
「それ、修学旅行の時のかい?」
白石がタオルで汗を拭いながらオレの隣に腰掛ける。
今日もいつものようにしばらく練習していたから疲れているだろうに、ひとつも疲れた顔を見せないのは彼女の言う演者としての振る舞いというものなのだろうか。
オレが頷くのを見て白石は興味深そうにまじまじとスケッチブックの中を覗き込む。
「ふむ……さすが瑠衣くんだね!この細部の書き込みなんて特に凄いね!」
白石はすごいすごいとオレの描いた絵を1枚1枚見ながら賞賛してくれる。
「おう、サンキュ」
少しむず痒くて、オレは曖昧に笑う。
白石はふふと笑い、すっと少し真剣な表情をした。
「僕の気の所為じゃ無ければ、何か悩み事があるのだろう?」
どうなんだい?と顔をじっと見つめられる。
ああ、白石はいつもオレのそういうところを見抜いてくる。
「……白石には敵わないな」
「ふふ!君のこと、よく見ているからね?」
悪戯っぽく笑う白石にオレもつられて少し笑う。
それで、どうなんだい?と貫く視線に耐えれなくて、オレは逸らすように手元のスケッチブックに目を落としながら口を開いた。
「……オレ、さ」
白石はオレが話し始めると口を噤んで頷く。
「母さんに話そうと思うんだ」
「東京に行こうと思ってること」
「正直、なんて思われるか怖くて仕方がねぇけど……」
話しながら少し手が震える。
これは母さんの言う普通とは掛け離れた選択だ。
決めたことに後悔はもうない。
けれども、それがどう思われるか。
想像するだけで息が詰まりそうになる。
もっと嫌われてしまうだろうか、失望されてしまうだろうか。
決意が揺らいでしまいそうなくらい、オレにはそれが恐ろしくて仕方がない。
「瑠衣くん……」
顔を少し上げると少し心配げな白石と目線が合う。
「なぁ、白石」
「気持ち悪いって思うかもしれねぇんだけど……
俺の手、握ってくれねぇか」
口に出してから何を馬鹿なことを言っているんだと思い、かぶりを振る。
「いや、そんなの嫌だよな、ごめん忘れてくれ」
白石は何も言わずにオレの前に来てしゃがむ。
そして、両の手で包み込むようにオレの手を握った。
「白石」
「大丈夫、大丈夫だよ」
ふわりと、白石は柔らかく微笑む。
「きっと上手くいく」
「僕は君の味方だよ」
白石の手から温かな熱が伝わってくる。
「……ありがとう」
「オレ、行ってくる」
白石は包んだ手にぎゅっと力を入れてうん、と頷く。
いつの間にか、手の震えは収まっていた。
───────
「ただいま」
ドアを開けて玄関で声を掛ける。
いつものように返事が返ってくることはない。
部屋への道を歩く。
キッチンと廊下を隔てた扉の向こうからはカチャカチャと音が聞こえる。
いつもはそのまま自室へと向かうところだけれども、今日はその扉の前でぴたりと足を止める。
深く、深呼吸をする。
オレはドアノブに手を掛けた。
ドアの先、キッチンでは母さんが皿を洗い終わったのか、手を拭いてくるりと振り返ったところだった。
図らずとも、向き合った形になる。
母さんは少し目を開いて「おかえりなさい」と言うとそのままどこかへ行こうとする。
「待っ……て!」
震える声を上げる。
母さんはぴたりと止まりこちらを向く。
顔をこうして合わせるのはいつぶりだろう。
ちゃんと顔を見るのが怖い。
オレは白石の熱を確かめるように、ぎゅっと自らの手を握りしめてしっかりと前を向く。
「話したいことが、あるんだ」
「何かしら」
感情の上手く読み取れない表情で問われる。
今すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを堪えて、オレは言葉を発する。
「オレ、学校やめて東京に行こうと思うんだ」
「巨匠の我龍院先生に声をかけてもらって、自分の元で絵を描かないかって、言われたんだ」
言い切って、母さんの言葉を待つ。
その時間がまるで永遠かのように錯覚する。
怖い、怖くて仕方がない。
その時、ふわりと母さんの身体がオレを包み込む。
オレは何が起こったのか分からず言葉を詰まらせる。
「ごめんなさい、きっとその選択をするまで沢山悩んだでしょう?」
「私、貴方の大変な時に親として何も出来なかった」
「母……さん」
「私は貴方に普通の幸せを手に入れて欲しかった。
でもきっと、そういう普通を押し付けることが貴方の負担になっていたのね」
怒られると、失望されると思っていた声色は、想像よりずっともっと優しい。
母さんはオレを抱きしめたまま、言葉を続ける。
「ずっと、ちゃんと向き合わないといけないと思っていたのに、逃げてしまっていたの」
「普通であるのが幸せだと思っていた。
けれども、それがあなたの事を否定してしまっていた」
「私はただ、貴方が元気に生きてくれたらそれでいいの」
母さんはオレから離れ、辛そうな顔をする。
「……なのに、貴方とどう話せばいいのか、分からなかった。何も声をかけてあげられなかった」
「お母さん、親らしいこと何もしてあげられなくてごめんね」
母さんの瞳に映るのは後悔の色。
違う、オレはそんな顔をさせたい訳じゃない。
声を出そうとする。思っていたよりもすんなり出てこない。
オレは掠れた声を絞り出す。
「そんなこと、思わなくていい、」
「オレは、母さんのことが好きだよ 母さんがオレのこと愛してなかったとしても」
「瑠衣……」
「オレも、母さんと話すの、逃げてた」
「嫌われてるって、そう思ってたから、」
震える声をひとつずつ連ねる。
母さんはまたオレに近づき、先程よりも強くオレのことを抱き締める。
「私たち、もっとこうして早く話せば良かった」
「ねぇ、瑠衣。貴方は好きなように生きていい。
普通なんてものに縛られなくたっていい」
その言葉に、自らが呪縛から解き放たれるような心地になる。
「私も、貴方のことを愛しているわ」
母さんの言葉にぽろりと涙が零れる。
一度出た涙は止まることなく、ぽろぽろ、ぽろぽろと溢れて止まらない。
みっともなく、声を上げて泣く。
母さんはただ、オレの背中を優しくさすってくれた。
───ひとしきり涙を流した後。
久しぶりに机で向かい合って、母さんお手製のクレームブリュレを食べる。
ひとさじ掬って口に入れたクレームブリュレはいつもより甘くて、少ししょっぱかった。
───────
「良かった、瑠衣くんならちゃんと話せると信じていたよ」
後日、オレは白石に事の顛末を報告した。
あの時、あの屋上から飛び降りてから壊れたと思っていたものは壊れていなかったと。
オレも、母さんも不器用なだけだったんだと。
白石はオレの話を聞きながら、まるで自らのことかのように嬉しそうにうんうんと頷いてくれている。
「これがさ、幸せってやつなのかもな」
オレの発した言葉に白石はぴたりと止まる。
そして真剣な表情をして、オレの手を強く握った。
「ねぇ、瑠衣くん」
「お、おう」
不意に握られた手にびくりとする。
白石は真剣な表情のまま言葉を続ける。
「何度でも僕は言うよ」
「君は生きていていい人間だ、生きていなくちゃいけない人間だ」
「幸せになるべき人間だ」
「この幸せは現実だ、君が向き合って、掴み取ったものだ」
「だからさ、否定したりなんてしないでおくれよ」
「……僕は君にいなくなってなんか欲しくないのだから」
これは、心配だ。
きっと、白石はあの迷宮でのことを言っているのだろう。
得られないはずの幸福を教授したあまりに、耐えられなくなったオレのことを慮っているのだろう。
「ああ、オレ、白石に心配かけてばっかりだな」
白石は首を横に振る。
「僕が勝手に心配しているだけだ、君が気に病むことじゃない」
白石はいつも真っ直ぐに気持ちを向けてくれる。
演技で本心が分からないと周囲から言われる白石だけど、真っ直ぐで思慮深いやつなんだ。
「白石は優しいな」
オレは白石の手を離す。
そして白石のことを見つめ、言葉を紡ぐ。
「オレさ、誰にも迷惑掛けたくないと思ってた」
「話すのだって全部、迷惑になると思ってた」
「最初さ、頼って欲しいって言われた時だってその心配に応えたいだけで全部言うつもりなんて無かったんだ」
白石はオレをじっと見つめる。
視線が交差する。
いつもならふいと逸らしてしまう目線を、外すことなく白石の目を見る。
「白石はするりとオレの心に入ってくるみたいにさ、まるでとけていくように、そこにいるのが当たり前みたいにいてくれたんだ」
そんな白石だから、オレは知らないうちに白石に自分の色んな所をさらけ出してしまったのだろう。
いつの間にか、大きすぎる存在になっていたんだ。
「すきだよ、白石」
ふいに口をついて言葉がこぼれる。
ふにゃりと、微笑みながら白石を見る。
目前には初めてみたような、白石の仮面が取れたような顔。
言葉にして初めて、すとんと感情が腑に落ちる。
ああ、オレは白石が好きだったんだな。
何かを言おうとする白石を手で制し、オレは立ち上がる。
返事はいらない、きっとここからいなくなったらオレはもう白石の人生に関わることなどないのだから。
ありがとう、オレと出会ってくれて、オレと話してくれて。
オレのこと考えて、傍にいてくれて。
もうきっと、オレは大丈夫だから。
背を向いて手を振り、屋上の扉から階下へ降りる。
ああ、オレは白石が好きだ。
好きだからこそ、オレなんかのために人生を消費させる訳にはいかない。
オレは階段を駆け下りる。
背後から白石の声が聞こえるのを聞かないフリをしながら。
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