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やさしい世界


あの街の光と音
大人の声
懐かしい匂いと
ゆっくり流れる時間

大通りに面したビルに幼い頃私は住んでいた。
一階で父が美容室を営んでおり、2階が住居、3階に管理人のおばあちゃんおじいちゃんがいた。

最近どうも、そこで暮らした記憶が恋しい。

小学校が近くにあったから、
チャイムの音が聞こえた。
お母さんは決まって家を綺麗にした後は、
家中の窓を開けて換気をした。
おひさまの匂いが部屋に入ってくるようで、あの時間がとても好きだった。

お母さんに怒られると、3階のおばあちゃんの家に
逃げ込んだ。
おばあちゃんの家には決まって塩昆布が置いてあって、それをつまむのが大好きだった。

屋上にはおばあちゃんが大切に育てた花が
たくさんあって、それを摘んでは絵に描いた。

大切に育てた花を摘まれても、おばあちゃんは
何一つ嫌な顔はしなかった。
にこにこしながら見ていた。

おじいちゃんは物静かな人だった。
だけど、私がケーキについてきたちっちゃな造花を
花束にしてプレゼントすると、
嬉しそうに笑って、書斎のおじいちゃんの机のすぐ隣の壁に貼っていてくれた。

お父さんは仕事がうまくいかないと家で茶碗を
割ったりした。
お母さんはだまって茶碗のかけらを拾っていた。
私はよちよち歩きの弟を、とりあえずダンボールをかぶせて隠しておいた。

そんな父も、
「普通のお父さんじゃなくてごめんね」
と、他の大人のいないところで、
ぽろりと私に言葉をこぼしたりしていた。

家族4人で暮らすには明らかに狭かったであろう
あのワンルームが、とてつもなく恋しい。

何にも変えられないあたたかさが、
確かにそこにはあった。

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