幸せの受け止め方
めちゃめちゃ嬉しいことがあったり、楽しいなにかがあったときに反動で落ち込んだりするケースがそこそこあるっぽい。そしてそれはそこそこ再現性のある現象だったりする、んじゃあどうしたらいいのよ、みたいな話。
ダブルバインド
心理学(のなかでも結構臨床よりというかカウンセリングよりの文脈)の有名な理論で「ダブルバインド」というものがあります。ざっくりいうと矛盾したメッセージを同時に与えられたときのストレス状態とか混乱状態を言います。仕事やバイトで上司に「いつでも質問してね」と言われたのにいざ声をかけたら「忙しいからあとにして」と言われたときのあの心がモチャつく感じですね。
この状態は「認知的不協和」なんて呼んだりもします(厳密にはちょっと違うけどここでは同義としたい)。んで、認知的不協和が発生すると人は「認知している事実を無理やり捻じ曲げることでストレスから逃避」します。イソップ童話の「すっぱい葡萄」のキツネの例が有名ですね。木の上の葡萄がどうしても欲しいがそれに手が届かないキツネが「あの葡萄はすっぱいに違いない、食べる価値のないものだ」と言い残したアレですね。負け惜しみのことだ、と思ってもらってもでもいいと思います。
ちょっと前に書いた内容でいうと親から「愛している」「大切だ」というメッセージが与えられるのに実際には暴力だったりネグレクトを受けると強いダブルバインド状態にかかり、アダルトチルドレンが誕生するってやつですね。次に繋がる話でもうちょっというと「外傷性の絆」なんていうように呼ばれる現象もあります。家庭内で受けたトラウマ的行為の被害者(ここでいうと子)が加害者(親)へ強い結びつきを感じて離れられなくなってしまう現象です。トラウマ・ボンドとかとも言います。
ストックホルム症候群
似たような話で「ストックホルム症候群」というものがあります。これは誘拐や強盗の人質が犯人に愛情を抱いてしまう、なんともアレな現象です。要は生命の危機にも近い強烈なストレス体験は、生存本能としての愛着を引き起こすってことですね。
外傷性の自己愛が存在するのならば
ここからはわりと自分の見解というか、タイトルの伏線回収というか。人間は絶えず自己と無意識的に会話をしている(思考でも良い)ものです。なんらかの原因があって、自己肯定感が低いとするとそれは自己で自己を否定したり場合によっては攻撃するような行為だったりもします。
ここに先程の「外傷性の絆」のロジックをあてはめると
・自己肯定感が低い自身が内発的に発信する自己否定的なメッセージがある
・同一人物ながらに自己否定的なメッセージを発する自分に愛着を持ってしまう
・そんな自分が「幸福」な場面に遭遇すると「愛着を持っている自己否定的な自分」と矛盾が発生する(ダブルバインド)
・ダブルバインドの解消のために「自分が幸福になるなんてありえない、不幸な人生を歩むべきなんだから。こんなのただの偶然で喜んではいけない」と思考するようになります(すっぱい葡萄)
この一連の悲しい認知のズレを「外傷性の自己愛」と呼べそうな気がしています。
んで、これの解決策は実は簡単で
・めちゃくちゃ葡萄が欲しい自分がいることを認識する
・偶然でもなんでも、葡萄が手に入ったなら手に入った事実を認識する
・その味を美味しいと感じたなら、美味しいと素直に喜ぶ
だけなんですよね。何も特別なことではない。
でもそこにひねくれた自分だったり自己肯定感の低い自分がいると、たったこれだけのプロセスがねじれてしまうのが不思議なもんです。私は仕事の成績が良くて臨時ボーナスが出たりしたときに「当たり前のことをしただけで実力じゃない…」とどうしょうもなく自己肯定感が下がりました。意味がわからん。自分くらい自分でほめてやれよ、って話。
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