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There will be da Music.

 結局のところ、前者の「リアル」についてのヒップホップのパフォーマンス――「妥協なんてしない」(というメッセージ)――それこそが、まさに後者の「リアル」に、つまり、そういった真正性の感覚さえもが高い市場性を持つことが明らかな後期資本主義経済の経済的不安定さというリアリティに、容易に回収されることになってしまった。ギャングスタ・ラップとは、その支持者がしばしば主張するように、既存の社会状況を単に反映したものでもなければ、その批判者が主張するように、そうした状況をただ引き起こすものでもない。ヒップホップと後期資本主義の社会的フィールドが互いに浸透し合う回路はむしろ、資本主義リアリズムがアンチ・神話的な神話と化すところと通底している。
――『資本主義リアリズム』マーク・フィッシャー

 帰ってくる。誰が? ノリアキが。

 映像ディレクター古屋雄作氏のTwitterで、2020年12月24日21時頃からノリアキの生配信ライブがオンライン開催されるという報せがあった。「コロナと戦う全人類のために歌います」というノリアキのコメントともに。2009年に休止してから、実に11年ぶりの復活となる。キッズたちは咆哮とともに泣き濡れたと思う。おれも泣いた。

 ノリアキの、アンビバレントな魅力については既に多くの場所で様々な人が語っている。うまくいくかは分からないが、ここではできるだけ簡潔に済ませようと思う。

 それはまず、元引きこもりという経歴で痩せたオタク的な容貌のノリアキが、自分こそがリアルなミュージシャンで、自分以外(たとえばEminem、Zeebra)はフェイクだと宣言してギャングスタ・ラップ的な身振りをすることそのものが、従来の同種のヒップホップに対する包括的な揶揄であること。

 さらに、そう宣言するノリアキ自身は、そもそも一切ミュージシャンになりたかったわけでもなく、演出陣(古屋雄作氏+水野敬也氏)によって作られたキャラクター、すなわちフェイクであるという転倒。作詞もほとんどが古屋氏の手になるもので、つまり上記のDisもノリアキは「言わされ」ている。そういった身振りのすべてが「やらせ」であることを全員が了解した上で、そのノリアキをカリスマミュージシャンとして扱う倒錯。

 そして、あるいはしかし、これが最も大事なのだが、両氏にミュージシャンになれと指示されたノリアキが二人に失望されまいと必死に作った音楽は、テクニック的には未熟であるものの、人の心を打つ本当に素晴らしいものになってしまったということ。ノリアキは偶然にも天才だった。つまりリアルを名乗り、しかし存在としてはフェイクであるノリアキが作った音楽が、さらにフェイクを飛び越えた本当にリアルなものだったということだ。

 結果として、ノリアキは作られたカリスマでありながら、期せずして本当のカリスマになってしまった。ノリアキは、かっこよくないことによって誰よりもかっこよく、リアルでないことによって誰よりもリアルなのだ。この複合的な二重性が絶えず受け手を幻惑しながら捉えて放さない。

 ノリアキの音源は、他に僅かにシングルやB面曲があるものの、実質アルバム『This is da Music.』1枚だ。これだけを置いて、ノリアキはプログラマーになりたいと言い残し、生まれ育った風の街、山形に帰っていった。表向きは押尾学の逮捕にショックを受けたからとしていたが、それはもちろん残された者にはあまりに虚しく意味のない冗談だ。

 たった1枚。だが、その雄弁さと射程とを見れば、それだけで充分すぎるほどだった。ほんの数日前まで、キッズたちは自らにそう言い聞かせていた。そう、ノリアキが帰ってくることが分かった今となっては、彼を知る誰もがもう少し先を求めてしまっている。

 ノリアキについて知らないままここまで読んでくれたとんでもなく気の良い方は当然半信半疑だろうから、少し具体的な曲の話をしたい。キッズは全部ご存じかと思いますが、同じノリアキファンのよしみでちょっとお付き合いください。

 「だれかおれをすきになれ」はWeezer的パワーポップとシュールで切実な歌詞が光る随一の名曲だ。たった3分間。ポップソングは3分で終わらなければならない。わずか4小節の世界一短く美しいギターソロ。ここに無駄な時間は1秒たりとも存在しない。歌詞の分析はこちらに詳しい。

 ここでWeezerを、インタビューに「普通に人としゃべれないから、音楽でコミュニケートするしかないんだ」などと答えてしまうような男であるリヴァース・クオモを、ロック的ペルソナとしてノリアキに被らせた古屋氏の差配はあまりに正しい。そして、ここでのノリアキはリヴァースよりももう一段階悲愴だ。というのも、ノリアキにとって音楽はそもそも自分で選んだ言語でさえなかったからだ。

 「unstoppable」で「Eminem、Zeebraも全部フェイク」と断罪しながらもノリアキはフォローを忘れない。「father's day」で取り上げるのはZeebraが参加したdragon ashの「grateful days」だ。

 Zeebraのリリックを下敷きにして(また「開き直ってんじゃねえよ」という舌打ちと苦笑いを言外に飲み込んで)、ノリアキは「俺は山形生まれファミ通育ち、コントローラ奪い合ってばっかの毎日」とアジる。リアルとは何か? 自分をむやみに大きく見せたり、取り繕ったりしないことだ。

 とはいえ、一方でこれはスマパンが好きだと公言している古屋氏が、その代表曲「Today」をサンプリングした曲をさらにパロディの対象とすることでいじっているとも取れる。この背反性こそがノリアキです。

 「デビュー」の一節がこれまで長い間、キッズたちにとってノリアキの不在を慰めるよすがだった。

「しばらくの間会えなくなるね さみしくないと言えば嘘になるけど きっと違う形で会えるから 新しい君の輝きをうたうよ」

 それはノリアキがかつて歌ってくれたことだったが、ノリアキが去ってからはキッズが不在のノリアキへと歌うことへと変わった。ノリアキにとっての新しいリアルが僕たちの前から去り、プログラマーとして生きることなのであれば、それを祝福するのがキッズの務めだと。

 「father's day」からの最後の3曲はノリアキが少しずつ「ノリアキ」というペルソナをも脱ぎ捨て、作られたキャラクターでない彼自身を見せてくれるに至るまでを辿る感動的な道のりだ。

 アルバムのラスト「the golden song」について僕に言えることはほとんどない。アルバムの最初のイントロと循環する構造と、「交差点のバス停の 消えかかったライトに伸ばす手を」という、さりげなくもこの世で最も美しい押韻とに僅かに触れることができるのみだ。あとはただこのコラールに身を埋めてほしい。

 ノリアキとは何なのか。もう少し冷静に書いてみる。一つの要素として、ノリアキはどうしようもなく贖いだということだ。我々の代わりに我々が浴び得た、あるいはかつて浴びた理不尽な外圧を受けて(ノリアキというプロジェクトにおいて、その外圧である古屋氏たちはほとんど見事なまでに後景に退いていた)、ノリアキは「ノリアキ」を「やらされ」、しかしそのことによって輝く。これはまさにキリスト的受難劇と言って良い。それはノリアキの偶発的な音楽的才能と古屋氏のあまりにクレバーな絵図に、現実的な厳しさを救済する(多くの場合ひどく困難な)作業を外注したファンタジーだった。

 そしてもう一つ、ノリアキは身近な(≒聴き手が身近だと錯覚できる)スターだということだ。それはたとえるなら、よりかつての世代にとっては野猿のことであっただろうし、今の10代にとってはVTuberのことだということだ。キッズにとってノリアキの歌はどれも、友達が作って聴かせてくれる歌なのだ。

 今回の発表に至るまでの古屋氏の配信のアーカイブを見直してみたところ、突然の復活劇には複合的な事情があるようだ。細かい部分は割愛するが、悪い話と良い話が一つずつ。悪い話は、ノリアキは今の生活がそれほど充実しているとは感じていないということ。良い話は、(もちろん分かっていたはずのこととはいえ)ノリアキにとって「ノリアキ」は決して忘れたい過去ではなかったと確認できたということだ。

 さて、来たるべき配信ライブが一体どのようなものになるのかは、まったく明かされておらず、さっぱり想像が付かない。また、ノリアキが「ノリアキ」として現れることの意味を、僕たちはこれまで以上によく知ってしまっている。ノリアキになることを強いられたノリアキと、ノリアキであることを自らの意思で引き受け直したノリアキ。その間には僅かではあるが、決定的な差異があるのかもしれない。

 まあしかしだ。結局それはどう転んでも悪くなりようがないとも思う。それはほとんど確信に近い。何しろ、少なくともそこにはノリアキがいる。そしてその上、そこにはノリアキが作った音楽があるからだ。

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