見出し画像

ノリアキ、夜の共犯者

 キリストは、信者の間に愛がある時には、いつも自分はそこにいると答えた。触れることのできる人としてではなく、人々の間の愛や連帯の絆として存在する。だから、「我に触れるな。愛の精神をもって他者に触れ、他者と関わりなさい」と。
 しかし、今日、新型コロナウイルスの感染拡大の只中で、まさに我々は皆、他者に触れるな、自らを隔離せよ、適切な身体的距離を維持せよ、という呼びかけの集中砲火を浴びている。これは、「我に触れるな」という命令に対して何を意味するのだろうか。両手を伸ばしても相手に届かない。お互いにアプローチできるのは、「内」からのみである。そして、その「内」に対する窓は我々の目である。
――スラヴォイ・ジジェク『パンデミック』

 あなたは彗星を見たか。ノリアキという彗星を。十数年ぶりに帰ってきた彼はひときわまばゆく輝き、瞬く間に去っていった。しかし、そして去りながらも、ノリアキはこれから髙橋典彬として僕たちのすぐそばにいる。

 いや本当に、見ましたか、ノリアキの11年ぶりのオンライン復活ライブ「Special X'mas Live "THE REAL TIME"」。これがもう、あまりにも感動的な素晴らしい時間だった。正直一週間が経った今もまだ夢うつつだ。まだ見ていなかったらとにかく見てほしい。

 ノリアキとは? というのは先日こちらに長々と書きました。

 さて、この度のノリアキの復活そのものはファンにとってまさに積年の、待望の出来事だったわけだが、実際のところ、アナウンスを知って心待ちにしていながらも、キッズたちは彼のライブについて、果たしてどのような期待をすれば良いのかわかっていなかった部分があると思う。というのも、確認できる彼のほぼ唯一のライブ映像は2006年早稲田祭での「unstoppable」だが、ここでノリアキは、アンコールということもあるにせよ、ほとんど痛ましいまでにへろへろなのだ。

 率直に言って、ライブの単純なクオリティという面では、ノリアキにそう多くを望んではいなかった。基本的に彼は音楽的な意味ではスタジオで(あるいは自室で、それとも編集された動画で)輝くミュージシャンで、いわばバーナード・サムナータイプなのだ。今回のライブのためにあらかじめ立てられたコンセプト、すなわち「コロナと戦う全人類のために歌います」というノリアキの気概と、早稲田祭に表れているような彼の「リアル」の一側面、つまり「たとえ情けなくともありのままであること」を認知の前にフィルターとして通し、そしてリユニオンの喜びとお祭り騒ぎの中で見れば、その時間は充分に楽しめるものになるはずだし、あるいはそういったものでも構わないという保険を、我々は心のどこかでかけていたと思う。

 いずれにせよ、不在の間に膨れ上がり、またあるいは我々がいつの間にかあまりに多くのものを仮託しすぎてしまったかもしれない「ノリアキ」という巨大なイメージを、少なくとも彼がたった一回のライブという形式で乗り越え、昇華させるのはなかなか難しいというのが大方の見方だったのではないだろうか。

 しかし、蓋を開けてみれば、ノリアキはそのあまりに高く上がりきったハードルを悠々と超えていった。ライブははっきり言ってとんでもないものだった。甦ったノリアキは、再び僕たちにファンタジーを見せてくれた。

 確かに兆候はあった。プロデューサーの古屋雄作氏のYouTubeチャンネルにアップされた2つの予告映像は本気度を伺わせるもの、そのライブをコンセプト面において古屋氏がしっかりとグリップしていることがわかるものであったし、新曲(新曲!)をやるという情報も出ていた。

 しかし、個人的には、これがただの一つの留保も必要としない本気のコンサートだと確信を持ったのは出囃子にアルバムのオープニングトラックである「Opening」が流れた時だった。それはちょうど2007年にLed Zeppelinが行った唯一会心の再結成コンサートがファーストの1曲目「Good Times Bad Times」から始まったのと似ていた。

 細かい話に入る前に、何をおいても言っておきたいことがある。この複雑に入り組んだ文脈の上で開催された奇跡的なライブのすべてを根底から支えていたのは、他でもなく、ノリアキの歌そのものだった。客観的事実として、この日のノリアキはこれまでで一番上手かった。1曲目「unstoppable」こそテンポが走って少々怪しかったものの(そう、今回明らかになったことだが、ノリアキはラッパーだというのが最も人口に膾炙したイメージにもかかわらず、実はラップが一番苦手なようだ)、2曲目「スカイフィッシュ」以降、彼は本当に完璧だった。彼は一番の不安だったスタミナ面を完全に克服していたし、自身の歌声の魅力が低音域にあることを自覚し、効果的に聴かせることに習熟していた(それはまるで、時を経て、ノリアキがノリアキという存在の魅力をより良く自覚し、この度そう振る舞ったのとまったく同じようにだ)。不在の10年以上のあいだ、まったく人前で歌っていなかったのにもかかわらず、信じがたいことに彼はいつの間にかライブシンガーとして完成していた。

 ルックスもまた良かった。僕たちの前に遂に現れたのは、少し精悍になり、少し歳を重ねて落ち着いた、しかし過ぎた年数を思えば信じられないほどそのままのノリアキだった。この日の彼は脳裏の思い出を同時再生することでどうにか鑑賞に耐えるような老いたロックシンガーではなかった。彼の姿は思い出に新たな血を通わせ、更新を迫るバイタリティと迫力に満ち満ちていた。

 この日、彼の歌声がスタジオテイクに勝るとも劣らないキャリアハイのもので、年数のギャップを綺麗に補完する出で立ちで現れ、その上、これが実は意外に難しかった部分なのではないかと思うのだが、そのステージ内においては決して「ノリアキ」というものを対象化しなかったことによって、彼が世に出した数々の名曲はそのままの形で約3万人の観客の心に届いた。一切の夾雑物が取り払われ、そこには彼の音楽だけがあった。「デビュー」、本当に素晴らしかったですね。僕はあの辺りからもうぐずぐずに涙ぐんでしまった。

 そして新曲「know real key」。まったく、ここにきてあの「the golden song」と双璧をなすような、ほとんど彼のベストを更新する歌が現れるだなんて、誰が予想しえただろう? これまでキッズたちはノリアキから一曲だけ最も優れた歌を選ぶという難問に接して、最終的に「だれかおれをすきになれ」、「デビュー」、「the golden song」の3つを並べてうんうん唸ってきたわけだが、この日幸運にも選択肢は4つに増えてしまった。しかし、20年代の「I Shall Be Released」と言っても差し支えないこの曲の話は一旦後に回そう。

 他者の指摘も既にあったが、本編最後の「だれかおれをすきになれ」の後、ノリアキがはけた無人のステージに同曲のトラックだけが響いていた光景が、極めて象徴的なものだったことに皆さんも気づかれたことと思う。バックにかつてのノリアキの肖像、アイドルとしてのノリアキが映し出され、トラックの中で「夢の中でも偽るだけだから」というコーラス(幻聴)、その一言だけがそこに流れた。そこに投影された不在の偶像と、「ノリアキが夢であることを、それを見ている誰もが知っている状況」、さらにそれを知りながら、夢の中で偽ることの中にリアルがあることを誰よりも知っているがゆえにこの日再びキッズたちの前に姿を現したノリアキ、そしてその退出。この日のすべてのピースはここに最も美しい形で凝縮していた。

 「用意していない」という言及が相当真実味を帯びていたアンコール1曲目「ジングルベル」をどう受け取るかは難しい。妥当な解釈としては、ノリアキは格闘家であり、セットリストは1秒前まで決まっていないと宣言した告知動画を裏付ける意図があったということ、あるいは「きみはポイズン」におけるあの印象深い一節「おれがこのメモ帳に書き留めたことだけが真実なんだ」、そう、確かに他の曲と違い、ジングルベルはノリアキのメモ帳には書き留められていなかっただろうということ、辺りだろうか。

 リアルを受け止めきれなかったYouTube回線の切断のためにノリアキが2回歌った「だれかおれをすきになれ」。おそらくほぼ初演ではないだろうか。みんなのとびきりのお気に入りの歌をノリアキが歌ってくれたということそのもの以上に印象深かったのは、ノリアキがこの歌を世に出してから初めてこの歌を広く聴かれる場で歌ったこのときまでに、皆がノリアキを大好きになっていたということだ。待ち望まれて歌った「だれかおれをすきになれ」。これは間違いなくささやかながら得難い一つの祈りの成就の瞬間だった。

 最後の歌を歌い終えたノリアキは、その場で自身のペルソナを脱ぎ捨て、それがペルソナであることを改めて説明し、ノリアキの演者であり作曲担当である髙橋典彬として、駆けつけた数万人のファンに感謝の意を伝えた。ホドロフスキー『ホーリー・マウンテン』のラストシーンを思わせるこの場面で、同じようにキッズたちに現実へと戻るよう促しながらも、しかしその意味合いはずいぶん違っていた。

 この還俗宣言はまたも二重の意味を帯びていた。ノリアキというものの終わりを告げたこのシーンで、同時にこれまで十数年にも渡り僕たちの前から姿を消していた典彬氏は発信の場を作り、キッズたちの中で暮らしていくと告げた。ノリアキがリアル(現実)に帰れと言うとき、しかしその現実とはこれから典彬氏が参与する場所なのだ。ノリアキとキッズたちが聖夜を分かち合ったこの時、リアルはノリアキそのものから、典彬氏を含めたキッズたちが分かち合うものへと変わった。これが長らく復活を待ち望んだファンたちへの最大の愛情表現でなくて一体何だというのだろう。「俺はお前とお前の仲間たちのファンだぜ」というかつてのテーゼがここで忠実に履行された。

 さて、古屋氏が明らかにしている通り、今回の一連の出来事は氏が「人を怒らせるシリーズ」などの周辺人物を自身のチャンネルに再登場させるに当たって、また、典彬氏がこれからインターネット上で自由に活動するに当たって、自身の当初の意図を超えた巨大な存在と化してしまった「ノリアキ」というペルソナの持ち主である典彬氏を現実世界へと馴染ませるための儀式だった。それはノリアキというものを毀損せずにしおおせられなくてはならないという点で極めて困難な作業だった。

 一見すると矛盾した出口を見据えて、古屋氏は卓越した構成力を振るい、自身に向けてさえ牙を剥く強大な「ノリアキ」という暴れ馬を再び乗りこなした。だがそれは果たして本当に矛盾した出口だったのか? そうではない。

 今回のライブのタイトルが明らかに対を為すように名付けられたDVD『ノリアキ 〜THE REAL FACE〜』を思い起こしてみよう。そこでノリアキは活動休止を示唆するような引っ張り方をして、最後に「NORI∀KI」への改名を発表する。これまでと変わらない、しかし何かが少しだけ変わった世界。あるいはアルバム『This is da Music.』で「ノリアキ」と髙橋典彬が交錯する終盤の3曲。「father’s day」では、髙橋典彬の歌にノリアキがラップを載せる。「ふたつの太陽」はノリアキが髙橋典彬を歌った歌で、「the golden song」はノリアキというペルソナを脱ぎ捨てた髙橋典彬の歌だ。ノリアキの作品ははじめから、ノリアキを通して、キッズたちが最後にそのペルソナを脱いだ”リアル”な髙橋典彬の魅力に触れるという構造を取っていた。出会いと別れ、似ているようで少し異なった現実。どちらの意味においても、今回のライブはノリアキというものをより明示的に再演し総括する仕組みを持っていた。

 熱心なファンは、ノリアキがすでにノリアキのペルソナを脱ぎ捨てる儀式を作品の中で済ませていることを知り、その総体として、ノリアキも典彬氏も同じく愛し、その上でノリアキの再演を待ち望むという極めて倒錯した状態に長らくあったのだが、世間は必ずしもそうではなかった。しかしある意味では、そうした世間の状況こそが今回の復活劇を生んだのだ。

 新曲、「know real key」はそうした状況すべてがノリアキの、典彬氏の、朴訥とした魅力的な声で歌い込まれた渾身の名曲だ。映像の中で穏やかな表情の典彬氏はかつてMVを撮影した場所を普段着で巡り、久しぶりに、といった様子でスカイフィッシュの腕の振りを試してみる。ノリアキはコロナ禍からいつか抜け出し、マスクを外すことができるという祈りに、脱いだつもりで脱げなかった巨大なペルソナを改めて自分の意思で脱ぐという願いを重ね合わせ、「いつか来るさ 誰もが仮面を取る朝が」と歌う。

 かつて僕たちは苦しい人生の、華やかでありながら身近でもある共犯者としてノリアキを求め、リアルの物語の共犯者としてノリアキもまた僕たちを求めた。この夜、ノリアキは自身がペルソナを脱ぎ捨てる動作に与するよう僕たちを誘った。

 それはたとえば、『狂気』が大ヒットしたピンク・フロイドが、のちの北米公演で遭遇した状況、スタジアムの中で爆竹を鳴らし、叫び回る観客、もはやコミュニケーションが取れない聴衆、自分の作品が自分でコントロールできないものになってしまう状況に接して、ロックスターの苦悩と観客との断絶、その対立構造をそのまま純化し文字通り演者と観客との間に壁を建造する演目『ザ・ウォール』としてライブ会場に持ち込んだようなこととはまったく違うやり方だった。

 そうして、ノリアキはキッズたちに「次はきみがBBQをやる番だ」と語りかけ、トングを手渡した。曲は最後、鳥のさえずりで終わる。この日、ノリアキにとっての長い夜が明けた。朝が来た。僕たちはそこに居合わせ、それに参与した。

 実際のところ、典彬氏らがこれだけの材料を用意して今後ノリアキを復活させる予定はないと言っても、僕はまだまったく期待を捨てきれていない。押しつぶす重荷を取り払い、今回典彬氏にとってノリアキというものが以前よりも自由に着脱可能なものになったならば、またそれを被ることだって、以前よりも自由にできるんじゃないかと正直思っている。それが被り物であることは彼がリアルであることを一切毀損しない、むしろそれが被り物であるからこそよりリアルであるのだということなんて、つまり、誰がリアルで、誰がフェイクかなんて、僕たちはもうとっくにわかっている。

 なにしろこの日僕たちは、彼の素晴らしい歌声、素晴らしい作曲が何一つ錆び付いてはおらず、むしろそれが以前にも増していることを知ってしまった。そう、そこに音楽だけがあったからこそ、ノリアキが作り手の意図をも超えてリアルであることが今回、むしろ改めて示されてしまったのだ。まあしかしこれだけ長い間待てたのだ。何も急ぎはしまい。明日の軍配はまだわからない。

 さて、果てしなく長い巡礼路を辿って、僕たちはリアルへと帰ってきた。これまでと同じように見えて少しだけ違う、典彬氏のいるリアルだ。耳を澄ませてほしい。鳥のさえずりが聴こえる。ノリアキの歌声が聴こえてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?