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カールの思ひ出。

カールおじさんのキャラクターで有名な明治のスナック菓子、カールがこの夏、中部地方以西を除いて販売終了するんだそうである。マジか

しかも残る定番フレーバーは、うす味とチーズなんだそうである。マジか。わたしが幼少期から愛してやまなかったカレー味は残らない、というのである。

メロスは激怒した。

というレベルでショックだ。

ねぇねぇ、大阪に遊びに行くときぐらいしかカール買えなくなるっていうの!?…最近時々しか出さなくなってたからカレー味の支持少ないのは知ってたけど…クソ、うす味なんかカールじゃねぇよ!カールといえばチーズとカレーでしょ!?(←半狂乱で机をバンバン叩きながら)

(↑今朝の私です。)

少し落ち着いて涙を拭きながら、思い出すのは亡くなった祖母との夏休みの記憶だ。

そもそも、うちはスナック菓子というものをあんまり頻繁には食べさせてもらえない家庭だった。

親が健康オタクだったわけではないのだが、祖母が現役時代に大学の先生だったことなんかも手伝って、家にはお中元やお歳暮で届くウエストのリーフパイだの柿山のあられだのといったお品のよろしい百貨店系のお菓子が常にあったし、禁煙した父は、かりんとうやらそばぼうろやら、新潟銘菓・柿の種やらをストックしておいて口寂しくなったらモグモグしてる人だったので、結果的に家にはいつでも何かしらの(子供的にはさほどありがたくない種類の)おやつがあって、わざわざジャンクなスナック菓子を買ってもらえるチャンスが少なかったのだ。

その例外が毎年の夏休み、祖母と一緒に軽井沢の別荘に山ごもりにいく時だった。

ちなみに別荘があったのは住所的には軽井沢町だけど、旧軽の高級別荘地にある素敵な洋館とかではない。ローカル線で軽井沢や中軽井沢よりさらに先にある信濃追分という小さな駅が最寄りの、夏しか使えない小さな別荘で、浅間山の登山口に近い文字通りの山小屋。建て替える前には土間と五右衛門風呂があって、ガスは通ってたけど七輪もあって、七輪で焼くトーストが美味しかった。

当時は母がフルタイムで仕事をしていたので、小学生の私は夏休みが来るたびに、同居していた祖母と、普段は伊豆に住んでいる大叔母(祖母の妹)が避暑に行く、この軽井沢の山荘に、夏休みの間のだいたいひと月ぐらい預けられていた。

大学の教師だった祖母は無口な人で、別荘に行っても大伯母と一緒にトランプやスクラブルをしたり、何やら外国語の本を読んでいたりで、たいして構ってくれなかったので、私は午前中に学校の宿題のドリルをやってバイオリンの練習をしたら、あとはカビ臭い本棚の本や姉が前の年に置いていった漫画を引っ張り出して片っ端から読んだり、ビニール袋をもらって家の周りで松ぼっくりを拾ったり、ナワシロイチゴを摘んだり、浅間山が見える山道までテクテク歩いて往復したりするほかは、とりたててやることもなく、お絵かきやら折り紙やらをして過ごしていた。

大伯母もまた、ちょっとだけ個性的なインテリ女性で、子どもに合わせて遊んでくれるようなことはあんまりなくて、代わりに五右衛門風呂の焚き方とか糠床のかき混ぜ方とか、花の名前を教えてくれたりした。私は花には興味がなくて、ワレモコウぐらいしか名前を覚えなかったけど。

今思うと当時でも五右衛門風呂は珍しかったし、貴重な体験なんだけど、子どもの私にとっては単純な時間つぶしのお仕事で、気にもとめてなかった。あれ自由研究とかにしたら、結構いいのが書けただろうになぁ…

お盆の頃に数日間だけ母が来て、近くの神社の盆踊り大会に行ったり、旧軽に連れていってもらって楽焼の絵付けで遊んだりする程度が夏休み唯一の娯楽だった。あとはただただ静かで、長い長い夏休み。

よくまぁ毎年、文句も言わずに行ってたよなあと思う。恒例行事だったから、行きたくないと言うという発想すらなかったけど、東京を離れてしまうのでクラスの友達とも遊べないし、別荘の近所にも年の近い子供がいる家庭はあんまり多くなかった。

もともと学校の友達と校庭開放でワイワイ遊ぶとかにはあんまり積極的な興味がないインドア派の子ではあったけど、ひとり遊び上等、という私の基本的な性格は、もしかするとあの山荘で強化されてしまったのかも、とちょこっと思う。

どうも話が脱線しまくってますが、表題のカールの話です。

で、この、家庭においても厳格な教育者だった祖母が、一年の間で唯一、私が食べたいジャンクなスナック菓子を合法的な感じで食べさせてくれるのが、この山小屋に行く夏休みの電車の中だった。

当時は長野新幹線も通ってなくて、碓氷峠のバイパスもなかったから、東京から軽井沢の別荘までは電車でコトコト半日かけて行ってた。

高崎で乗り換える時にだるま弁当を買うか、横川の駅で停車中におぎのやの釜飯を買うかして、プラスティック容器にティーバッグとお湯が入った緑茶を飲みつつ、いくつもトンネルを通って軽井沢に向かうのだ。

この碓氷峠のトンネルを一つ通過するたびに、一つカールを食べてもよい、というのが祖母が決めたルールだった。

小学生に袋菓子を与えて一気食いさせるようなことを祖母は許さなかったので、家でたまにスナック菓子がおやつに出る時も、食べるぶんだけ(子どもにとっては物足りない分量)お皿に取り分けるように言われて、袋にガサガサ手を突っ込んで指を舐め舐め食べる的な背徳的な食べ方は、あまりする機会がなかった。

でも横川〜軽井沢間の電車の中では、カールの袋を自分で持って、袋に手を突っ込んで大きそうなのをつまみあげて食べる、なんなら指も舐めちゃうけど、叱られない。それは特別でウキウキすることで、カール食べたさに窓にへばりついてトンネルの数を一つ一つ数えるのも、すごく楽しかった。

1900年の生まれながら、若い頃には米国の大学に留学していた祖母は、テーブルマナーやら言葉遣いにいちいち厳しく、家では大きな外国語の辞書を開いて机に向かっているか、黙々と庭の雑草を抜いてるか、雑巾で床拭いてるか、外国製の古い銀食器を磨くかしているような人で、子どもの私にとって、とっつきやすい人ではなかった。

でも祖母が亡くなって15年以上が過ぎた今になって思い出すと、あの人はあの人なりに、遅く生まれた孫の私を可愛く思ってたんだろうなぁという気がする。少なくとも、彼女としてはおそらく許容しがたいジャンクなスナック菓子を碓氷峠のトンネルの数だけ食べた孫が、ご機嫌になる顔を見たい、と思う程度には。

祖母と大伯母、2人の老婆たちと過ごすあの長くて静かな夏休みの始まりの半日のささやかなお楽しみの儀式の記憶は、カレー味のカールと分かちがたく結びついている。それはもう、プルーストのマドレーヌのように

なんだろう、ちょっといい話みたいに纏まってしまった。でも心の底から言いたいことは、カレー味のカールがこれからも食べたい、食べさせてくれ、ということだけなんだ…!

私は 愛している
カレー味の カールを
俳句か短歌でも 詠めるくらいに
気恥ずかしいポエムが 書けるぐらいに

(↑翻訳調のポエム書いてみた。)

企画モノのインドカレーとかじゃダメなんです。日本の平均的なカレールーの味しかしない、昔ながらのスタンダードなやつを、どうかどうか。

#美味しかったもの #カール #カールおじさん #思い出すことなど #201705

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