「ニン」と「ケン」とアドラー心理学

「ニンがある。」という言葉をご存じだろうか。漢字では「仁」と書くことが多く、もともと歌舞伎の用語で、その役柄にふさわしい「雰囲気、らしさ」のことなのだそう。そこから転じて広く、芸事の世界で使われるようになり落語家さんや漫才師さんなどが「キャラ立ちしている」といった意味合いから、さらには「愛嬌がある、愛される」といった意味合いになっていたらしい。

その反意語が「ケン」なのだそうだ。「顔に剣がある」という時の、きつく、冷たい感じ。歌舞伎用語のニンから考えるに、後付けなような気がしなくもないけど、「ニン」と「ケン」という二語がもつ、両極にある人柄は直感的に分かる。

51歳になった今、自分で自分のことを「ケンがあるなあ」と思うことが多い。話し方、言葉の選び方、ものごとの見方、いろいろなところににじみ出る。年齢を重ねるごとに持って生まれたものが隠せなくなる気もする。

大人になって「ニンのある人」で、後天的に鍛えて「ニン」を身に着けたに違いないと感じる人には会ったことがない。「感じのよさ」「話しやすさ」というのは社交術や営業スマイルなど、経験的に会得することが出来るけれども、そうでない生来のニンというのは得がたい。持って生まれたその子供のころのニンをそのまま曇ることなく保ち続けられる人というのは相当に硬度と純度の高いダイヤモンドのようなものだろう。

その「ニン」と「ケン」という言葉を知った時、わたしは兄と妹のことを思わずにはいられなかった。

可愛いらしい兄と可愛らしい妹に挟まれて、三兄妹の真ん中に生まれた私は明らかに仏頂面で、ニンがなかった。ニン・ケン・ニン、という三人の子供がいれば、それは母も私に向けて、シャッターを切る気が失せるだろう。結果的に、私の名前が背表紙に書かれた子供時代のアルバムの数は2冊くらいで、それぞれ10冊近く並んだ兄と妹のアルバムの間に、申し訳程度にしか存在していなかった。

子供のころの主要人物といえば、父と母しかいないのに、その二人に人気がない、というのは自分の子供のころの一大テーマだった。兄も妹を名前を〇〇ちゃんと呼ばれるのに、なぜか○○さん、と呼ばれる自分。

さん付けで呼ばれて、アルバムが2冊しかない真ん中の子。
ニンがなく生まれたことを知るには、5、6歳で十分だった。

50も過ぎて、この件について「もういいや」と頭では思っている反面、いまだにこんな文章を書いているのだから、まだLet goできていないのだ。死ぬまでこの件について、クリアにならないような気がする。

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心理学者のアドラー先生は、人は、家族構成の中で自分の役割やキャラ付けを生存戦略として見出すのだという。

わたしは家庭内でのキャラ設定を「しっかりしている」「手がかからない」設定にし、それによって褒められ、認められたい、というという方向に全振りした。幼児なりに必死でアテンションを求めていた。

アドラー先生は、そういう過去に対する意味付けというのも、自分の目的に合わせて自分が選びだしているのだ、という。つまり自分の性格がいまこうなっているのは、子供時代のトラウマや家庭環境のせいであり、「今の自分を正当化したい、今の自分を変えたくない」という目的のための選択なのだと。

そういう意味では「過去などない」、つまり過去だと思って語っているのは、今の自分から摘まみ上げた過去の一片に過ぎないと。この瞬間から自分がどうなりたいかを選択できる、過去なんて関係ねえ!と先生は言う。

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3人もいると可愛いのと可愛くないのが混ざるのも、今ならわかる。
田舎のワンオペ育児で母が大変だっただろうことも、今ならわかる。

せめても帳尻合わせてアルバムを同じ冊数揃えほしかった、○○ちゃんと呼んでほしかった、が無意味なことも今なら分かる。

私がきちんと自立できている、仕事をして、生活をして、自分の責任で好きなことをしたり、自分の身体を大切にしたりして、生きてこれたのだから、親も自分もようやった、ということなんだと今では思う。


いまさら持って生まれなかった「ニン」が私の中から生えてくるとは思わないが、自分で選んで、せめても「ケンのない人間」になることはできるだろう。

そう。いまを生きて、これからどうするかだけを考える。
今日よりももうちょっとマシな自分になるんだ。明日は。


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