見出し画像

私の人生で「身も蓋もないこと」を言う人、第一位の穂村弘さんの、身も蓋もないエッセー「わかりあえるか」


歌人の穂村弘。「わかりあえるか」というエッセイを、定期的に読み返す。
たぶん最初に読んだのは十数年前なのだが、その後、十数年に渡ってあのエッセイ以上に読んで、ぐったりするものもない、なのに読んでしまう名文。

エッセイはこう始まる。

編集の方から原稿依頼の電話を受けたとき、「女と男はわかりあえるか」というテーマをきいて、反射的にそれは難しいだろうな、と思った。何故なら、「女と男はわかりあえるか」というテーマそのものが、明らかに女性の側からのニーズに基づいたものであって、世の中のほとんどの男性は、そんなことは考えたこともないからだ。彼らは女性にもてたい、好かれたいとは思っても、わかりあいたいとは考えていないだろう。断っておくが、これは男たちが女とわかりあいたくないと思っていることを意味しない。

男は分かり合いたいとは考えてない。そこから開始か。

そうではなくて、彼らは、男女がわかりあうとかわかりあわないとかいうこと自体を考えたことがないのである。そのような彼らに向かって「女と男はわかりあえるか」という問いを投げかけると、どうなるのか。

おそらく「わかりあうって、一体何を?」と思う、と思う。通常の男性の意識からすると、そこには「何を」わかりあうのかという目的語が欠けているのである。そして彼らは目的語を欠いた概念を理解したり、扱うことがたいへん苦手なのだ。この目的語を敢えて補うなら、女と男は「お互い」をわかりあえるか、ということになるのかもしれない。だが、これは男性にとってぴんとくる問いかけとは云い難い。


「わかりあうって、一体何を?」

………

この一文のやるせなさが分かるあなたと、世界同時多発的に、一緒にがっくりうなだれたい。

さらに、穂村弘による、男の身も蓋もなさの開示は続く。

一方、女性の側からみると「女と男がわかりあう」ことの重要性は自明なことらしい。女性たちは、ほとんど例外なく、「完璧なシンパシー」に対する強い憧れをもっているようにみえる。そこに「何を」という目的語がないのは、それ自体が目的だからなのだろう。そこには「何を」わかりあうも、わかりあって「どうする」も存在しない。ただ「お互い」に深くわかりあってひとつになりたい、という願いがあるだけだ。

ちなみに手元の電卓で計算したところ、「男女間の完璧なシンパシー」に対して支払ってもいいと思う対価は、女性側の平均値がおおよそ「命の半分」、それに対して男性側は「6300円」くらいである。


6300円…!?



ほーむーらー。そこすわれ。

とこれを読むたびに、今でも言いたくなる。


薄々感じてはいたけど、

男って愛しがいがある時期がやたら短いのは、6300円だったからなんですね。

どうりでね。


身!!蓋!!


一応、このエッセイの後半で、穂村弘は、完璧な男女間のシンパシーに憧れる気持ちはあるとし、探しに行こうとしてるぽく、そしてのちに結婚もしている。6300円よりはもうちょっと出してもいいかな?と思う相手は見つかったわけだ(←失礼)


この本の中の穂村弘は、表紙からして「大人になりきれないボク」的な感じでずっとジャージだし、歳も取らないし、なのに歳をどんどん取っていく私にたまに再読されては、ほーむーらー…!!と思われているのだから、アンフェア極まりないっちゃ極まりないんだけど。


中高年になって2回め同士で再婚した自分がいま思うのは。
「やっぱり6300円はないだろ、男ってまったく!!」という気持ちと、「分かりあうことを諦めることは幸せと地続き・・・」という気持ちの両方です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?