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30年前の夏、ハンガリーからオーストリアへ向かう電車のコンパートメントの中で

ウクライナが爆撃される様子を見て思い出した30年前、1992年の思い出がある。

大学三年生の夏休み。わたしは成人式の着物は要らないから、とその分のお金を親にねだり、そこにアルバイトで貯めたお金を注ぎ込んで、1ヶ月ちょっとのヨーロッパ一周のバックパッカー旅行に行くことした。

1992といえば、前インターネット時代。格安航空券の購入のためには「ABロード」。そして、バックパッカーのバイブル「地球の歩き方」のヨーロッパ編、そして「トーマス・クック時刻表」(それがなにか分からない若い方はそれぞれググってください)だけで1ヶ月以上も旅をするという、今となっては、もうしたくても二度と出来ない、涙がでるほど懐かしい旅のスタイルだ。

そして当時のヨーロッパに向かうバックパッカーのあこがれ、そしてマストアイテムだった「ユーレイルパス」というヨーロッパ周遊の電車乗り放題のパスを購入。このパスは若者しか買えなくて、貧乏ヨーロッパ旅行中のバックパッカーは全員持っていた。

ユーレイルパスでも色んな種類があって行ける国、行けない国が決まっていて、さんざん悩んで旅程を組んだ。


わたしが旅のプランニングに鼻の穴を膨らませていたころ、どういうわけか3つ年上の兄がこのヨーロッパ旅行に一緒について来ることになった。3つ年上だったのに、兄は留年やらなにやら紆余曲折があって、いつのまにか私と同じ大学三年になっていた。

わたしが人生初の大冒険に胸を高鳴らせている一方で、兄はまったくヨーロッパにもバックパックにも興味がなく、二人の意向はまったく合っていなかった。が、父と兄との間で、兄が留年や浪人でかけた苦労の罪滅ぼし?として、ひと夏、妹のボディガードとして過ごせ、という取引らしきものがあったようで、いやいやながら私に付いてくることになったらしかった。


最初の国は、イギリス。成田からロンドンヒースロー空港に向かうのに、数千円でも安いチケットを探して、当時いったい何をどう調査したらそういう結論になったのか、パキスタン航空を選び、初日の夜は、治安情報も不確かなカラチ空港のロビーでのトランジットの一晩すごした。今ならお金出すからそんなハードな旅の始め方勘弁してくれ、というような無茶プランだった。

カラチ空港のトイレで「トイレの紙は金を払えば渡す」という目つきの悪いトイレおばさんと生まれてはじめて夜の薄暗い対峙した時も、(これがあの…トイレおばさん!!!)と好奇心のほうが勝っていたのも若い。1ドル札でなく1000円札をよこせとおばさんが粘ってきて戦った。ヨーロッパ一周旅行の始まりは、ヨーロッパに行き着く前のアジアの夜の洗礼から始まったのだった。
来たくなかったのに、わたしに連れてこられた兄はことあるごとに文句を言い、もう日本に帰りたいと言い、じゃあ帰れば!?という私との間の喧嘩はひっきりなしだった。

それでもあのひと夏の間に見た美しいもの、面白いこと、そして長旅ならではのトラブルや奇妙な思い出の共有は、少なからずその後の兄妹としての連帯感に影響している。お互いに、日本に残してきた恋人に旅先からはがきをせっせと送ったのも甘酸っぱい。

イギリスから入って、ベルギー、ドイツと経て、旅の中盤は東欧の国々、ハンガリー、チェコスロバキア(その頃はまだ一国だった)にもいった。ベルリンの壁が崩壊して2年後だったので、まだ東欧の国は街並みは中世のままに、生活には共産圏の面影を色濃く残していた。

東欧の国の人々が、一気に資本主義国の商品や文化が流れこんで来たことがまた新しく珍しかった時期のようで、市場を通りかかると「リーバイスのジーンズがあるぞ」「マルボロいるか?」などと声をかけられた。資本主義の国から来たわたしが東欧の国を新しく珍しく感じていたように、彼らは資本主義の新しい世界に夢中なようだった。 

見えない価値が国を超えて飛び交い、それぞれの場所、それぞれの人の中で興奮を生んでいる面白さを感じた。

◆◆◆
何と言ってもヨーロッパの旅は電車が楽しい。国境を超えて、違う国の列車に乗るたびに、トイレットペーパーの質や座面の硬さががらりと変わるのが興味ぶかかった。

たしかハンガリーのブダペストから、オーストリアのウィーンへと電車で移動した日のことだ。

6人がけのコンパートメントには、がっしりした体格の濃い茶色の髪とひげのおじさんと、黒髪で明るい緑色の目をしたおばさんの二人のヨーロッパ人のと乗り合わせた。素朴そうな、気の良さそうな人たちだった。

ふたりは、瓶にコーヒーのような濃い色の飲み物を入れていて、切ったトマトやハムのようなものを広げて、わたしたちにも食べろ食べろ、と勧めてくれた。

当時のバックパッカーの間ではコンパートメントに乗り合わせた人からもらった食べ物や飲み物に睡眠薬を盛られて、身ぐるみ剥がされる「コンパートメント睡眠薬強盗」はかなり恐れられていて、我々は、親切そうな二人に対して、いえ結構です、と頑なに固辞していた。

二人は英語をほとんどしゃべらず、われわれも片言の英語しかしゃべれずで、コミュニケーションはなかなか通じなかったが、4人の努力の結果、おじさんたちはルーマニア人、我々が日本人、というところはお互いに分かった。

おじさんが、電車の窓から外を指差し、わたしたちにしきりと何かを尋ねてくてくる。畑にいた農民を指差して、わたしたちに何かを尋ねてくる。高い鉄塔を指差したり、車の運転をしているような仕草をしたりして、なにかを尋ねてくるのだが分からない。

兄とわたしは、???となりながら、食べ物のことを聞かれているのか?車のことを聞かれているのか?とヒントのないコンパートメントの中で、おじさんがわたしたちに尋ねようとしていることを理解したくて、一生懸命考えた。

おじさんはライフルを撃つような仕草をして、自分を指差して、またわたしたちを指差した。

わたしと兄はやっと、ああ、おじさんは軍人なのか、そしてわたしたちの仕事をきいているのか!と分かった。兄がノートになにかを書くジェスチャーをしてふたりとも学生だ、ということを伝えることが出来た。

おじさんが、わたしたちに腕時計を見せてきた。なにか文字盤に勲章の星のようなマークが入った、軍から記念でもらった時計のように見えた。

ポーランド共産圏時代の最後の大統領だったチャウシェスクが妻とともに、民主化革命の終わりに射殺されたニュースは、ベルリンの壁崩壊のころの一連のニュースで知っていた。チャウシェスク、と言うと、とおじさんはチャウシェスクは殺された、ということを身振り手振りで教えてくれた。

たぶん、ここまで理解し合うまでに、ゆうに1時間以上かかっただろう。

兄が意を決したように、俺は食べる!といって、おじさんたちのご飯を分けてもらい、食べ始めた。わたしも食べた。

今思えば、おじさんたちもテーブルに広げたものを一緒に食べろと言ってくれていたので、どう考えても危険なことなどなかったのだが、旅先の警戒心で、おじさんたちの親切を最初は疑ったことを、わたしは今でも少し申し訳なく思い出す。

大学生だったわたしと兄がすっかりおじさんとおばさんになっているのだから、あのおじさんとおばさんはすっかり、おじいさんとおばあさんになっているだろう。

東欧の人は、みんな飾らない感じで、親切にしてくれた人が多かった。言葉が通じないと冷たくなるドイツやイギリスに比べて、なにか話しかけようとしてくれ人が多かったのも東欧だった。汚いかっこうをしたアジア人のわたしたちに親切にする理由など、なにもなかったに違いないのに。




◆◆◆

ハンガリー、ルーマニアと国境を接して隣国にウクライナがある。

ヨーロッパの旅の間じゅう、列車が国境を超える駅ではいつもより長く止まり、パスポートチェックの人が回ってきて、パスポートにスタンプが押されることということを経験するたびに、わたしは興奮した。島国ニッポン育ちのわたしにとっては、そして、生まれて始めての長い旅の中のなかでは、すべてがものすごく珍しく、そして羨ましかった。


いいなあ、隣の国に電車や車で遊びにいけるなんて!
と私は先月までずっと、のどかに思っていたのだ。

ウクライナ侵攻を見ていて、届くはずもないが、祈る。
二度と会うことのない親切な人たちよ、どうぞご無事で。



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