見出し画像

【ソウウツ通信】たぬきの鬱スイッチ/回復スイッチ【9】

 これまでいかに躁と付き合うか。躁のクリエイティブな時期を持続させるかなど躁状態の時について書いてばかりいた。
 たぬきは躁「鬱」人である。当然、鬱状態も発現する。
 鬱状態の時の話はちょっと暗いのであえてあまり書かなかったということもある。でも、躁鬱人たるたぬき、そして躁鬱人かもしれない読者諸君には鬱期とも付き合っていかなければならない。ここはひとつ鬱期の時の話を書いてみようと思う。
 と、言ってもたぬきは躁との付き合い方は何となくわかってきたつもりであるが、鬱はうまく付き合えているのかと言えばそんなことはないかもしれない。
 ただ、躁鬱病と言うくらいだから躁と鬱には密接な相互関係がある。
 躁の時を見てみてみても鬱の輪郭がおぼろげながらも見えてくるかもしれない。
 なのでちょっと躁の観点から鬱を観察してみよう。
 躁は躁でほどよいハイテンションだったら、多くのクリエイティビティあふれる活動(をしているつもりなんだけどね)ができてよいのだが、なにせ怒りやすくなるのはいただけない。
 たぬきの最高に躁なときは、頭脳明晰になっている(つもり)だから、他人の行動がいちいち遅く、非効率に見えてくるのである。だんだん他人の行動の遅さにイライラしてくる。イライラな雰囲気が周囲数メートルにほとばしっている。
 そのテリトリーに入った他人に怒り散らしてしまうのだ。
 これは良くない。躁の中でももっともよくない。暴力こそしないけれど、他人を傷つける行動に含まれる。
 じゃあ、そんな怒り散らしている躁期のたぬきは、例えば仕事の時など、凄まじい仕事量を効率よくこなしているのかといったら、あとから見れば全然そんなこと無いのである。興味があっちへ行ったり、こっちへ行ったり、むしろ落ち着きがなく非効率のソレである。
 仕事の能力は本来持ちえた力量をあまり超えない。だけれど、良く動く躁状態は「早さ」だけが備わったのだといえるのかもしれない。
 つまりはミスだらけである。失敗だらけ。
 それでいて、他人に怒り散らしているから当然、自分の身に怒りや苦言が帰ってくることが多い。怒り散らしている対象の相手じゃなくても、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと一貫していなく、ミスばかりの行動は他人に叱られるきっかけが超大量に潜んでいる。
 近しい友人に躁鬱病だというと、ただの鬱病じゃなくて、元気でハッピーな時があるだけいいじゃん!・・・といわれることがある。
 違う。
 躁期は元気だけど全然ハッピーじゃないのである。プラス思考になるわけでも何でもない。弱い犬ほど良く吠えるというが、そんな感じかもしれない。わんわん。
 なので、弱い犬たる躁鬱たぬきを「しゅん」とさせるのは簡単である。矛盾点とかをちょんっと指摘したりすればいいだけである。それだけでたぬきは鬱状態に転落する。
 弱い犬は自分にあんまり自信がない。自信がないからせめて自分を大きく、強く見せようと思ってカッコつけて吠えるのである。デキる犬というのを見せつけたいのかもしれない。
 本当はすごく臆病な犬だ。虚勢を張っているだけだから、より大きな犬にでかい声で吠えられたらもう化けの皮が剥がれ落ちる。で、鬱。
 そう。躁期の躁鬱人は活動的ななかでいつも怯えている。「何か」「ささいな」「きっかけ」があったらすぐに鬱に転落してしまうのを薄々気が付いている。鬱は苦しい。そんな苦しみへ転落することを怯えているのだ。
 以前、躁期の気分の状態を考えるときの話をした。躁鬱の気分のアップダウンを波と捉えた場合、躁鬱人は躁状態を続けたいもんだから、躁の頂と頂を繋ぐロープの上を綱渡りしている状態に似ているとお話した。
 状態はまさにそれである。そして、危うさもまさにそれ。
 躁状態のたぬきは命綱も無しにロープの上を不安定に歩んでいる。ちょっと風が吹けば、ちょっと誰かが小突けば鬱の谷へ真っ逆さまだ。
 これは全身が「鬱スイッチ」だらけ、とも言える。ありとあらゆるきっかけが鬱スイッチになりうる。
 ほんのちょっと「お小言」を言ってやるだけでいいのだ。猪突猛進している人間は横からの力に弱い。ちょっと横から小突いてやるだけでこけてしまうもんである。
 もう本当になんでもいいのである。
 例えばたぬきは、躁期の時、ちょっとリビングに物を置きっぱなしにしてしまったことがあった。それを「片付けて」と注意されたことがある。
 それだけでたぬきは半年布団から出られなくなり、寝込んだことがあった。
 人間関係だけではない、大きな地震や災害、テロ、戦争など他人に不幸が起きたときにも鋭敏に反応して鬱に転落する。東日本大震災の時がそうだった。その頃のたぬきは寛解しはじめ、職場復帰目前の状態であった。そこで地震。これで復帰が半年遅れた。
 躁鬱人の躁期はいい意味でも悪い意味でも感覚が鋭敏に研ぎ澄まされている。だから色々なことに気が付くし、それを解決しようとアイデアが次々に浮かんだり、行動しようとしたりする。
 逆に言えば、「全身痛点人間」みたいなもんだ。刺激に超弱い。
 刺激に超弱いのに活動的な時期だから刺激的なことや場所へどんどん飛び込んで行ってしまう。
 約束された地。鬱。躁期はもう鬱と隣り合わせである。
 で、双極性と言うくらいだから100かー100しかないのである。0に転落することはない。ー100に転落するのである。
 絶対値的に200ぶん落ちるので大けがだ。
 薬物治療は大けがをしないように躁の頂を土木工事で低くして、その残土を鬱の谷へ投下し埋める作業である。
 だけれど、なっちゃう時はなっちゃうんだよ。躁鬱人は。
 で、ぽちっと押されてしまった「鬱スイッチ」。鬱に入るとどうなるか。
 身体的にはまったく動けなくなる。いや、動けるけれど動く気力がない、動きたくないといった方がいいのかもしれない。
 基本的にたぬきは寝たきりになる。でも、知識としては太陽の光を浴びた方がいいなんてことを馬鹿の一つ覚えで知っているから、重い体を動かして一応出かけたりすることもある。
 たぬきはなぜか鬱期には墓地に惹かれる。なので、公園があるような大きな市民霊園みたいなところに行って、墓地を眺めて過ごしたりしている。
 「一応出かけた」その実績欲しさで出かけているというのもある。
 また、失踪することもある。躁期にはあれだけ知識や経験などの情報を求めていたのに、鬱期にはすべての情報をシャットダウンしたくなる。
 なんの情報も入れたくない。でも、少なからず情報が入ってきてしまう。
 躁期に情報を仕入れてしまっているからその分、鬱がひどくなった時のたぬきは大変である。
 たぬきはたびたび専門が建築だったと述べた。役所時代はなぜか土木職(建築職と似てぜんぜん非なる仕事)のお仕事もやっていて、道路とかも作っていた。
 そうなると、人工物すべてが「仕事」を想起させる。頭が働かなくなっている鬱期は想起させるだけで知識などすべてがアウトプットできなくなっているので、こんなことも分からなくなっちゃった・・・とすごく凹むことになる。
 家の中で寝ているのもままならない。
 天井を見ているだけで、天井の裏の小屋組みってどうなっているんだっけ?建築基準法的にはどうだったんだっけ?・・・と考え、結局思い出せないので、落ち込む。
 音、匂い、光などの強い刺激にも敏感になる。人にも当然会いたくない。
 残る道は失踪だ。
 だいたい、山奥の林道なんかに車で入っていき、スマホの電波も届かないようなところでシュラフにくるまり何日も過ごす。
 躁期だったら好きなブッシュクラフト的な感じを気軽に体験しているとも言えるので、すごく楽しい経験だけれど、鬱期の気分は180°逆の感覚である。
 樹々を見ていると、この木は柱に使われて、とか梁に向いている・・・とか覚えなくちゃいけないんだった・・・とか考えたりもするけれど、街なかよりは情報が少ないので少し心の平穏が訪れやすい。
 それで、夜中に街のスーパーにちょっと行って、安くなった総菜を購入してまた山に戻る。風呂なんかも何日も入らずそんなことをしたりしている。
 メールやメッセージなどは一切見ない。経験上最も長い鬱期は何回かあって、半年だが、半年返信しなかったことも多々ある。
 食欲は無い。まだ、躁鬱人としての経験が浅かったころ、三日で缶ジュース一本しか口にしなかった時期があって、死にかけたので、それでも頑張って食べるようにしているけれど。
 動けないので筋力も大変落ちる。ちょっと歩くだけでふらふらで、階段なんか登ったら息切れをする。
 躁も大変だけれど、鬱期もやっぱり大変である。
 さてさて。
 躁の時は「敢えて」充電期間を多く持って、大量消費しがちなエネルギーを絶やさないようにしようという、エネルギー面では対処の方法がある。
 あとはできないかもしれないけれど、刺激をなるべく求めない、というのも手かもしれない。言い換えれば、なるべく怒られない、なるべく「きっかけ」がない、外的要因が鬱スイッチを押してくるようなことが無い場面に身を置く・・・ってのが正解かもしれない。
 たぬきは、運よく登山とか、小屋作りとか自然が好きな傾向にあるので、躁期のエネルギーのほとばしりはなるべく人と接しない、登山とかキャンプで発散するようにしている。人と接するといきなりー100点に落とされる危険と隣り合わせだからである。
 それでも、刺激を求めて人に連絡しまくったり、学生時代の友人に会いにわざわざ遠方へ出向いたりもしちゃう。その辺はなるべく意識して抑えた方が賢明だと思っている。
 これはお互いのためでもある。躁期は他人を攻撃しやすくなるから本当は人と接しないのが賢明である。
 ああ、畑とか家庭菜園ってのもたぬきはやりますね。これも人を傷つけないし、外からの刺激も少ない。
 まあ、そんなわけで躁期の対処法はなんとなくわかっているのである。
 では鬱期の対処法を考えてみよう。
 鬱期は何に弱いのかを考えてみる。
 仕事を連想させる情報、ハマっていた趣味を連想させる情報、五感の情報などなど。そう考えると結局、刺激である。
 躁期も鬱期も結局刺激が苦手である。
 躁期は刺激を自ら求めて行って、刺激にやられるタイプだが、鬱期は刺激をシャットダウンしようとしても、生きてく上で何かしら入ってくる微量な刺激にやられてしまう。
 そのわずかな刺激、情報をこねくりまわして、漠然とした不安を発酵させて膨らませ、大きな魔宮を作り上げる。そして、自ら恐怖する。
 子供のころ難しい迷路を描くことが趣味だった。その自分で作った迷路に自分で迷うみたいなものかもしれない。阿呆の極み、ここに至れり、である。
 だけれど、今、こうして文章を書くほどに安定した状態にたぬきはいる。
 そう、たぬきは絶対もとに戻れない!!と絶望の鬱期を過ごしてきたものの、これまで必ず寛解を遂げている。
 何がきっかけで寛解したのか?
 もしかしたら、そのきっかけに鬱期を克服するヒントが隠されているような気もするのでこちらの面でも考えてみよう。
 たぬきが鬱期を脱した時の記憶。
 一つ、躁期の時の活動がのちのちになってから実を結び、少し褒められた。
 一つ、寝たきりに飽きて、気まぐれで動いてみたら案外楽しかった。
 一つ、どうしても動かなくちゃいけない状況になり、無理やり体を動かしたら、気分も回復した。
 一つ、好きなことだけして生きていこう、最悪最後は野垂れ死にでいいや、とある意味吹っ切れた。
 一つ、春になった。
 これらの記憶をだどってみるに、どれも外的要因では無くて、回復するべくして回復しているような気がする。外的要因は後付けの雰囲気がする。
 つまりは、鬱期のもっともどん底の谷を抜けて、少し回復しかけているときに、「何か」のきっかけがあって、気分が上昇に転じるという、そんな感覚である。
 上の記憶を見ると、「何か」はなんでもいいことがわかる。ほんの些細な「いい気分になれる」刺激だけでよい。
 その「何か」の一つに春もある。季節的な春が鬱期を脱するきっかけになるように、鬱期を脱する瞬間は本当に春が来たような感覚に似ている。
 これまで欝々としていた冬の曇り空から一条の光が差し込める。その光を見上げていると、背中に羽が生えてきて、ふわっと体が浮くような。そんな感覚である。
 なんだ、じゃあ鬱へ落ちる鬱スイッチはそこら中にあるのに、回復スイッチはどこにもなくて、時間が解決するってことじゃん・・・。ごめん。そうかもしれない。
 鬱が本当にひどい時はどんなに褒められたって寛解することは無いけれど、どん底を抜けて、上昇基調になっているときにいいことがあると、回復スピードがあがる・・・そんな感覚なのだ。
 これはこれからどん底へ落ちていく段階や、どん底からの寛解には役に立たなそうだ。
 なるほど。じゃあこの落ちていく段階、どん底での過ごし方を考えれば健やかな暮らしができそうなことが分かってきたぞ。
 まあ、そもそもであるが、「落ちていく段階」自体にさせないことも重要だと繰り返したぬきは言っておく。
 大事なことは元気なうちに充電期間を設けて疲れないようにする。刺激にむやみに飛び込み過ぎない。嫌なことから逃げる、などである。これは全身全霊を掛けて目指して行こう。たぬきは仕事すらもそれで絞っていき、現在の自営業にたどり着いている。
 それでも何かのきっかけ(とくにたぬきは怒られることが鬱へのトリガーになりやすい)で鬱の道へ真っ逆さまってことになってしまったとする。
 あなたは今、どん底へ向かって落ちつつある。必ずどん底へ落ちる。落ちた先に回復が待っているからだ。
 回復するためにどん底へ落ちることは変えられない。なので、どん底を浅くするしかない。
 鬱になるとマイナスなことばかりを考えて自ら墓穴を掘ることが多々ある。どん底を深くしているようなものである。
 たぬきは鬱期には外に出て太陽を浴びようと努力している。気分は全然よくなくて、だるいけれど、それでも何時間もかけて出かける元気を溜めて、やっと外に出るのである。
 うん。多分これはいい傾向である。もう少し頑張れば、鬱のどん底が軽くなることが予想できる。
 たぬきが、鬱期でも外に出ようとするのは何も太陽を浴びようとしているだけではない。たぬきは多分、基本的に外が好きだからである。山中に失踪することからもその説は間違いではなさそうだ。
 鬱になると本来好きだったことでも何の興味も持てなくなる病気だ。それでもたぬきは無意識に外に出ようとしているのである。これは「好き」の残骸ではないだろうか。
 鬱になるとやる気も無くなるし興味も無くなるので、何がやりたかったのか、何が好きだったのか自体が分からなくなる。その中でも残骸が残っているのだ。
 それなら、鬱になったらこれをやるべし!というリストを作ったら効果がありそうな気がする。
 たぬきのやるべし!リストを考えると動ける強度順に、外出する(墓地に行く)、車で山を散策する、里山を散歩する、キャンプする、登山する・・・といったところだろうか。
 「キャンプをする」あたりまでできたらなんだか回復が早まりそうな感覚がある。まあ、キャンプあたりから準備も大変になるので、そこまでできたらもう回復期ってことになるのだろうが。
 じゃあ、まあ里山を散歩する・・・くらいがちょうどいい感じだろうか。
 たぬきは、これを書いている時点で鬱期に突入していないから、まだこの「やるべし!リスト」を試していない。でも、たぬきは作ってみた。
 効果があるかどうかは、いずれ訪れるかもしれない鬱期への保険である。
 役に立つかもしれないし、立たないかもしれないけれど、元気なうちに対策を練っておくのも大事だと思われる。これまでは元気な時は鬱へ落ちる不安だけはあったけれど、その対策を練ったことは一度も無かった。
 元気な時に好きだったことを、「無理やりにでも」する。無理やりするために事前にリストを作っておく。
 これが、鬱期の落ちていく段階で講じられる対策、すなわち回復スイッチである。
 回復スイッチは鬱スイッチのポチっとな!って感じではなく、ダイヤルを回して徐々に元気にしていくという感覚だ。即効性はない。それでも、たぬきはどんなに寝たきりになっても必ず寛解してきた。
 多分、これから鬱になってもいずれは寛解することができるだろう。信じよう。今、鬱で苦しんでいる躁鬱人の方々も、いずれは必ず回復する。今はなんで興味があったのかすら分からなくなっているだろうけれど、好きだったことをちょっと頑張ってやってみよう。回復が早まるかもしれない。
 それすらやる気が無ければ、それはもう寝てればいい。眠くも無ければいやなことを悶々と考えていてもいいかもしれない。何をやっていても結局時間が結局解決するのだから。
 結局たぬきが考えた鬱期の対処法は回復を早める程度の効果しかない。微力である。それでもたぬきは今度鬱期に入ったら試してみようと思っている。うまく行ったらまた書いてみようと思う。
 と言うことで、今回はたぬきの鬱スイッチと回復スイッチについて考えてみた。躁鬱人のみんなには必ずあるといっていい両スイッチ。
 それぞれの場所を見つけて押されない方法と、すぐ押す方法をちょっと元気な時に考えておくのもいいかもしれない。
 そんなお話。
 ではでは。
 
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?