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【ソウウツ通信】たぬきは虚無感とお友達になりたい【15】

 たぬきは筋肉痛である。腰も痛い。
 何年も前に躁状態の勢いで買ってしまった古民家のお庭の手入れをしていたからである。
 夏を前にして雑草がすごかった。とにかくすごかった。このまま夏が到来するとジャングルになってしまう。
 古民家はしばらく空き家だったから、雑草たちもワイルドである。手入れされ続けていた庭と違い、ちょっと放っておくだけで野生のころを思い出して繁茂するのだ。
 たぬきは当初、そんなワイルド雑草たちとの共存を選んでいた。
 共存と言うより、生えてくるたびに引っこ抜こうという対処療法的な庭造りを目指していたのである。
 だけれど、疲れちゃった。
 雑草たちはまるで見境のない躁状態である。ほんとに少し目を離したすきに「うひょー!!」と好き勝手に伸びやがる。たぬきは業を煮やして、雑草たちと対決することにした。根治。根本的に雑草を生やさなくしてやる。
 と言うことで、庭の大改編を行ったのである。芝生を生やしていたところをはがし、防草シートを敷いてから石畳と砂利を敷く・・・という絶対に!絶対に!!雑草を生やしてなるものかという強い意志の元の庭造りである。
 砂利は近くの建材屋さんから購入した。土嚢で買いに行ったのだけれど、多分、1袋あたり4~50kgはある砂利を10袋近く、一人で運んだ。そりゃあ腰も痛くなるってもんである。
 そして先日1週間ほど毎日造園業というかもはや土木業みたいなことをして、完成したのである。
 以降、数日、寝込んだ。
 たぬきは最近軽躁状態ではないかと怪しんでいる。完全な躁状態ではない。「軽」躁状態である。たぬきにとってこの辺りの精神状態は「悪くない」である。
 躁状態による失敗は少なくないけれど、程よく動けて、程よく臆病である。いや・・・臆病なのは性格だからいつでも臆病と言えば臆病なんだけれどね。
 「寝ないほど元気」「元気」「ちょっと元気」「ふつう」「低空飛行のふつう」「墜落直前」「墜落」で言ったら「ちょっと元気」状態である。
 「ふつう」はあんまりない。だいたい一瞬で通り過ぎる。「双極」性障害って言うくらいだから、きっとどっちかに振れるのだろう。
 この「ふつう」より上の状態。元気な時は不安の種は見え隠れしているけれど、生きている意味とかそういったことを考えることはない。
 ところが、驚くことに「低空飛行のふつう」あたりから哲学者ばりに生きている意味なんかを模索し始め、「墜落直前」と「墜落」したあかつきには、もうずっと生きている意味、もしくはそこまで考えなくても、寝たきりで時間を無駄にしている絶望感、一言で言えば虚無感みたいなものが一気におそってくる。
 これは大変つらい。
 人生について考えちゃうのなんて、もう哲学者や悟りに至ろうとしているお坊さんとかその辺の類の人たちである。みんな一生かかって答えを導きだそうとしている人たちだから見るに幸せな感じはしない。苦しんで答えを探そうとしている感じがある。
 そんな難題に、躁鬱人は挑んでしまう。「虚無感とは何か?」「虚無感との戦い方」みたいな感じで。
 いや、無理でしょ。
 大変高名な哲学者とかお坊さんが至る一種の悟りにイチ躁鬱人が数ヶ月の寝たきり修行のなかで導き出せるとは到底思えない。
 鬱状態で突然襲ってくる虚無感との戦いは答えのない問題に永遠に取り組まされている感覚に似ている。
 たぬきは、虚無感とはなるべく会いたくないから、近づいてくると逃げるようにしている。
 すなわち、その前に充電という名のもとに旅行とか登山とか行ってリフレッシュしようと心がけるのである。
 たぬきは何重にも防衛線を張っているのである。
 躁状態の時は「鉄は冷めてから打つ」。
 熱いうちに打つと大きな失敗をすることがあり、結果急転直下の鬱状態に陥る危険があるからである。
 ちょい躁からちょい鬱の時は「充電機会を設ける」。
 エネルギーを多く消費してしまう燃費の悪い躁鬱人は人より多くの給油をしなければいけない。(いや、この場合「充電」って言った方がいいのか。。)
 力がみなぎっている、休息なんて必要ない!・・・という状態だからこそ、その間に「敢えて」休息を設けるのである。それで鬱状態に突入しないように心がける。
 ・・・そんな幾重もの防衛線を張っていても、急襲されることはある。立て続けに人に怒られたとか、嫌なことが重なったりするのは自分ではコントロールできない。
 一気に鬱状態へ叩きつけられることがままある。そこへおそってくるのが虚無感である。
 ひとつここは虚無感との付き合い方も考えておかねばなるまいと、たぬきは考えたのである。
 鬱状態で苦しいのは総じて虚無感との戦いであるような気がする。
 寝たきりで何も社会の役に立っていない。虚しい。さみしい。
 文字も全く読めない。情報が欲しくない。ただただ飯食って寝てるだけ。これって生きてる意味あるの?虚しい。さみしい。
 負の思考が永遠に頭の中をぐるぐる回り続ける。生きていくのは苦行である。人生って虚しい。苦しむためだけに生まれたのか。自分は。
 躁状態の時に手を広げ過ぎた、あんなことや、こんなことを滞らせてしまっている。やらなきゃいけないけれど、やれる状態ではない。こうやって積み上げては鬱になって崩してしまうんだ。それなら何かをやる意味ってあるのだろうか。何やっても無駄じゃないか。虚しすぎる。
 社会貢献したくて公務員になったし、自営業もしている。だけれどこんな病状では何もできない。社会の役に立つ・・・と言うのは人間すべての使命である。そんなこともできない自分の生きてる意味って・・・。
 たぬきが鬱状態になったときに考えるのはだいたいこんな感じだ。だいたい虚無感に襲われて怖くなるという感じである。虚無感、怖い。とにかく怖い。
 たぬきは躁鬱人になってからは苦手な人とはなるべく付き合わないような生き方に変えた。日本人だって1億人を超える人がいるんだから、苦手な人だって絶対にいるはずである。逆に考えれば1億人もいるんだから気の合う人だってたくさんいるはずだ。
 無理して付き合う必要はない。
 これが勤め人だったりするとそうはいかない。たぬきも勤め人の一種である公務員だったからよくわかる。なんなら運が悪いと苦手な人だらけの職場に配属ってこともありうる。
 たぬきは建築職で役所に入ったのに、最初に配属されたのは建築職とある意味敵対している土木職畑だったのである。業務内容がちょっと建築の知識も必要だからと一人だけ建築職が配属されている職場だったのだ。
 こういう一人専門職職場はふつうベテランの人が行くもんだけれど、たぬきが入る前年、トラブルを起こして、突然ぽっかり空いた穴にたぬきが配属されてしまったのである。
 同族嫌悪とはよく言ったもので、役所勤めの経験がある人はわかるかもしれないけれど、土木職と建築職はすごく仲が悪い。その中でも地方都市の職員比率で言うと土木職:建築職が5:1くらいの割合なのである。
 結果的に建築職が虐げられているという構図ができている。都会だと建築基準法とか都市計画が重要視されるのでこれが逆転するらしい。
 たぬきは地方都市のウナギイヌ村の職員だったので前者なのだ。
 イメージで言うと土木職はおおざっぱのガハハって笑う感じ。建築職は神経質な感じである。土木は数百立米の土やコンクリートを使うに対し、建築職はボルト一本の強度とか収まりについてこだわる。仕事の内容自体が「建設」とひとくくりにされるけれど全然違うのである。
 そりゃ、一つの集団の中に入った異質な人間なのだから、よほどうまく立ち回らないといじめられるよね。たぬきはめちゃくちゃいじめられた。
 土木職は建築職と似た仲間と当時は思っていたけれど、鬱になってみて、敵対する職種同士だと知ったのである。遅かった。遅すぎた。
 話がどんどんずれてきちゃった。
 そうそう。こういう職場などでは苦手な人を避けることは難しいけれど、たぬきはなるべくそんな環境下に陥らないように自営業の道を選んだというのもある。見境なく仕事を取ってきた方が収入的には安定するはずだけれど、たぬきは心の安定の方を求めている。
 なので、仕事が少なかったとしても、苦手な人とはなるべく付き合わないようにしている。
 無理して仲良くしようと努力しなくていいのである。なんせ日本に1億人、世界で見れば80億人(?)いるんだからどんなにマイナーな嗜好の人間だって気の合う人は絶対にいるはずだからである。
 ところが、虚無さんとはどんなに苦手でもお友達になろうとしなければならない。
 これは苦手な人を避けられない職場みたいなもんである。
 躁鬱人は躁と鬱を繰り返すからこそ躁鬱人なのだ。間隔はひとそれぞれだとしても鬱、すなわち虚無感は必ずノックをしてたぬきの家にもあなたの家にもやってくる。カギを閉めていたってお構いなしだ。
 そんな厄介な知人たる虚無さん。お付き合いせざるを得ない。どうせお付き合いするのなら仲良くなった方が得である。
 職場での苦手な人でもそうだけれど、苦手なモノやヒト、コトとはどうやって付き合っていけばいいのだろう?
 一つは拒否する。なるべく近づかない。逃げる。
 これは苦手なものになるべく近づかないようにする環境下における状況なら一番に実践したいことである。逃げ足の速さを鍛える、すなわちトンズラ力を磨くのは重要だ。
 だけれど、虚無さんは勝手にやってくる。今回は使えない。
 一つは気にしなくする。
 これは躁鬱人には難易度が高い。感受性が豊かな人が多いからだ。苦手なヒト、モノ、コトから多くの情報を得てしまう。その情報のほとんどが自分へ害をなすマイナスな情報である。
 たぬきも役所の職場で「気にしなくする」「鈍感になる」を頑張ったけれど、逆に「これだけ言っても気づかないなんて馬鹿にもほどがある」と余計にいじめられた。いじめられた上に、鈍感になっているフリをしているだけだから、その時の負の情報も真っ向から受け止めていたのでストレスは倍である。
 似たような感じで虚無感を無視するのも良くない。無視してもその思考は確実に躁鬱人にダメージを与え続けるからである。
 そうなると勝手にやってくる虚無さんとの正しい付き合い方は「仲良くなる」しかないんじゃないかという結論に至った。
 なので少しでも仲良くなってみようと、「虚無感」という言葉を擬人化して「虚無さん」と突然書いてみたのだけれど、この辺からもう努力をしていかなければならない。 
 ソウウツ通信だって似たようなものだ。「躁鬱たぬき」という架空の動物を間にかませ、一種の「他人事」にすることで石川狸本人の辛い思いでなんかを書く時の緩衝材にしている。職場でいじめられていたのも躁鬱たぬきさんの経験であって、石川狸とは全然関係のないお話なのである。という体である。
 そんな感じで虚無さんと付き合うことを考えよう。虚無さんも根はいい奴である。多分。
 これはたぬきの場合であるけれど、鬱の時に陥る考えを大きく一つにまとめると「意味あるの?」に集約される。
 寝てばっかりで生きてる「意味あるの?」
 情報をシャットダウンして食って寝るだけで生きてる「意味あるの?」
 生きてるだけで苦しい、苦しむために生まれてくる「意味あるの?」
 ・・・みたいな感じである。
 これが虚無感の諸悪の根源である。
 なので、鬱で寝込んで紋々と自分が存在する「意味」を見出そうとすることが多いし、何者かになりたい願望がいつも湧いてくるのだけれど、答えは絶対に出ない。
 現時点でそう考えてしまう時点で、意味を見出せないから苦しんでいるわけだし、自分が望む何者にもなっていないからである。
 実際の所、躁鬱人ではない大半の人たちだって生きてる意味を見出しているわけでは無いし、いくら会社で高い地位にいたとしても、替えが効かないという人間は世界のほんの一握りの人たちである。大半は何者でもないはずだ。
 だけれど、大半の人はそういうことは考えないようにしている。考えることもしないのかもしれない。すごくいい意味での鈍感力があるってことだ。
 たぬきは鈍感力がすごく欲しい。鈍感だったら気づかなくて、幸せだろうなーといつも思っている。だけれど、躁鬱人は得てして鈍感でいられない。躁鬱人は哲学者の卵であり、悟りを開きたい修行僧だ。
 でも前述した通り、そういうのは哲学者とか高名なお坊さんとかが一生かかって導き出せるか否かの答えだ。哲学者の卵くらいでは答えられるような代物ではない。
 なので、ここはもう言いきっちゃうのが虚無さんと仲良くなるための秘訣なのではないかと結論に至った!
 「生きてる意味はある!」
 もう、そんな仮説を立てちゃおうって手法だ。例えば物理学で超有名なE = mc2も最初は仮説で「なんとなくこうじゃね?」みたいな感じで発表されて、それが証明されたのが何十年もあとの2008年だったという。
 もう答えが見つかるのは天寿を全うして死ぬ時でいいじゃん!・・・と言う難しいことは先送りにしちゃえ理論だ。
 「生きてる意味はある!」
 寝たきりでも生きてる意味はあるし、情報を受け付けずに社会と断絶してても生きてる意味はある。社会になんの役にも立ってないように見えても生きてる意味はある。
 そう改まって言われるとなあ、深く考えると落ち込むね・・・寝たきりで何とも接しないのはさすがに生きてる意味なくね?・・・と世の大半を占める非躁鬱人にとっては想像ができないことかもしれない。これは逆に躁鬱人にはイメージできる事柄だったりする。
 ある意味、鬱状態は躁の時に取り込みまくった情報の整理期間とも言える。悶々と得た大量の情報をマイナスな観点からが多いけど、ぐるぐる回して熟成させている期間とも言える。
 なので、虚無さんに襲われる「意味なくね?」と思われる時間も実は超意味があるはずなのである。
 たぬきは鬱が寛解するときは決まって、寝込んできたときに悶々と考えていた「これって意味なくね?」の山が「あれ?もしかして意味ある?」と繋がった時である。それこそきれいにつながったりする。
 そうすると急に頭が明瞭になり、寛解の道を歩み始めるのである。
 みんながそうだとは限らないが、躁鬱人の方には多少経験があるのではないか。
 寝たきりで暇すぎてぼーっと見ていたネットの記事や動画、山奥に失踪してみたり、墓地で一日過ごしたり、(まあ、今考えても意味があるとはなかなか思えないけれど)どこかでつながって「意味」に帰結することがあるのだ。
 それはすぐかもしれないし、だいぶ後かもしれない。
 なので、鬱状態の時に「意味なくね?」という不安に襲われるこの虚無感は間違いである。鬱状態にやってくる虚無さんは意味があるのである。どこかで役に立つのである。
 これはもう断言してしまおう。
 信じる者は救われる。
 たぬきはお寺や神社に行くけれど特定の宗教を信じていない。スピリチュアルも信じないし、自己啓発本も読むけれど、どこか斜に構えて読んでいる。だけれど、納得したものは信じる。
 多分これは経験則からも信じる部類の事柄な気がするし導き出した答えである。
 虚無感と過ごす日々は必ず意味がある。いつの日か役に立つはずである。
 そう考えると虚無さんは躁鬱人にある意味恩恵をもたらしてくれてると言ってもいいのではないか。これはもう友達である。ちょっと面倒な友達ではあるけれど、少なくともすべてを奪いさるだけの知人ではないはずだ。
 たぬきは虚無さんとお友達になりたい。今は冒頭で言った通り軽躁状態であるからしばらく虚無さんは我が家を訪ねてきていない。
 だけれど、いつかまたひょっこり訪れてくるだろう。その時を見越して、今のうちから虚無さんが訪ねてくるのは意味があることだったんだ!と、もう、そう信じてしまおうと思っている。
 鬱になると必ず訪れる虚無感。今回はそんな虚無感との付き合い方について書いてみました。
 たぬきは双極性障害と付き合うためたくさんの防衛線を張っている。その中で虚無感と仲良くなるのは最後の防衛線。ある意味、信じきる!という精神論といってもいいかもしれない。
 でも、これまでの経験則から導き出した答えである。
 これは躁鬱人たるイチたぬきの経験則だけれど、参考になればうれしい。みんなも試してみて、うまくいったら教えてください。
 たぬきはそんなことをつぶやいた。
 たぬきはこれからふらふらと畑の様子でも見にいこうかと思っている。相変わらず暇期間が続いている。晴耕雨読な生活だ。
 きっとこんな晴耕雨読な日々を過ごしている今も意味のあることなんだろうと思う。
 そう信じて今回はこの辺で。ではでは。
 
 

 

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